歪んだモノが憧れた矛盾(せかい)
凄く話は練ってましたが、忘れていた作品です。
あ、懐かしい、とアップしてみました。
世界は本当に狂っていた。
どうしようもなく汚いモノで溢れ、不変の醜悪が跋扈していた。
──人は……いや生物は、というべきか。他者の幸せを食らわねば生きてはいけない。他者の不幸の上にこそ、自らの幸せを謳歌出来るのだ。
そう語ったのは、誰だっただろうか?
もうそれすらももう思い出せない。
余りの狂気と、それが生んだ醜きモノを見過ぎて、すでに理性が麻痺しているのかもしれない。
それとも……認めたくはないが、単に『汚いモノに慣れてしまい、自分も汚れてしまったから』色々と欠陥が出てしまったのだろうか。
記憶や理性、夢や理想。
その全てが意味のない夢幻になり果てたのだとしたら──
それは悲しい事だと思う。
悲しいワケじゃない。『悲しい事なのだろうな』と思うだけだ。
でも……
そんな壊れかけの自分でも、今すべき事、唯一残った『最後まで守るモノ』は分かる。
いや、それだけが分かると言うべきか。
「始めよう……千の呪いを植え付ける儀式を──」
だから俺はなんの後悔も、些細な未練も、僅かな恐怖もなくそう口にした。
暗い暗い城の中のさらに奥。深い深い地下の闇の中で……。
──誰も泣かない世界が欲しい!
そう言ったのはいつの事だったか……
──頑張った人が必ず幸せになれる場所を作りたい!
そう願ったのはいつの頃だったか……
今なら分かる。
それは所詮夢で、理想論というのもおこがましい空論でしかないという事が。
世界には争いが起こるし、貧困による飢餓も起こる。
天災による嘆きはどこであれ起こりうるし、弱者を踏みつける思想は誰にでもある。
そんな事を知らず、世界を知らない子供が……世間知らずなガキが夢見た空想だ。
でもそれを笑う資格は誰にもないハズだと思う。今でもそれだけは断言出来る。
空想であれ、空論であれ、綺麗なモノを笑う資格なんて誰にもありはしない。
綺麗なモノに憧れた子供を馬鹿にする権利なんて、誰にもありはしないのだ。
だから俺は、ずっとそれを胸に抱いてきた。
誰彼かまわず話しはしないけど、胸の中に秘めてきたのだ。
──今、自分の治める国が、蹂躙されようとしているこの時でさえも。
戦わなければならない現実を見据えながらも。
予兆はあった。
戦争が起こりうる土壌は整っていた。
2つの種族と、2つの思想。
2つの教えと、2つの信仰。
この2つ……といっても、種族自体は2つ以上いるのだが、大別して2つの相反するモノがある以上、戦乱はいつでも起こりえた。
人族と幻想種。
ヒュームとファンタズム。
そして、科学と魔術。
これらが並びあってある世界こそが歪だったのだろう。
そんな今までの環境こそがおかしかったのだ。
例え勢力だけを見れば、幻想種の方が圧倒していようが、ヒューム達が半ば従属的な立場にいようが、そんなモノはいずれ壊れるモノだった。
……それが分かっていても俺には関係なかった。
それが出来るだけ長く続いてくれるのなら、それだけで良かった。
幻想種にムチャクチャな要求をされようが、顎で使われようが、笑っていられる世界であれば良かった。
笑って幻想種達の要求をなんとかこなせていれば良かった。
王子である俺の不遇な立場を、臣下達が不満に思っていても、俺自身はそれだけで笑っていられた。
かつて争い合い、最後には敗れた立場であるヒュームは、滅ぼされていてもおかしくなかったのだから。
昔の大戦で、ヒュームは大敗を喫した。
ヒュームの国の大半は滅ぼされ、残った国も規模をだいぶん縮小されたが、それでも生き残れはした。
そんな大戦など、生まれてくるずっと前の事だが、それでもその結果だけは受け止めなければならない。
