後編
風がざあっと吹き、草むらを揺らしました。座ったままの女は、しばらく男を見上げたままでおりましたが、やがて、その唇に艶然とした笑みが浮かびました。
「……あの方は夜になって、約束の通り、私のアパートにいらしたの」
「夕餉の支度は、終わっておりましたか」
「ええ、私こう見えても、お料理は得意ですのよ。あの方がいらっしゃるまでには、ちゃんとお膳を準備いたしましたわ」
「貴女は彼に、女の話をしたのですか」
「いいえ、でも、あの方の着物の肩には、白粉がついていましたわ」
「あなたは許せなかったでしょうね」
「そうね、私、それを見てかあっとなってしまったの」
女はそう言うと、両の手のひらを膝の上に広げ、まじまじと眺めました。
「……私、お台所の片付けまでは、できていなかったのです」
「おやおや、包丁も出しっぱなしだったのですか」
「いけませんわね。危ないものを、すぐに手の届くところに置いてしまうなんて」
「それから彼は、どうなったのです」
広げていた手を黙ってきゅっと握り、一息置いてから、女は口を開きました。
「……気がついたときには、私の膝の上で冷たくなっておりました」
「刺してしまったのですか」
「ええ」
「彼の躰から、血はたくさん流れましたか」
「ええ……。その血潮だけは、とても温かかったわ」
女は、自分の膝をうっとりと眺め、愛おしそうに撫でました。
「彼はまだ、貴女のアパートにいるのですか」
「はい。私、すっかり気が動転してしまったのですわ。あの方を放ったままアパートを飛び出して、こんな所まで来てしまったのです」
「彼を刺した包丁は、どうされたのです」
「……今日は、川の流れが速いですわね」
女は、渦を巻きながら流れていく、黒い濁流に目をやりました。そこに何かを投げ込んだなら、すぐに呑み込み、遠く下流へと流してしまったことでしょう。
「あの方が悪いの。私を放って、他の女と……」
川面を見つめる女の目には、また、涙がじわりと滲みました。
「貴女はこれから、どうなさるおつもりですか」
「どうって……」
「部屋の中に、彼を放っておくわけにもいかないでしょう」
「ええ、そうですわね……」
女は涙を拭い、少しの間、思案する様子を見せました。
「でも、あの方の躰は大きくて、女の私一人では動かせませんわ」
「では、頭や手足を外してしまってはいかがです。料理は得意なのでしょう」
「まあ……。それは、いい考えかもしれませんわね。まるでサロメのよう」
「サロメのように、彼の首を愛でますか」
「いいえ、私はあの女とは違うわ。あの人の腕も、脚も、髪の一筋までも、全てを愛しているの」
「それは素晴らしい」
女の口調は当初と違って、ずいぶんと親しげに変わっておりました。男と女は、もう昔からの知己でもあるかのように、話を続けていきました。
「……あら、でも、私包丁を無くしてしまったわ」
「朝になったら、良いものを見繕えばよいでしょう」
「そうね。少し遠出になりそうだわ。ふふふ」
身の毛がよだつような話をしながらも、男と女は楽しそうに笑い合いました。ひとしきり笑い終わると、女が少し不思議そうな表情を浮かべ、男に話しかけました。
「……あなた、ここまで聞いておいて、私を警察に連れて行かないの?」
「ふふ。私は、そんなことはいたしませんよ」
「まあ、紳士なのね」
「いいえ。無実の女性を連れて行けば、私が笑いものになってしまいますから」
「……何ですって」
「だって、あなたは人など殺していないでしょう」
男と女の間には、再び緊張が走りました。女は、男に非難するような目つきを向けました。
「……今さら、何をおっしゃるの。私はあの方を刺したわ。今日、私の部屋で……」
「いいえ。失ったのはあなたの心だけ。彼は今頃も、ぴんぴんと生きておりましょう」
「あの方を刺した包丁を、その川へ投げ込んだわ。血がたっぷりとついていたわ。あの方の血が」
女は川を指さし、男を詰るように言いました。しかし、男には動じる様子はありませんでした。
「そうはおっしゃいますが、あなたの着物には、彼の血など一滴もついていない。草の露ばかりではありませんか」
女ははっとした表情となり、自分の着物を見下ろしました。確かにそこには、血の染みなどひとつも見当たらなかったのでございます。
「なぜ、あなたが彼を殺さねばならないのです」
「だって、彼は私を裏切った……」
「彼はただ、腕を組んでいただけです。あなたとは別の女性と」
「そうよ、それは裏切りではないの?」
「結婚を約束していた男女ならそうでしょうね。でも、あなたと彼においては違う」
「どうして……」
「彼は貴女のことなど知らない。貴女がただ、彼の顔に惚れてしまっただけなのだから」
そう男が言うと、女の顔色がさあっと変わるのが分かりました。
「なぜ、自分が酌婦上がりなどと嘘をつくのです」
