主従の鎖
「あっ! もうこんな時間。そろそろ帰らないと……」
雨の多い六月下旬の放課後。
梅雨の合間にあった晴れの日に、夏服へ衣替えをした怜治と雪歌が公園の一角にあるベンチに腰を下ろしておしゃべりをしていた。
雪歌の膝の上では猫の姿をしたクロワールが丸くなっていたが、彼女の声に気付いて顔を見上げると、地面へと降り立った。
「あっ、ありがとう。クロちゃんはおりこうさんだね」
雪歌は一旦立ち上がると、しゃがんでクロワールの頭を撫でた。
「ソレじゃ、コレから夕飯作らなきゃだから帰るね」
雪歌が再び立ち上がり怜治の方へ振り向いた。
「いつも大変だな。山中さんは」
怜治が座ったまま気遣うと、雪歌は微笑んだ。
「あはっ、もう慣れちゃったよ。またね、栗原くん。クロちゃんも」
雪歌が怜治とクロワールに手を振ると、公園から歩いて去っていく。
「あぁ。またな」
怜治は手を振りながら、雪歌の後ろ姿が視界から消えるまで眺めた。
……うん。大分、親しくなれてる。
怜治は雪歌を見送りながら、手応えを実感していた。
雪歌と出逢ってから約二ヶ月。
怜治はクロワールの助力を受けながら、雪歌へ積極的に近付いた。
最初こそ放課後の公園でしか話す事が出来なかった。
っが、二週間も経つと学校で雪歌の方から挨拶をしてきてくれるようになった。
中間テストの際には図書館で一緒に勉強もしてくれた。
だんだんとおしゃべりの内容もバリエーションが増えてきたし、怜治も強張らずに自然と会話できるようになっていった。
怜治にとって全てが順調に進んでいた。
コレなら……予定より早く恋人同士になれそうだ。けど……
怜治は不安こそあるモノの、望みは充分にあると踏んでいた。
だが同時に、ひとつ気掛かりな事が浮上していた。
「ほぅ……なかなか良い雰囲気ではないか。コレは告白の日も近いのではないか?」
クロワールは雪歌が公園から去るのを確認してから、幼女の姿へ変貌して怜治に話し掛けた。
「あぁ……自分でも手応えを感じている。多分もうすぐイケる」
イケると思うけど……ソレよりもクロワールの方が気になる。
怜治はこの二ヶ月で少しずつ、クロワールとの協力関係にズレを感じていた。
この恋が進展したと実感するにつれ、クロワールの機嫌が悪くなっている……そう、今だって。
「そうか……もうすぐなんだな」
クロワールが雪歌の去った方を向いてポツリと溢す。
怜治の恋路を好意的に想っている筈のクロワールが、ほんの僅かにだが笑顔に哀愁を漂わせて喋っている。
不機嫌……ってより、悲しんでる……気がする。ホントにクロワールは俺の恋を祝福してくれてるのか?
そして怜治の疑問は、少しずつ不安に変わりつつあった。
いや、そもそもクロワールはどうして荷担してくれて……止めろ俺、変な事は考えるな!
怜治は不安を掻き消すように首を横に振ると、不意に浮かんだ事を口にした。
「なぁクロワール? 何でこうまで協力してくれるんだ?」
クロワールが怜治の疑問に振り向き、顔を見合わせた。
「何でって……怜治が私の主人だからに決まってるだろ」
……はっ?
少し考えてから呆れ気味に答えたクロワールに怜治が呆けてしまう。
「じゃあ……クロワールに他意は無いのか?」
怜治はクロワールに恐る恐る疑問を問う。
「無いに決まっておろう。主人だから協力する、ソレが主従と言うモノだろ?」
ちょっと待てよ! 何だよ? 何なんだよソレ?
クロワールのキッパリとした返答に、怜治が築き上げてきたと思っていた彼女との友愛が音を立て崩れかける。
つまり俺はアレか? クロワールを生き物としてではなく、奴隷か何かとして扱ってきたって……そういう事なのか!?