敗れた種族は、滅ぼされても文句は言えないのだから。
滅ぼすつもりで……たがいに滅ぼし合うつもりで戦ったのなら、こちらが滅ぼされていても文句など言えるワケがない。
少なくとも、俺はそう思い、日々を一生懸命に生きてきた。
幻想種の怒りを買わないように媚びてもみせたし、頭を地面にこすりつけ、慈悲を乞うた事すらある。
王族として、民の負担を減らす為に……少しでも笑っていられるために、泣く人がいなくなるように、出来る事はなんでもやった。
我が国の保護国であるヴェスペル共和国の重鎮に、私兵的に扱われても我慢した。
笑い物にされても笑ってみせた。
泥を啜った。靴を舐めた。地べたを這いずった。
歴代の家宝を売った。尊厳を捨てた。誇りを失った。
でも、それでも良かった。
一番大事なモノさえ見失わなければなんでも耐えられた。
なんでも耐えると決めた。それが喜びだったから、苦痛になんか思わない。
他人からみれば歪な形であったとしても、それが俺の守る為の手段だったから。
だからヴェスペルが他の幻想種の治める国を攻める際も、先頭に立った。
ヴェスペル共和国を作った妖精種と対立する、鬼族が治める『ガイラルギア連合』。
そのガイラルギア連合に組するヒュームの国、グロウト王国。そこを攻め立てた。
同じヒュームの国を、奇襲……騙し討ちに近い形で攻め取った。
ヴェスペルとガイラルギアは表には出てこない、単なる末端同士の『代理戦争』。
それで戦勝国が得たのは『裏切り者』という汚名と、『妖精の番犬』という悪名。
敗残国であるグロウトが得たのは、保護国であるガイラルギアからの虐殺。
ヴェスペルの犬に敗れた『役立たず』。ゴミ以下のヒュームの中でも、特に役に立たないカス。
グロウトはそう呼ばれ、自身の盟主国に潰された。
奴隷として、民のほとんど全てがガイラルギア本国に連れ去られ、王族はムチャクチャな理由を付けられ、公開処刑された。
華麗な王宮は鬼族の『大規模戦術魔法』により灰燼と帰した。
どこで狂ったのか……
ヴェスペルの言う事を聞いておけば、苦しくても笑っていられるんじゃなかったのか……
俺が裏切り者と呼ばれるのは構わない。
犬でもゴミでも好きに呼べばいい。
だが、ここまで必死にやってきた報酬が、民にまでその汚名を着せる事なのか?
ヴェスペルに都合よく死ぬ為の駒と扱われる事なのか?
民に恐怖と絶望を……敗北と拒絶は、汚名を受けた上での死だと知らしめる事なのか?
勝利をしても、次の戦場へと行くだけだと諦めさせる事なのか?
…………これが俺の望んだ世界なのか?
これが、こんな世界が、全てを切り売りした末に得たモノなのか?こんな狂ったあり方、こんなモノがッ!!
だから俺達は……エルドラード皇国は立ち上がった。
全盛期の頃でさえ一度負けた相手に。
敗北の見えた戦争に。
血の滲む想いで、民達に戦いをしいた。
『裏切り者』に対して、どこも援助などしてくれないと知っていたのに。
戦う術がないワケじゃない。
我がエルドラードの科学力、医学、薬学、精神学の粋を尽くした『人体禁学』という禁じられた学問があったのだ。
禁止薬物による感覚強化と、医学による人体異常強化。精神学による思考の強化をした。
武装に関してもなけなしの財を尽くした。
世界に対する恐怖と絶望はすでに極限の値にあったから、兵士達の全てがそれを受け入れてくれた。
『ヴェスペルに一泡吹かせる』
その目的の前に、全ての兵達、将校達、そして民の心は一致していたのだ。
──そう、俺以外の全ての者達の心が。
俺には勝てないと分かっていた。いかに人体禁学を使おうが、武装自体は貧弱なのは否定出来ない。
その差は細々と伝えてきた禁学ぐらいじゃ埋まらない。
大規模戦術魔法──幻想種が使う『魔術』の中でも、数百人が力を高めあい、振るわれる破壊の為の『魔法』。
