2039年12月 真昼が死ぬ前
なるべく自然に映るように。僕は自分にそう言い聞かせながら中学校の裏門を出た。
校舎を囲む塀沿いの道を脇目も振らずに歩く。その道の角を曲がると左手に正門が見えてくる。誰がいるのか確認はしなかったが、今まさに女子中学生が正門を出てきていることを、僕は知っている。タイミング的にはちょうど、あいつが早退する時間だから。
そして彼女は必ず、僕に声をかける。
「あれ? 春ちゃん?」
少女の高く軽やかな声が僕の鼓膜を振るわせた。
僕は、ギクリ、としたような演技をして立ち止まった。恐る恐る振り返ってみせる。
紺色のセーラー服と首元にマフラーを巻いた出で立ちの少女が、ボブカットの髪を揺らしながらこちらに走り寄ってくる。目元はぱっちりしていて睫毛も長く、瞳も大きい。柔らかそうな頬は丸みを帯びていて、全体的に可愛らしい印象を抱かせる。
だからこそ余計に、彼女の目元の隈がミスマッチで目立っていた。顔色も良くはない。
常とは違う片鱗に僕は、砂利を噛んでしまったような錯覚を覚える。
「ねぇ、なんでここにいるの?」
息を切らせた幼馴染が純粋な疑問をぶつける。僕はバツが悪い風に顔をしかめてみせる。
「見てわかるだろ。帰るんだよ」
「早退? 調子悪いの? おばさん呼ぶ?」
「やめろって。どこも悪くない」
それで察したのか、彼女は胡乱げに目を細めた。
「じゃあなに。春ちゃん、もしかして授業サボるの」
「……悪いかよ」
へぇぇ、と驚きなのか感動なのかわからない声を出した少女は、僕を繁々と見つめた。
「あの春ちゃんがサボりねぇ」
「あのってなんだ。あのって」
「やっぱり男子って不良っぽいことに憧れるものなの?」
突っ込みを無視した彼女は、僕の隣に並んで呆れたような笑顔を向けてくる。
同じくらいだった目線が上目使いに変わったのは、いつ頃だっけ。
「今なら引き返せるけど? 先生も許してくれるかもよ」
「進むしかないだろ、この道を」
「そういう台詞はもっと感動的な場面で使えよぅ」
軽口を叩いた幼馴染はくすくすと笑った。
「それで? サボりの理由は?」
「受験勉強の息抜き」
事前に用意しておいた言い訳を告げる。中学三年の冬は高校受験の追い込みシーズンで、神経質になっていたというのは嘘じゃない。
「そっかぁ……」真昼は眉を曇らせ、僕を気遣うように見つめる。自分のほうがよほど疲れている感じなのに。
「大変そうだもんね、受験。あたしは強く言えないなぁ」
「自分はオーストリア留学が決まってるから?」
「……まぁ、ね。だから皆には悪い気がして。ここ最近は学校に居づらい雰囲気だよ」
幼馴染――間藤真昼はため息を吐く。もしかしてこの心労が顔色の悪さの原因だろうか。
だったら話は早い。そんなの勘違いだと思わせればいいだけだ。
「別に気に病む必要ないだろ。ピアノの実力を認められて本場ドイツからお声がかかるなんて、そうそうある話じゃない。皆そこは同列に比べたりしないし、妬むやつもいないって」
「そう、かな」
微苦笑しているこの少女は、まだ自分の価値がわかっていないらしい。けれどこの中学校に通う誰もが、彼女を別格の存在として認めている。
間藤真昼。僕の幼馴染は、今や国内で注目を集める天才ピアニストだ。
数々のコンクールで入賞した真昼は、はつらつとした明るさと整った容姿もあって多く観客を惹きつけた。ニュースで紹介されたこともある。更に今はちょっと事情が違うというか、以前にも増して知名度が爆発的に上がっていた。
それは、VRソフト『イミテイト』を使った彼女の演奏の追体験が、オカルト的な人気を誇っているからだ。
イミテイト――それはリアルタイムで計測した人間の五感情報を、他人にフィードバックする没入型一人称VR技術のことだ。
元はスポーツ選手のイメージトレーニング用に開発されたソフトだったが、他者の体験や演奏を追体験できることから今では娯楽方面にも市場が展開している。
たとえば航空機パイロットの操縦やサッカー選手のゴールの瞬間を我が事のように味わうのは非常にスリリングな疑似体験だろう。クリエイティブな体験も人気が高く、歌手やダンサーの過去体験は若者層に人気を博している。
それらは全てエンターテイメント用途に調整された、娯楽としてのパッケージ化だ。
真昼は違う。彼女は、天才とはいえまだアマチュアだ。どの事務所にも所属していないアマチュアのピアニストの演奏を収録して販売するなんて酔狂な企業は居ない。
ではどこで真昼の演奏が収録されたかというと、それは本来の目的――つまり、アーティストやアスリートが自分の反復練習用に収録したデータを作っていたからだ。コンクール参加者の参加特典という名目で収録されたそうだが、あくまで個人用のもので娯楽として調整されたものじゃない。当人たち以外には価値のないコンテンツだ。
