前編
時代考証など、温かい目で見ていただければ幸いです。
時は大正の終わり頃、或る川のほとりのことでございます。
大きく、荒れやすいので有名な川でございました。この頃にはいくつかの橋がかかっておりましたが、江戸に公方様がおられた頃は、橋を架けることが許されず、舟で渡っていたそうでございます。
その頃の私と言えば、夜歩きという悪癖にふけっておりました。夜歩きと申しましても、街灯のある賑やかな通りを闊歩するのではございません。人のいない真っ暗な道を気ままに歩くのを、独りで楽しんでおったのでございます。
その夜も、私は暗くなった土手をふらふらと、明かりも持たず歩いておりました。折からの台風の影響か、強めの風が吹きつけてきましたが、夕方に飲んだ安酒のおかげで、躰はぽかぽかと温まっておりました。川はいつもより嵩を増してごうごうと唸り、その上の空には千々にちぎれたような黒い雲が、強い風に煽られて流れておりました。時折雲の隙間から、女の眉毛のような月が顔を出し、妙に赤いその月と、台風が近づくときの不穏な空気とが相まって、夜の川辺には何とも言えない不気味さが漂っておりました。
今よりはずっと明かりも少ない時代のことでしたから、水の増えた夜の川になど、好んで来る者はございません。しかし、私が土手を少しばかり進みますと、ぽつんと人影があるのが見えました。橋に据えられたガス灯がちらちらと土手を照らし出すと、その人影が和装の若い女のかたちをしているのがわかりました。
土手は高く盛り上がっており、そのてっぺんから川縁までは草の茂った緩い坂となっておりました。女はその坂の中ほどに腰を下ろし、揃えた両脚を少しくねらせ、川の方へと投げ出しておりました。
女の年の頃は、22から23くらいでございましたでしょうか。その日の月のように尖った鼻は、女の気の強い性格を表しているようでございました。しかし、今やその鼻はしゅんと下に向いており、口は堅くきっと結ばれておりました。黒々とした川面はその速さのせいか、常時波だっておりましたが、女は身じろぎもせず、じっと人形のように座り込んでいたのでした。
女が一人、そんなところにいるのも奇妙なことでございましたが、夜にふらふらと歩いている男を警戒されて、警察でも呼ばれてはたまりません。私はなんとなく足音を立てないように用心しながら、土手の反対側に降りました。そこで多少の時間をつぶし、女が去るのを待ってから、散歩を再開するような心づもりでございました。
私が草の間に腰を下ろそうとした瞬間、意外にも話し声が聞こえてまいりました。思わず私は土手にそうっと顔を出し、女の方の様子を確かめました。
「くちなし色というらしいですよ、あんな月の色は」
いつの間にか、女の隣にはもうひとつの黒い影が現れておりました。女の方も気づいていなかったようでございまして、黒い影の方へついと顔を上げました。
「そう」
鉄琴のような、硬い女の声でした。素っ気ないものでございます。一言だけ言って、女はふいとまた下を向いてしまいました。
「ご婦人が独りでこんなところに?」
また、黒い影が女に話しかけたようでした。そちらは、妙に人懐っこそうな声でございました。女ほどは高くなく、しかし、年かさの男にしては高すぎるその声は、若い男のものと思われました。
「警察に叱られたら帰りますわ」
女は男を相手にする気はないのでしょう。今度は顔を動かさずに答えました。しかし、男はまたも女に話しかけました。
「警察の前に、妙な輩が来たらどうするのです」
「どうもありませんわ」
「どうもないことはないでしょう」
「あしらいは慣れていますから」
「ほう」
邪険にされているのは傍目にもよくわかりましたが、男の声は動じる様子がまったくありません。むしろ、面白がっているような声の調子でございました。
「川にでも、飛び込む気なのですか」
物騒な男の言葉に、さすがの女も思わず顔を上げてしまったようでした。しかし、すぐに馬鹿にしたような表情を浮かべ、綺麗に紅を引いた唇の片端だけを、わずかに歪めました。
「そんな、愚かな女に見えますでしょうか」