魔術という個人が使うモノとは違い、魔法と呼ばれるほどの力。
これを使われたら、いかに人体に改造を施そうが一瞬で蒸発する。
妖精種は、幻想種の中でも身体能力自体は高くない。
鬼族などとは比べるべくもなく低い方だ。
我らヒューム種よりも低い。
だが、かの種族は個人の魔術の力が高く、ヴェスペルに従うヒュームや、魔術で呼び出された下僕共に阻まれて、魔法が放たれる前に我が兵達は近づく事は難しいだろう。
魔法を放つには数十分はかかるだろうが、それが放たれる前に立ちはだかる敵兵を突破出来るか。それは冷静に考えれば、否と言わざるを得ない。
我らエルドラードが用意出来る強化兵は2000。志願兵が4000。
対するヴェスペル側は、ヴェスペル本国……妖精種の大規模魔法兵が2000に、魔術兵6000。魔術によって作られた従属達が8000に、奴隷兵が5000。そしてヴェスペルに従う属国の兵が7000。
最大に見積もって6000と、まだ余裕がある28000。
いかに強化兵が強くても勝負になるハズがない。
いや、まともにぶつかりあえばまだ分からない。こちらの戦術次第で勝てない事もないだろう。
──魔法さえなければ。
根こそぎ破壊する大規模戦術魔法さえなければ、だ。
これがあるだけで、我らエルドラードが取れる手段、戦術が限定される。
魔法が放たれるまでに、戦いを決するには力押ししかない。
背後からの奇襲や、有利な陣形形成などは取れるが、戦いが始まれば一気に攻め続けるしかないのだ。
戦いが始まれば敵は即座に魔法を放つ準備を始めるだろう。
それを防ぐには、一気に魔法兵の大半を無力化しなければならない。
しかし、敵は魔法兵を中心に陣形を組み、必死に防衛に徹するだろう。
こちらには時間制限があるのに対し、敵は時間を稼ぐだけでいいのだ。
兵力が違う上、こんな条件付きの戦いでは勝てる見込みなどない。
強化兵だけでは勝てないのだ。
もっと……もっと力がいる。
魔法に匹敵する──かつての大戦時に使った機械兵器並みの力が必要だった。
しかし、それは失われた技術であり、資源なども幻想種に抑えられたいる今では、もうその技術には頼れない。
後は幻想種よりも強い存在、妖精種を超える存在に頼るくらいしかなかった。
古代種と呼ばれる、幻想種の中にある『個』の生命体。
種族に縛られない超越種。
種ではなく、個の生命体。
その力を求めた。種族に縛られないゆえに、その力を幻想種に対抗する我らが借りられれば、この劣勢を押し返せる……ハズだった。
しかし彼等は超越種。
いくら懇願してもヒュームになど力を貸してはくれない。個であるゆえに、幻想種には興味なく、ヒュームにも興味がない生命体だったのだ。
諦めきれず、最後に助力を求めた『黒帝』と呼ばれる古代種以外は。
古代種の中でも、かなり高齢であり、長き生命に幕を閉じようとしていた狼型の魔獣種以外は。
それがこういったのだ。
『我が長き生命の写し身をその身に宿せるか?』
『千年を超える時生きた我が肉を、その身に刻めるか?』
『異物が混ざる苦痛と恐怖。自分が薄れていく喪失感に耐えられるか?』
『失敗すれば……我が体の意志に敗れれば、全ては終わるぞ?』
『お前の生命も、お前の守りたいモノも全てが、我が意志に喰われよう』
そう言ったのだ。
──黒帝が提案したのは、至極単純な事だった。
黒帝の体の一部を人の身に移植する事。
超越種の体を、人の身に……幻想種ですらないヒュームに宿す事。
簡単に言えば移植された人の身を、違うモノに変える事だ。
もちろんそんな手段そう上手くいくワケがない。
同族同士、ヒューム同士であれ、血や体質の一致が必要なのだ。
種族自体違えば細胞が崩壊し、肉が壊死するのが見えている。
だが、共に黒帝を訪ねた側近達ははやった。これが上手くいけば、ヴェスペルにも対抗出来る。