「ホントに……ホントにそうなのか? クロワール」
怜治は崩れかけた自分を立て直そうと、立て直したいと願って再度クロワールに訊いた。
「怜治……お前も、なかなかにしつこいな」
クロワールが溜息を吐きつつも、窘めるような笑顔で怜治に言い聞かせた。
そんな……
最初こそ煮干しを上げただけの仲だった。
でもソコから一緒に暮らすようになった。
同じ部屋の中で何気ない会話を交わして、一緒にご飯を食べて、一緒に寝て……時には逃げ場を作ってやったり、活路を開いてもらったりもした。
そして……一緒にひとつの恋を発展させていく事を共に分かち合って、ソコから確かな絆を結べていると信じていた。
クロワールが心から祝福してくれている事を……信じていた。
だから怜治の落胆は大きかった。
だったら……
「だったらさ……もう、俺についてこなくていいよ……クロワール」
怜治は途方に暮れ、力無く言葉を溢した。
「……は? 気は確かか怜治?」
クロワールが心配そうに尋ねると、怜治はコクンと頷いて肯定した。
「では訊こう。私無しで一体どうやって……」
クロワールが問い質そうとしたところで、怜治が首を横に振って言葉を遮った。
「違う。クロワール……そうじゃない」
「え? 何が違うと?」
「だって俺が主でクロワールが従者じゃ、お前はただやらされてるだけじゃないか! そんなんじゃクロワールが楽しくないだろ!」
感情のままに怜治が叫ぶと、クロワールが狼狽する。
「なっ……何を……」
「俺さぁ……クロワールはこう、もっと猫のように気まぐれに……自分の思うがままに俺に協力してくれてると思ってたんだ」
怜治の中で、先程見た切なそう表情のクロワールが浮かび上がる。
「だけど実際は俺が命令したから……クロワールはやりたくもない事をやらされていた。ただ、主従だからと言う理由で」
「怜治……」
クロワールが物思いに名前を漏らす。
「俺……そういう風に無理矢理さぁ、他人の自由を奪うの嫌なんだ。だからもう、終わりにしよう」
「えっ?」
怜治がと、クロワールが耳をピンと立てながら一驚して狼狽える。
「コレからは思うがままに、気ままに生きてくれよクロワール。俺の事を変に気に病まずにさっ……じゃあな」
怜治は憂い顔で別れを告げるとスッと静かに立ち上がり、クロワールから視線を逸らして公園から出ようとする。
「まっ……待ってくれ怜治!」
クロワールの切実な……悲鳴のような制止を背中で受けると、立ち止まって肩越しに振り向いた。
するとソコには哀愁に怯えたように俯いている、クロワールの姿が在った。
「……クロワール?」
「少し……少しだけで良い。私に、考える時間をくれないか? 怜治の傍で」
クロワールは俯いたまま消え入りそうな声で、ソレでも必死になって怜治に懇願した。
怜治は踵を返し、正面からクロワールを見下ろす。
クロワールの放つ雰囲気にはどこか陰りがあり、身体は小刻みに震えている。
泣い……てる? クロワールが?
怜治がそう思った瞬間。不意に何かが痛み出した。
もしかして、俺の態度で?
「頼む……怜治。せめて、一晩で良いから……」
クロワールが顔を上げると、泣いてこそいなかったモノの、表情は悲傷に歪んでいた。
怜治はクロワールの表情を確認した途端、何かの痛みが急激に増した。
あっ……そっか。幾ら何でも、ただ主従だからって俺の命令に従ってた訳ないよな。ましてや、そんな理由で一緒に過ごすだなんて……クロワールは賢いけど、まだ生まれて一年とちょっとな訳だし、そういう細かい感情には気付いてなかっただけか。
そう悟った瞬間、怜治は痛みの正体を罪悪感だと知った。
「悪いクロワール。ちょっとムキなって言い過ぎた。ゴメン」
怜治が悪びれた様子で謝ると、クロワールに歩み寄って手を差し延べる。
「……怜治」
クロワールはオロオロと戸惑い、怯えつつも辿々しく怜治の手を掴んだ。
「ゴメン怜治。今日中には……答えを出すから」
怜治は弱々しく謝るクロワールの手を握ると、もう一度だけ謝った。
ゴメンなクロワール……俺の独り善がりでこんなにも傷付けてしまって。
怜治は罪悪感に襲われながら、俯いたまま歩くクロワールの手を繋いで一緒に家へと帰るのだった。
怜治はぎこちない雰囲気のまま家に帰って、何気ない会話をしながら一緒に夕食を食べて、大分遅めの風呂から出て、パジャマ姿で自室に入った時だった。
電気の点いていないカーテンが開け放たれた部屋で、クロワールが満月の昇る夜空を眺めているように佇んでいた。
電気は点いていなかったが、部屋は月明かりに照らされていた為にさほど暗くはない。
怜治には月光に照らされたクロワールの後ろ姿が消え入りそうな程、切なげに感じた。
「……クロワール?」
「来たか、怜治」
怜治が声を掛けると、クロワールが踵を返した。
「怜治に言われてから、私なりにいろいろと考えてみた」
クロワールはとても穏やかに微笑み、ユックリと話を切り出した。
吹っ切れた顔をしてる……でも、どっちに?