「嘘だなんて」
「酌婦は、彼と腕を組んでいた女性の方でしょう」
「ち、違うわ」
「思い出してごらんなさい。今日、本当は何があったかを」
女の慌てた口調とは対照的に、男の口調はあくまで平静を保っておりました。それがまた、何やら小憎らしさを感じさせるのでした。
「貴女は今日、偶々彼を見かけた。嬉しくなって、たまらず跡をつけていった」
「そ、そんなはしたないことはしていませんわ」
「彼はまっすぐに十二階下へと向かった。そして彼は、馴染みの酌婦に腕をとられ、銘酒屋に入っていった……」
「違うと言っているでしょう。彼は、素敵なデパートガールと街を歩いていたのよ」
「いいえ。デパートガールは、あなたです」
はっきりと男に言われ、女は言葉を失いました。
「どうして……」
「隠すような生業ではありますまい。貴女の仕事場は立派な御店だし、デパートガールは皆の憧れではありませんか」
「いいえ、いいえ、嘘ですわ。私が銘酒屋で、身体を売ってきたのです。私は、みじめな最底辺の女なのです。だから、彼に捨てられても仕方がないのですわ」
女はいやいやと頭を振りました。
「彼がその酌婦を抱いたのが、それほどまでにも許せませんか」
「な、何を……」
「女といる彼を見たとき、あなたは大層悔しかったでしょうね。自尊心の高い貴女だ。何もしなくても、自分こそが選ばれると思い込んでいたのでしょう。でも、貴女の男は酌婦に骨抜きにされていた」
「違います。何度言ったら分かるの。私が酌婦なのだし、あの人にこんな酌婦はふさわしくないのよ」
「ふふ。それそのように、あなたは酌婦を下に見ている。それなのに酌婦のふりをして、職業婦人である本当の自分が選ばれるべきだとおっしゃる」
男の顔は、相変わらず闇に溶けて見えませんでしたが、にやにやと笑っているような雰囲気が、こちらにまで伝わってくるようでありました。
「相手にされない、それがそんなにも辛いのですか」
女はもう、何も言えないでおりました。いや、何か言おうとはするものの、言葉が喉から上がってこないようでした。その身体はわなわなと震え、手は泥のつくままに、草をむしり取らんばかりで掴んでおりました。
「酌婦のふりをなさるのなら、いっそのこと、あなたも酌婦となればいかがです。そうすればあなたにも、少しは機会があるかもしれませぬのに」
男は、クククと小さな笑い声を漏らしました。
「まあでも、酌婦になれば、それこそお望みの警察に捕まるかもしれませんがね」
女は顔を酸漿のように赤くして、紅が乱れるのも構わず、歯を唇に食い込ませました。
「……酷い人。最初から知っていたのね。女を揶揄うなんて悪い趣味だわ」
「人を殺した、という冗談も、なかなかのものですがね」
女はいきり立って立ち上がり、ぱんぱんと音を立て、着物をはたきました。そして、着物の袖をぎりりと掴むと、男を憎々しげに見つめました。
「女に恥をかかせて……。覚えてらっしゃい、あなたこそ警察に捕まるといいわ」
女は、ぎっと男をひと睨みして捨て台詞を吐くと、闇の中へと駆けていきました。それを追いかけるように、朗々とした男の声が響きました。
「お元気で」
女が去った後、川辺をきつく吹き付ける風が、寂しい音を立てました。男の影はいつの間にやら消えてしまい、後には川の流れる音だけが残っておりました。
私はと言うと、たった今聞いた話に、ただ呆然としておりました。私は今日の夕方に、十二階下の銘酒屋に立ち寄ったときのことを思い出しておりました。馴染みの酌婦は、慣れた手つきで私の腕を取り、店の中へと引き込んだのでございます。その際に酌婦が擦りつけた白粉は、今も私の着物の左肩についておりました。さらに、私は最近思い切って、デパートで万年筆を買ったこともあったのでした。
私は女のことが怖いやら、銘酒屋通いを見られていたことが恥ずかしいやらで、すっかり混乱をしてしまいました。そしてふと我に返り、今もまだ、どこからか誰かに覗かれているかもしれないと思いますと、恥ずかしさと恐ろしさでいてもたってもいられなくなり、逃げるようにその場を去ったのでありました。
そしてその翌日には、あの関東大震災が起きたのでございます。
人々はわあわあと逃げまどい、その様子は、さながら戦場のごとくでありました。この震災で、浅草十二階は8階から上がぽっきりと折れてしまい、十二階下の店たちは、玉ノ井や亀戸へとちりぢりになってしまいました。私もそれきり、銘酒屋通いも夜歩きも止めてしまったのでございます。
サテ、闇に消えた嘘つきで哀れなあの女は、あれからどうなったのでありましょうか。川辺に立っていたあの男は、一体何者だったのでありましょうか。
今ではもう分からないお話でございます。
最後までお読みいただきありがとうございました! 今後もよろしくお願いいたします。