幻想種ではない我らも、幻想種以上の魔法が使える。
そうなれば、強化兵の力もある。負けるワケがない。
──そう喜んだのだ。
それゆえに皆が皆、その移植を望んだ。
自分の身を使ってくれ。
自分の体で試してくれ。
王は今まで散々辛い目にあってきたんだから、ここは我々が頑張る番だ、と言ったのだ。
いかに周りから裏切り者と呼ばれようと、誰よりも辛い目にあって民を守ってきた王は、絶対に必要な方だから。
もし移植が失敗なら、我らを即座に殺し、周りに被害が出ないようにして欲しい。
移植の苦痛に耐えられないようだったら、その時は殺して欲しい。
その後のエルドラードも王さえいれば安心出来る。
そう皆が皆、俺に訴えてきた。
ヴェスペルに連日敗退し、僅か数日で皇都まで攻めつけられたのに……
自らの無能さ、無力さに、俺自身が絶望していたのに。
だから──
「俺の体を使う。黒帝よ、我がエルドラード皇国の王の血で、汝を受け止めてみせよう」
脅えも怯みもなくはっきりとこう言った。最後に残った王として威厳を精一杯込めて。
そう……、今の俺に賭けられるペイ(代価)は、文字通り『身体』と『生命』しかないのだから。
『面白い……。うぬでなければ……もし配下に任せる真似をすれば……うぬら全てを喰い殺すつもりであったが……』
そう語る黒帝に3日だけ猶予を貰い、即効性の薬物で身体を強化し、精神の安定を図る。
そんなモノがなんの役に立つのかは分からないが、反対する部下達の手前、そうする事にしたのだ。
部下達にやるべき事を与えてやる為に。
王である俺にまたも辛い役目を与えた、と悔やむ部下達の心情に配慮して、部下達の望むようにそれらを施した。
話せる事を全て話して、少しでも心の重石を解いてやる為に。
そして──
第一の儀式が始まった。
黒帝『ロンバルディア』の血を飲み、肉を取り込んだ。
移植といっても、切開と縫合によるモノではなく、喰らう形にしたのだ。
黒帝が──今まで喰らうだけの立場だった獣が、それを望んだのだ。
『最後の最後に興が乗った……我が身を受け入れ、力を手に入れられるか。はたまた我が肉に侵され、全てを失うか……弱きヒュームの意地……これを真に見届けるには……我が全てを与えるしかあるまい……』
そう言ったのだ。
──もしうぬの意志が、我の肉に耐えられなかった時は、その肉を喰らってやろう……そう笑いながら。
その儀式は、地獄を極めた。
肉と血を納めた臓腑から灼熱にも似た熱さが広がった。あらゆる苦痛に全身が軋み、脳が焼け溶ける錯覚に、世界が歪んで見えた。
暗い暗い黒帝の居住区……天然の洞窟の床を転がり周り、全身を打ち付けたが、その痛みを感じないほどに全身が異常をきたした。
世界が歪み、グルグルと視界が周り、骨が砕け肉が裂ける錯覚に転がり回った。
この苦痛が終わるなら誰でもいい、助けてくれと願った。
信じてなどいない神に、始めて慈悲を乞うた。
幻想種に踏みつけられ、散々痛めつけられ、強くなっていたハズの心がポッキリと音をたて折れた気すらした。
それでも──それでも『死にたい』と願わなかったのは、本当に最後の意地だった。
侵食していく異物……黒帝の肉、意志に抗えたのは、ずっと願ってきた理想があったからだ。
全てを救えなくても、せめて周りだけでも笑わせていたい。
これがこれから泣く者達の代わりに……苦痛に呻く者達の代わりに、与えられた痛みなのだと思えば、これくらいは耐えてみせる。
いや、どんな恐怖や苦痛にも耐えられた。
無力な俺にはそれしか取り柄がないのだから。
我慢強さしかないのだから。
どれほど続いたか……どれほどの期間、地獄が我が身を苛んだかは分からない。
黒帝の居住区に付いてきた者達を帰し、どれほどたっただろうか?
