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2039年9月 真昼の感傷

「先輩、お疲れ様でした。たまには顔出してください」

「お前も来年の夏、頑張れよ」


 ユニフォーム姿の後輩は軽く会釈して体育館に戻っていった。僕は、もう使わないであろうバスケ部のユニフォームが入った鞄を背負い直し、体育館前の通路から空を眺める。

 オレンジの空は群青と黒が混ざり始め、頭上には一番星が輝いていた。九月に入ってから日が暮れるのが早い。夏が終わろうとしている。

 三年間通ったバスケ部の参加も、今日で終わりだ。

 体育館ではまだバスケ部の後輩達が自主練を続けている。僕ら三年生はチャンスを逃したけれど、後輩たちはこれからが勝負だ。羨ましくないといえば嘘になるが、もう終わったことだ。

 心の中で後輩達を応援しつつ、僕は体育館の壇上に目を向けた。体育館はいつもはバスケ部とバレー部で敷地を半分ずつ使用しているが、今日はバレー部ではない生徒たちが半分のスペースを占有している。

 壇上前には三段組の台座が敷かれ、そこに三年二組の生徒たちが座ってくつろいでいた。彼らは文化祭の演目として合唱を選び、数日前からずっと特訓していた。

 皆が座っているということは休憩中なのだろう。僕はふと壇上の奥にあるグランドピアノを確認する。今は誰も座っていない。トイレでも行ったんだろうか。


「わっ!」「ぅおっ!」


 驚きの声とともに背筋を反らしてしまう。

 たちまち悔しさに見舞われたが、僕は平静を装って振り返る。


「おつかれー春ちゃん」


 腰の後ろで手を組んだ幼馴染は、猫のように目を細めて僕を覗き込んでくる。


「なんでここにいんだよ」

「いま休憩中でーす。あたしも喉渇いてたし」


 真昼は腰の後ろに隠していたペットボトルを取り出す。半分ほどになった中身が揺れていた。


「春ちゃんは部活終わり?」

「まぁ」

「最後、だったんだよね」

「だな」

「そっか」


 隣に並んだ真昼が、僕を気遣うように、ことさらに明るい声で続けた。


「でも、高校でもバスケ部続けるんでしょ?」


 一瞬躊躇う。が、隠しておくこともないだろう。僕は静かに首を振る。


「バスケは中学までにするよ」

「え! やめるの!?」


 予想外の言葉だったのか、真昼は丸い目を更に丸くさせた。


「そろそろいいかなって。高校はもっと面白そうな部活探すか、バイトでもするつもり」


 唖然とする真昼は数回ほど瞬きする。そして、語気を強めて言い放った。


「もったいないよ! 春ちゃん上手なのに!」

「都大会の予選敗退なのに?」

「でもあたし春ちゃんの練習見ててとってもかっ――」


 真昼は急に言葉を中断した。慌てたように自分の口を手で隠している。


「なんだよ」

「な、なんでもないっ。とにかく、バスケ続けた方がいいと思う」

「才能ないなら続けても無駄だろ」

「あるよ、絶対」


 真昼が断言した。瞳は強い光で輝いている。自信に満ちあふれて、可能性を疑ってもいない。

 ああ、そうだ――間藤真昼はこういう人間だ。自分以外の誰かのために一生懸命になって、見捨てることもしない。

 真昼は決してピアニストの才覚だけで注目されているわけじゃない。この真っ直ぐな姿があるからこそ誰にも認められている。文字通り太陽みたいな女の子だ。

 でも眩しすぎる光は周りの連中の濃い影を浮かび上がらせてしまう。平凡すぎる自分を直視させられる。本人に悪気がない分、それは余計に残酷だ。


「……才能ってのは、結果が伴うもんなんだよ。たとえば、ただの反復練習用プログラムなのに、誰かさんの演奏が追体験できるってだけで人気になっちまうとかさ」

「それは――」


 真昼は口ごもる。本人の耳にも届いているから、何を言っているのか理解したのだろう。

 真昼が修学旅行の代わりに参加したコンクールでは、参加者全員の演奏感覚を記録し、イミテイトプログラムとして体験可能になっている。それはあくまで参加者用の訓練用途、あるいは反省材料でしかなかったのに、なぜか巷の一般人がこぞってダウンロードしているという。