なのにどこからか流出した真昼の演奏体験は、同世代の少年少女たちの間で密かにじわじわと、口伝やチェーンメールみたく噂が広まる形でオススメされていった。なぜか。
――真昼ちゃんの演奏を体験すると心が安らぐ
――演奏を聞いた後に幸せなことが起こった
――すごくリラックスして、試験がうまくいった
真昼の演奏にはこういった「副産物」がある、とまことしやかに語られている。
そんなものは気のせいでしかないと思うのだけど、芸能人の顔写真を待ち受け画面にすると運気が上がるとかそういう噂の一種として、真昼の名前は全国に広がり、彼女の演奏がずいぶんと追体験されてきた。
実力なのかそうでないのか曖昧な状況に当の本人はかなり戸惑っていたが、そのおかげで有名な音楽企業も真昼の存在を認知しているらしい。今はオーストリアの音楽学校からも留学の誘いが来ていて、彼女は来年から日本を離れることになっている。
運が良かっただけだよ~なんて本人は言っているが、そうだとしても間藤真昼が特別な存在であることに変わりはない。もし幼馴染でなかったら僕なんかが話しかけられないほどの眩い存在だっただろう。
うーんと唸っている真昼だったが、一つ深呼吸すると寒空に向けて「じゃあこうしよう」と明朗な声を出す。
「ここは竹田清春くんの言葉を信じましょう。違ったら春ちゃんに当たり散らすから」
「損するの僕だけじゃん」
「こういうのは役得ってもんよ?」
笑いながら真昼が歩き始める。僕が嘆息して後を追うと、彼女は隣に並んで一緒に歩き始める。昔は当たり前だった光景で、今はどこか懐かしい。
真昼の日常生活はかなり忙しい。今日みたいにレッスンや仕事を優先して早退することは頻繁で、主な学校行事――体育祭や文化祭や修学旅行も不参加のほうが多かった。
今では二人きりになれるタイミングもそうそうない。だから僕は、こうしてサボったふりをしてまで時間を作るしかなかった。
でも、ここまですることもなかったかもしれない。
――あいつら、変に勘ぐりすぎじゃないのか。
真昼と他愛ない雑談をしながら心中で愚痴る。浮かぶのは真昼の友人の女子たちだ。
なんでも最近の真昼は様子がおかしいという。話の途中でぼーっとしていたり、心ここにあらずという感じらしい。寝不足なのか目も虚ろで、昼食も控えめだと心配していた。
それで相談された僕が様子を見る流れになったわけだ。しかし、今の真昼に異常は感じない。顔色が優れないのはレッスン疲れとか公演のプレッシャーとか、それこそ受験をスルーしていることへの気まずさが合わさった結果かもしれない。
そんなことを考えていると、明るく振る舞っていた真昼が急に静かになった。
「……ごめんね、春ちゃん」
そっと視線を向ける。うつむいた横顔は気まずげな色を携えていた。
「多分、心配かけたのかな、あたし」
どうやら、バレバレらしい。さすがにこの偶然の演出はわざとらしかったかな。
「別に。でも、寝不足には気をつけろよ」
「……うん」
か細い返事が耳に届いたそのとき、大通りを渡る横断歩道の信号が赤になった。
僕と真昼は立ち止まる。無言の時間が過ぎる。ちらりと彼女を盗み見る。
瞳に映る感情がどの類のものなのか、よくわからない。真昼の横顔が、常にはない憂いを帯びている気がした。
「そ、そういえばお前のイミテイト。ランキングに載ったんだってな」
僕は咄嗟に別の話題を振った。もし悩み事があるにしても、直接聞くよりはワンクッション置いたほうがいいと思った。
「すごいよな。ただコンクールの演奏を順番に記録しただけなのにさ」
商業用に調整されたプロのイミテイトランキングに、アマチュアの女子中学生のピアノ演奏がランクインした。凄いことだ。その評価の多くはオカルト的な噂の影響で、きっとどこかで圏外に落ちるのだとしても――僕は、決して噂が押し上げたのではないと信じている。
真昼の繊細かつ透明感に溢れた弾き方があるからこそ、この熱狂を生んでいるのだと思う。間近で聞いてきた幼馴染の僕がよくわかっている。
「そのうちイミテイトモデルのオファー来るかもな。ほら、お前の好きなアリシア――」
「やめて」
冷え切った低音、鋭利な視線、明確な不快感――それが、真昼から浴びせられる。
「どうしてそんなこと言うの」
「いや、だって。真昼なら、絶対――」
「そんな話、聞きたくない」
吐き捨てるような声だった。
僕が固まっていると、真昼はハッとしたように目を見開き、視線を逸らす。
「ごめん」
唇を噛んだ真昼がうつむき、前髪で目元が隠れる。
赤信号がチカチカと点滅していた。
「でも、春ちゃんには……」
信号が青に変わる。真昼が逃げるように走る。
僕は横断歩道を渡れず、その姿が消えるまで立ち尽くしていた。
真昼が何に苦しんでいるのか聞き出す機会だったのに、僕はなにもできなかった。
約一ヶ月後、真昼はこの世を去る。