せめて苦痛に呻く姿を見せたくない……そう思い、供の者達を帰らせた判断は正しかった。
ようやく終わった苦痛に意識がはっきりとしだし、辺りをゆっくりと見渡しながらそう思う。
体は石の床を転げ回り打ち付けたのか、打撲痕だらけで青くなっていた。
あちこちが血に滲み、その血が左目に入ったのか視界が赤い。
そんな俺の前には、息を引き取る直前のロンバルディア。
『生き残ったか……天寿が尽きる前にバカなヒュームを……喰らってやろうかと思っていたのだが……』
そう掠れた息遣いで言う獣に俺は踵を返す。
もうここには用がない。
帰らなければならない場所があるのだ。
『強きヒュームの王……歪んだ心を持つヒュームよ……。汝の名前を聞こう……』
「ユーリィ・カブス・エルドラード」
歪んだ、と俺を表現したソレに、思わず足を止め答える。
自分自身に、その名前を言い聞かせる意味も込めて。
『ユーリィよ……うぬが進む先には2つの道がある……。力を振るい、それにより進む覇道と……その歪んだ心のままに進む王道……』
「俺は──」
歪んでいるのか?思わずそう聞きかけて口をつぐむ。
もしここで……強大なる超越種たる個に、俺が歪んでいると言われたら、はっきりとそれを自覚してしまいそうだった。
認めたくないモノを突きつけられそうだったから、俺は口をつぐんだのだ。
『うぬは……歪んでおる……。いかに配下達に信頼され……敬われようと……な。
うぬ自身もその歪みは……自覚しておろう?』
「…………」
掠れたロンバルディアの声に思考がかき乱される。
その言葉に心が細波立った。
──聞くな。ヤツの言葉を聞くな。そうすれば……聞いてしまえば俺は──
そんな内なる言葉に息は乱れ、心が軋む。
『配下の為に……民の為に……自らを捨ててもよい……?ふっ……そこまで壊れた心は、我が身に宿る力とて……壊しようがない』
「……黙れ」
『……取り込まれた肉より……うぬの心が見えたのだ……。我の肉と血を喰らおうとする……歪んだヒュームの心がな』
「……黙れよ」
蕩々と続く声に、俺は頭をかきむしる。
ここまで苦しいのは、俺が自らの歪みを自覚していたからに他ならない。
『……自らを省みぬモノ……。……自らの価値を見いだせず、他者にそれを見いだすモノ……。……それが偉大な王者の資格だと言うならば……うぬは偉大な王者であろう……』
──生物としては欠陥品だかな……。
そう続けられた言葉に、俺は吠えた。
心の底から吠えた。意味のない叫びを、声にならない声を上げ、ロンバルディアへと叩きつけた。
欠陥品と言われた事に対する怒りの叫びではない。
悲しみの声でもない。
否定する事も出来ない。
それでも否定してみせなければならない気がした。
ロンバルディアの声を認めては、自身が人ではない気がしたのだ。
『……うぬが壊れた理由は……ファンタズムとヒュームの確執か……それとも無力感からかは知らぬ。……だが、うぬのような壊れた生命体が……いかなる末路を辿るかは……予想出来る』
そう言って、巨大なる黒狼はその瞳を閉じた。
──我が力を受け継ぐうぬには、歪んだ王の道よりは、まだ血塗れた覇道を進んで欲しいものだがな。
そう言い残して。
ロンバルディアの亡骸に、暖を取る為に残されていた獣油をかけ、火をつけた。
埋めるには時間がなく、手間もかかる為に火葬にしたのだ。
「黒帝……」
最後の言葉が、俺を思っての言葉だった気がして、小さく黙祷を捧げる。
なんの為に手助けをしてくれたのか……何か下心があったのか……たんなる好奇心によるモノかは分からない。
それでも希望を与えてくれたモノに、これくらいしかしてやれない自分が腹立たしい。
「……帰ろう。エルドラードへ──」
民達が、兵達が、仲間達が待っている。
あの儀式の始まりから、まだ7日以内ならば皇都は落ちていないはずだった。
勝てる戦だと分かっているヴェスペルの進軍速度は、決して早くないし、焦る必要など全くないハズだからだ。