怜治は脳裏に悪い予感を過ぎらせると、不意に口が動き出した。
「いやアレは、公園での事は俺がついムキになって余計な……」
怜治が弁解するのを、クロワールは頭を横に振って遮った。
「いや、怜治の言い分はもっともだった。時間は掛かったが、ようやく答えが出たよ」
「答え?」
ドクン、ドクン! と怜治の心音が早鐘を打つ。
コクンと頷くクロワール。
「あぁ。私はやはり怜治の事が好きだ。離れたくない。ずっと傍にいたい」
「そう、かっ」
よかったぁ。
怜治はクロワールから平静を保ったままの告白を聞いて、ホッと心底から安堵した。
安心のあまり、その場にヘタれ込んでしまうかと思うほど力が抜けた。
だが、次にクロワールは気掛かりな発言をする。
「しかしな、怜治と一緒に暮らしていくには少々厄介なしがらみがあってな」
「しがらみ?」
怜治が冴えない声を上げると、クロワールは肯定して話を続けた。
「そうだ。このしがらみが存在する限り、私は怜治と平穏な日々は決して過ごせない」
クロワールは怜治に背を向けると、ユックリと窓を開けた。
部屋に風が入り込み、クロワールの髪とカーテンがユラリと棚引く。
「だから私は、そのしがらみを絶ち切りに行く。断ち切る事が出来れば、私は安心して怜治の傍にいる事が出来るからな」
クロワールは一体、何の話をしてるんだ? とても、深刻な何かの気がするけど。しがらみって一体……
怜治はクロワールの話が重要な事であると肌で感じつつも、肝心の内容が浮かび上がってこない。
「だがしがらみを絶てば恐らく、私はもう二度と人間の姿に変貌する事が出来なくなるだろう」
「え!?」
怜治はクロワールが言い放った推測で衝撃を受けると共に、脳裏にある言葉がフラッシュバックする。
『私は魔女の使い魔だ』
怜治がクロワールと出逢った時に聞いた言葉。
クロワールが猫から幼女へと変貌したのを直に見たからこそ、耳に残った信憑性のある一言だった。
アレか? アレがクロワールの言うしがらみってヤツなのか?
「そう案ずるな怜治。例え会話が出来なくなろうとも、私が傍にいる限り、怜治の事を慕っているぞ」
クロワールはこうべだけ振り向くと、優しく言い聞かすように微笑んだ。
もう、腹は括ってるんだな。
怜治はクロワールの瞳から強い意志を感じとると、自身も覚悟を決めた。
「そっか。でも、少し寂しくなるな」
「どうだろうな? 案外、うるさくなるやも知れぬぞ」
ニヤリと笑むクロワール。
その表情を見ると、怜治も同調して笑った。
「ははっ、行ってこいよ。クロワールの気の済むままにな」
「あぁ。行ってくる。主従の鎖と言う名のしがらみを絶ち切りにな」
クロワールが怜治から視線を外すと、窓枠に足を踏み出した。
「帰ってきたら“ただいま”ぐらいは言えよ」
「その時にはもう、喋れんさ」
「言えよ。ニャーの一鳴きで良いからさ」
「ふっ、承知した」
この一言を最後にクロワールは窓から外に飛ぶと、猫の姿に変貌しながら夜の暗闇に消えていった。
「主従の鎖……かっ」
きっと俺には……いや、クロワールにしか分からないモノなんだろうな。
怜治は言葉を漏らしながら窓の傍へと歩み寄り、外を眺めた。
クロワール。帰ってきたらさ、家族をやり直そう。俺達は多分、そのしがらみのせいで少し関係が歪んでたと思うからさ。
怜治はクロワールが帰ってきた後の事を思いながら、夜道に黒猫の姿を探したのだった。