 伝え聞くところによれば、真昼の演奏を追体験できるという一点で価値が高まっているらしい。それはまさに才能がもたらす功績ではないだろうか。


「頑張ればできるなんて、軽々しく言うなよ。できなかったらまるで頑張りが足らないみたいじゃないか。そんなの、言われたほうが辛くなる」


 真昼は反論しかけていたが、口を閉じて睫毛を伏せた。

 みぞおち辺りが痛む。傷つけたいわけじゃないのに、なぜこんな言い方をしてしまったのか。

 本当はもっと違うことを伝えるべきなんだ。たとえばそう、部活の最終日だと知ってわざわざ話しかけてくれたことに感謝するとか。

 けどなぜか、真昼の気遣いに反発したくなる自分がいた。


「僕のことはいいんだよ。それよりお前は大丈夫なのか?」


 気まずさに耐えかねて話題を変える。


「あたし?」

「レッスンとかで忙しいのに、文化祭の演目とか引き受けてさ」


 僕が通っている中学校の文化祭では、各クラスがそれぞれ演目を考えて地域の人に披露する。といっても好き勝手になんでもできるわけではなく、音楽・美術・スポーツという枠組みが既に決まっていて、一つのテーマに合うものを考えなければいけない。

 例年ほとんどのクラスが絵や立体物などの美術に逃げる。なぜなら楽だから。

 しかし真昼のいる三年二組は合唱という音楽テーマを選択した。理由は一つしかない。


「二組はさ、たぶん真昼がいるから合唱を選んでる。一応わかってるよな?」


 天才ピアニストの伴奏付き合唱なんて滅多に叶うことじゃない。二組はきっと真昼の能力と知名度の恩恵に預かろうと考えたんだ。

 お人好しな真昼がそこをちゃんと理解して引き受けてるか、心配ではある。


「そうだろうねぇ」


 真昼がにへらと笑う。しょんぼりしていた表情がころっと変わっている。本当に大丈夫かな。


「コンクールの練習とか色々あるんじゃないのか。放課後まであいつらの練習に付き合わなくたって、真昼なら本番一発で成功するだろ?」

「ないない。タイミングや反響も把握しておきたいし、今回はMRだから」


 思い出した。確かこの合唱は、仮想現実を組み込んだMR方式の演目だった。指揮者の生徒だけがカイロスギアを被っているのも、歌の流れと背景の同調具合を確認するためだろう。


「それにね、文化祭で大切なことは、こういうことじゃない?」

「こういうことって?」

「鈍いなー春ちゃんは」


 どこか悪戯っぽい笑みを覗かせながら、真昼は夜の気配を含む空気を胸一杯に吸い込む。


「大事なのは成功するかどうかじゃなくて、放課後まで残って皆と一緒に目的を達成することだよ。中学三年生の文化祭っていう、一生に一度の思い出なんだしね。せっかくなんだから最後までやり遂げたいじゃん?」

「そんな大層なもんじゃ――」


 言いかけて、僕は口を閉じた。空を見上げる真昼の瞳が無邪気に輝いている。ワクワクという言葉がよく似合うくらい、今という時間を本当に楽しんでいた。


 ――そういや、一年も二年も不参加だっけな。


 真昼の生活はピアノを優先に成り立っている。文化祭も例外ではなく、彼女は丸二年分参加できていない。悔やんでいる素振りはあったけれど、翌日にはケロッと元に戻っていからそれほど気にしていないと僕は勝手に決めつけていた。

 もしかすると、真昼はずっと羨ましがっていたのかもしれない。どこにでもあるイベントに憧憬を抱くくらいに。


「わかったよ。でも都合を付けるため無茶な生活したりしてないよな」

「え、まぁ、その……もー春ちゃんてばお母さんかってんの!」


 真昼が強引に誤魔化して僕の肩を叩く。その視線は明後日の方向に泳いでいた。

 僕はため息を吐きつつ、彼女の頭をわしゃわしゃと撫でる。真昼はくすぐったそうに首を引っ込めながら「ぼさぼさになっちゃうよ」と抗議した。


「無理はすんなよ」


 鞄を背負い直して彼女に背を向ける。歩き始めると真昼の柔らかな声が背中にぶつかった。


「ありがとね」


 僕は適当に手を振るだけで、その場を後にした。


 帰り道を歩きながら僕はずっと考え事をしていた。

 あいつは学校生活に憧れを抱き、今を目一杯に楽しんでいる。それは逆に、今ここでしか手に入らないものだと理解しているからだ。いつか日本での学校生活を話したとして、真昼は懐かしさと共にちょっとした寂しさを抱えたりして、そういうこともあったねと目を細めるんだ。

 かたや僕は、今とそう代わり映えのない日常を送るのだろうという冷めた予感から、この景色を大切だと感じてもいなければ未練もない。

 はっきりとわかった。このままだと、僕と真昼の住む世界は異なっていく。

 どうすれば同じ世界に居られる? どうすればあいつと同じ感覚でいられる?

 どうすればあいつの気持ちをわかってやれる?

 生憎と僕には芸術やスポーツの才能はなく、その方面で対等にはなれない。

だけど他にもあるはずだ。真昼の隣に並ぶ方法が。

 この日から僕は、その方法を見つけることに躍起になった。

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