奇襲を受けにくい地形……被害が最小限で済むルートで皇都へと進んでくるだろう。
そのルートを進んだ場合、最低でも7日はかかる。
そして最初の大規模戦術魔法で皇都を覆う城壁を破壊し、次の大規模戦術魔法で皇都の街並みを破壊する。
大規模戦術魔法は、その威力の大きさゆえに連発は出来ない。
一発放った後は念を入れて後退し、1日おいてから次を放つ可能性が高い。
都合、10日近くは皇都は持つハズだった。
儀式を始めてから何日経ったかは定かではないから、急ぐに越した事はないだろう。
ロンバルディアの洞窟脇に繋がれた馬に乗り、一路皇都へと向かう。
繋がれた馬の為に残された飼い葉や水の残量からしても、帰るまでは皇都は持つハズだ。
そして黒帝・ロンバルディアの力を使えば、劣勢を跳ね返せる。
それはロンバルディアの力を、いまだに知らない俺でも確信出来た。
試しに使ってみるべきか、とは思ったが、それをするまでもなく確信出来たのだ。
これがあれば……この力さえあれば、笑いの絶えない国が作れる、苦痛から民を救える。
そう思えば、馬を走らせる身が逸るのがわかった。
「帰りついたら、新鮮な飼い葉をやるから」
そう愛馬を励ましながら、帰路をひたすら急ぐ。
──うぬが進む先には2つの道がある……。力を振るい、それにより進む覇道と……その歪んだ心のままに進む王道……
その言葉が思い出されても──
──我が力を受け継ぐうぬには、歪んだ王の道よりも、血塗れた覇道を進んで欲しいのだがな。
そう言ったロンバルディアの瞳に映る憐憫が気になっても。
皇都は無事だった。
皇都だけはなんとか無事だった……というべきか。
街道沿いにあるヒュームの街は軒並み破壊され、1人たりとも人はいなかった。
ほとんどは皇都に保護されたが、動かせない病人や足手まといになる事を嫌い残ったらしい老人達の死体が転がっていただけだ。
それぞれの手に、貧相な鍬や草刈り鎌を握りしめ、生まれ育った場所を守ろうとした民達の骸があっただけ……
そんな情景を見せられ、自身の心がゆっくりと黒ずんでいく錯覚を覚えた。
そんな者達に無力さと無能さを謝り、これからの戦いにおける覚悟を誓いながら、急いだ先にヴェスペル本軍が布陣していた。
その先にある皇都……崖の眼下に広がる故郷は、城壁を破壊され、その二次災害により、幾つもの家屋が倒壊していた。
そしてその手前には、呑気に夕食をつつくヴェスペル軍。
案外あっさりと覚悟は決まった。黒帝の力を使う事に、忌避を覚えるかと思っていたのに、そんな事は全くなく……
ゆっくりと右手をかざす。
今はその指先に落ち着いたらしい『ロンバルディア』の肉の力を。
「エルルレ・セルストイ(黒鐘の嘆き)」
その言葉の意味は分からない。相応しい言葉が自然と口をついただけ。
巨大な黒狼の姿が自然脳裏に浮かんだのと同時に、その詞が浮かんだのだ。
そして──
そして、それは発露された。
圧倒的な黒い闇の群れ。
闇の塊が点となり宙に浮かび、ゆっくりと群集の上空に群れをなす。
その一粒一粒は爪先ほどの大きさで……空を覆うほどの数が空を舞う。
ヴェスペル軍が慌てふためくのが見えた。
空を見上げ、呆然とする様が手に取るように分かった。
そして、黒点に込められた力が見えるらしい妖精種が、慌てて逃げ惑う姿に少しだけ憐れみを感じた。
──逃げられるはずなどないのに……
そう思ったからこそ、その無様が少し悲しかった。
降り注ぐ力は、この世界の超越種たる『古代種』の中でも、古きモノたる黒帝ロンバルディアの力。
全てを喰らう闇の力だ。
闇ゆえに物理的な壁などを透過し、肉と力のみを喰らう。
この世界の王たるモノの力の断片だ。
阿鼻叫喚が広がる眼下に、俺はゆっくりと体を舞わす。
その爪先に眷属たる闇を作り、それに身を任せるように。
これから起こる戦の被害を減らすために。