「ここのところの雨で、水の量が増えておりますからね。飛び込めば助からないでしょう」
「そうでしょうね」
「先日も、一人呑み込まれました」
「お気の毒ですけれど、私には関係のないことですわ」
女はふんと鼻を鳴らすと、もう話しかけるなとばかりに、男から顔を背けました。
「私が去るのを待って、水に入るつもりなのではないですか」
「……あらぬ疑いをかけるのはおよしになって」
「しかし、貴女は今日、失恋されたのでしょう」
女はぴくりと肩をふるわせ、今度は訝しげな顔をして、ゆっくりと男の方を向きました。男は橋を背にして立っておりましたので、その顔は暗がりに溶けて判別もできず、どのような顔つきをしているかは見ることはできませんでした。
「失礼な方ね」
女は、じっと男を睨めつけました。
「お着物が濡れやしませんか」
「……何ですって」
「手巾も置かずに草の上に座るのは、あなたのような淑女に似つかわしくありませんね」
男の言うとおり、女はじっとりと湿った草の上に、直に座っておりました。女は言われて初めて気づいたかのように、はっとした様子で自分の尻の辺りを確かめました。思ったよりも着物に水が浸みているのが分かったのでしょう。ぎっと歯がみして、男に吐き捨てるように言いました。
「……淑女などとはほど遠い、下賤の女だからですわ。だから濡れても構いませんの」
「そうはおっしゃいますが、見たところ、普段はずいぶんと装いに気を遣っておられるようですが」
男の言うとおり、女の着物は当世流行の洒落たものでございました。鏝を使わないとできない耳隠しの髪型も、手間暇かけねば到底できないものでございます。そんな女が自慢の着物を無防備に濡らしてしまうなど、通常では考えられないことでございましょう。
「着物などどうでもいい……そんな出来事があなたに起こったのではないかと、私は思っているのですがね」
「どうぞご自由に、想像なさいませ」
女の声はこころなしか、先程よりは弱々しくなっておりました。
「私は、貴女と話がしたいだけなのですよ」
「女と話がしたいなら、カフェーにでも行かれたら」
「私は女給と遊びたいわけではありません。それに、貴女を女給代わりにして、女遊びを安くあげたいわけでもありません」
「それならなぜ……」
「貴女に興味があるのです」
「何をおっしゃいますやら。貴方は私のことを、何もご存じないでしょう」
女が三たび男から顔を背けようとしたとき、男が言いました。
「失恋した男とは、結婚の約束をしていたのですか」
女はあまりに無遠慮な質問に、さすがに驚いたようでございました。しかし、ここまで来ると、男の目的を図りかねて無視もできずにいたようでございます。目を何度も瞬かせながら、男を見つめておりました。
「……ええ。その通りですわ」
とうとう根負けしたのか、女は男の質問に答えました。
「貴女のような美しい方が、それほど悄悄となさるということは……その男が、他に女を拵えでもしましたか」
「ええ、貴方はしつこいのでもう隠しません。おっしゃる通りですわ。好いた殿方に捨てられるというのは、辛いものですわね……」
そこで、女は睫毛を伏せ、大きな溜息をひとつ漏らしました。
「……でも、これは仕方が無いのです」
「おや。なぜ、あっさりと諦めてしまわれるのです」
「私が、酌婦上がりの女だからですわ」
「ほう。そうだったのですか。では、以前はどちらにおられたのですか」
「隠しません」とは言われたものの、通常ならば躊躇うようなことを、男はよくもまあ、ずけずけと聞くものでございます。一方女は何も言わず、すうっと白くて細い指を、遠く浅草の方角へと伸ばしました。
「では、『十二階下』に?」
「ええ」
当時の浅草には、十二階という高さを持つ、煉瓦造りの美しいタワーがございました。ほんとうの名前は『凌雲閣』などというかしこまったものでしたが、楚々とした美人を思わせるそのたたずまいは人々に愛され、『浅草十二階』などと呼ばれておりました。
しかし、華やかな光の下には暗い影が生じる摂理でございます。浅草十二階の足下には銘酒屋がひしめきあう魔窟が広がっておりました。そこらは、『十二階下』と呼ばれていたのでございます。