ヴェスペルに従ったヒューム族の大半は投降しようとした。
魔術により生み出された従僕は破壊した。
大規模戦術魔法を扱う魔法兵は……全員殺した。
今なら魔法を使われてもなんとかなったかもしれない。
なにしろヴェスペル軍は、『勝てる戦』に来ただけの軍隊だ。
慢心があり、今は混乱の極みにある者が放つ魔法など、黒帝の使う闇の眷属が防いでくれるだろう。
それでも殺した。
2000人の魔法兵全てを、闇を象る羽虫達に食らわせた。
魔術兵も、抗う者も、逃げる者も全て。
10000以上は殺した。
身の代金の金額を叫び投降する者、慈悲を乞う者、怪我をして動けない者……
その全てを殺した。
魔法兵にかかっている間に、遠くまで逃げ延びた者以外は全て殺した。
──ヒュームもファンタズムも関係なく。
遠くまで逃げ延びた者も決して逃がすべきではなく、追いかけて全てを殺すべきだと分かっていたけど、それだけは出来なかった。
これも甘さなんだ、と……
理想に縋っている弱さなんだと分かっていても、それは出来なかったのだ。
ここで全てを殺す事には価値があった。その必要があった。
『エルドラードに手を出せば、全てが殺される』
『古代種の力を受けた王は、敵対者を絶対に許さない』
『あの国には手を出してはいけない』
そう思わせる為だけに……今後この国で戦が起こらないように、全ての弱さを押し殺して冷酷になるべきだった。
それが分かっていたのに、『今逃がした者達は、それを他国に知らしめる為に必要なんだ』と言い訳して、見逃したのだ。
誰も生き残らない方が、よっぽど効果的な宣伝になっただろうと分かっているのに。
皇宮から見ていた兵達が、恐る恐る歩み寄ってくるのを見て……
その瞳に映る感情が読み取れて、泣きたくなった。
分かっていたのに、覚悟していたのに、悲しくて仕方がなかった。
その兵達の瞳に浮かんでいたのは、ヴェスペル軍に対するモノ以上の恐怖で、それがたまらなく心を軋ませる。
ボロボロにされた城壁と、傷ついた街並みを見て──
それをなしたヴェスペル軍を、個である自分が撃退したのを自覚して、はっきりと思い知らされた。
──俺はもう、人間じゃないんだという事を。
ただその兵達の中で、近衛兵団の者達だけは歓喜の声を挙げて、俺を迎えてくれた。
全体の中でもごく少数の兵達だけが。
同じヒュームの国を攻め、エルドラードの民達にすら蔑まれた俺に、いつでも従ってくれた者達だ。
強化兵を作る際にも、率先して禁学へ身を捧げた者達だけが俺の名前を連呼した。
誇らしげに、嬉しげに、勝ち鬨の声を挙げ……その熱気は少しずつ、本当に少しずつ周りの民達にも伝播する。
『滅び行く国の為に、その身を賭けて力を求めた王』
『ヴェスペル軍の暴悪から民を守る為に、神に与えられた過酷な試練を受けた王』
『神に認められたヒュームの救い手』
そう呼ばわり、民達にエルドラードの勝利を実感させてくれたのだ。
神の試練など受けた覚えはなかったが、敵対する幻想種の上位種、古代種の力を受け継いだというよりは、民達の受けがいいと考えたのだろう。
そんな近衛兵達の言葉を受け、敗北と死に震えていた者達の中からも、ゆっくりと喜びという感情が広がっていく。
──我が力を受け継ぐうぬには、歪んだ王の道よりは、血塗れた覇道を進んで欲しいのだがな。
──そう言ったロンバルディアの言葉に苛まれる俺を中心にして。
それから、エルドラードはゆっくりと軍備を拡張していった。
強化兵への志願も増え、一般志願兵達の練度も上がっていったのだ。
その間、何度も攻めてきたヴェスペル軍は、『黒帝』の力を得た俺と歴戦の強化兵で構成された近衛兵団で撃退し……
ヴェスペルの国境付近の城郭都市を攻め落とした。
だが、まだ足りない。まだ力が足りないと痛感する。
俺の力がもっと強ければ……ヴェスペル軍を圧倒できれば、戦いにすらならなかったはずなのだ。