ああ、皆様のような紳士淑女のうちには、ご存じない方もおられましょう。銘酒屋というのは、酒ではなく、女を売り物にする店なのでございます。つまりこの女は、かつて『十二階下』の銘酒屋の一つで、春をひさいでいたと申すのでした。
「私はあの方に、身請けしていただいたのですわ」
「それは立派な旦那様だ」
「ええ、あの方はお店に来て私の手を取り、優しい目をして言ったわ。僕の妻になってくれますか、と」
女の脳裏には、その状況が浮かんでおったのでしょう。女は片手を前へと差し出し、幾分うっとりとした目となっておりました。
「私は幸せでした……。一時はあきらめておりましたのに、こんな私でも人の妻となれるのだと……」
「美しい貴女なら、過分な望みではないと思いますがね」
「それなのに、あの方は私を手酷く裏切ったのですわ」
女はしゅんとした表情に戻り、ぽつりぽつりと話しました。女は身請けされたあと、男の借りるアパートに住んでいたそうでございます。男と暮らす日を今か今かと心待ちにしておりましたが、男ははぐらかすばかりで、待てど暮らせど越してくることはありませんでした。
「今日は、久方ぶりにあの方がおいでになる日でしたの。私、夕食を準備しようとお買い物に出かけて……」
「そのときに、何を見たのですか」
「……あの方は、女性と親しげに腕を組んでおりました」
ほろり、と女の片眼から大粒の涙が零れました。
「あの方だけが私のよすがでしたのに。それに、あの方に捨てられては、私行くところもありませんわ」
女は着物の袂から手巾を取り出し、涙を掬うようにそっと拭いました。
「貴女のような方が、自信のないことですね」
「自信など持てるものですか」
「ただの遊びかもしれないではないですか」
「いいえ、私には分かるのです」
女は首を横に大きく振りました。
「……お相手の方は、洋服のよく似合う、美しいご婦人でした。私のような酌婦上がりとは比べものになりませんわ」
「ほう」
「私、あの方が私をデパートに連れて行ってくださったとき、その女性をお見かけしたことがありますの。あの方は、私が隣にいても、万年筆を売る彼女をじっと見ていたのです」
「そうしますと、彼と歩いていた女性はデパートガールだったのですか」
「ええ、立派な職業婦人ですわね……。きっとあの方は、一目で彼女に心惹かれてしまったのですわ」
女はまた大きな溜息をつくと、男をきっと睨みました。
「これで、おわかりになりましたでしょう。私は夢を失い、酌婦に逆戻りになる下らない女でございます。だから、貴方がどなたか存じませんが、ここにしばらく座っているくらいは許してくださいまし」
女は再びうつむき、さめざめと涙を流しました。男はしばらく黙っていましたが、それで立ち去る様子もなく、女の傍におりました。
「貴女は、自分を裏切ったその男をどうしたのですか」
「……どうもしやしませんわ。私が何も言える立場でないのは、お分かりになるでしょう」
「意見することは難しくとも、何かはできましょう」
男の言葉に、女は目元を押さえていた手巾の動きを止めました。そして、おもむろに男の方を向きました。
「……貴方、何をおっしゃりたいの」
「貴女は男に裏切られて、ただ嘆くだけの女性には見えませんのでね」
「まあ……、貴方の目には、どんな女に見えていますの」
「そうですね、貴女は、自分を裏切った男を決して許しはしません。必ずや、その男に意趣返しをされるでしょうね」
「まあ…………」
女は目を丸くして男の方を見ておりましたが、意外にも怒った様子ではありませんでした。女の目は、この無遠慮な男への少しばかりの好奇心を滲ませておりました。
「貴方のおっしゃる通りなら、私はなぜ、こんなところで独り泣いているのかしら」
「それは、貴女の方がよくご存じでしょう」
「私が……」
「さて、もう一度伺いましょう。貴女は、自分を裏切った男をどうしたのですか」
お読みいただいてありがとうございます。次の後編で終わりますので、最後までお読みいただけると嬉しいです。