近衛達に犠牲を強いる事も、敵の前衛拠点である城郭都市を攻める必要もなかった。
まだ足りない。黒帝の力だけでは全然足りない。俺と近衛が行くまでに、前衛部隊が全滅する事が多いのは争いが起こるからだ。
俺の力が足りないから──俺と戦っても勝てると思われているから、犠牲が出るのだ。
そう思えば、城郭都市の陥落を喜べない。国中が喜びに湧いても心が沈んでいく。
ヴェスペルの大規模戦術魔法を……最大威力の大規模戦術魔法を食らえば、今の俺はあっさりと消滅してしまうだろう。
一度魔法兵の数が極端に少ない半端な魔法を食らったが、それですら防ぐのが精一杯だった。
なんとかその戦には勝てたが、それは力を無くした魔法兵より、近衛兵団の強化兵の力が強かったからに他ならない。
そしてそれは、その時の魔法兵達の生き残りにより、ヴェスペル本国にも伝わっているハズだった。
城郭都市には魔法兵がおらず、それゆえにあっさりと敵は引いたのだが、そこからも敵の考えが分かった。
『エルドラードの王は不可思議な力を持つが、大規模戦術魔法ならば簡単に勝てる』
『だから充分な魔法兵を連れていない場合は、軍を引けばいい』
『敗北を取り返すのは簡単なのだ』
そう思われているのだろう。
だからこそ、俺は2つ目の力を望んだ。
黒帝ほどの力を持つ古代種じゃなくてもいい。
この際古代種ではなく、強い力を持つ幻想種であれば構わない。
その肉を取り込むしかない。そうすればもっと力が手に入る。
エルドラードが笑顔の絶えない国になる。
どこも傷つけない国、誰とも争わない国になる。
自身の夢見た国に近づくんだ。
そう考え、俺は手に入れた城郭都市の近くに住む古代妖精種に目を付けた。
黒帝との同化時に味わった、地獄の苦痛には目を背けたままで。
それくらいならまだ耐えられる、と自らに言い聞かせて──。
『深緑の鬣』と呼ばれる、妖精種の上位種と目される古代種の住処は、薄汚れた掘っ建て小屋だった。
こんな所にプライドの高い妖精種の上位種がいるのか、と疑ってしまうほどにボロボロの小屋。その庭先には小さな菜園が作られ、普通に生活感の溢れた場所。
そこに俺は『禁忌を犯す為に』来た。第2の禁忌を犯す事を恐れないまま。
供には近衛の者数名。後、人体禁学に長けた医師が数名。
兵達の大半は国元に置いたままで、この超越種の住処へと向かった。
黒帝とは違い、深緑と呼ばれる古代種は俺との同化を拒むだろう。前回、ヴェスペルに皇都が攻められた際も助けを求めたが、彼の古代種は鼻で笑うだけだったのだ。
『俗の妖精種に手を貸す気はないが、薄汚いヒュームなどと馴れ合う気もない』
そう言われたと使いの者から聞いていた。だからこそ、力ずくで従えるつもりでここへきた。それだけに兵達は置いてきたのだ。
どう命じても聞かない近衛の者達だけは、医師達の護衛として連れてこざるを得なかったのけど。
『ふむ、また来たか……。今度はヒュームの王自らとはな』
そう笑う深緑は美しい女性だった。ヒュームよりも長命な妖精種の中でも、さらに長命である超越種らしく、その美しさは圧倒的な威厳を伴ったモノで思わず息を呑む。
金糸のごとき髪と白い肌。碧の瞳からも滲み出る絶対的な知性は、それをより輝かせて見せた。
彼女に向かい合うだけで、自らの矮小さを理解させられる。
彼女に見つめられるだけで、自らの無知を知らしめられる。
そんな思いを抱いたのは俺だけではないらしく、近衛の者や医師達からも戸惑いが感じられた。
『剣呑剣呑。狂った王は次は妾を喰らいに来たか……』
その声も飄々とした響きでありながら、それでもただ美しく──はっきりと警戒感が滲んでいた。
その視線を真っ直ぐに俺へと向け、後ろに控える者達には目もくれない。
美しさに圧倒されながらも、1人動揺していない『同種』へと向けられていたのだ。
彼女には俺の目的が分かっていたのだろう。それでもこの場に留まっていたのは、黒帝の力を取り込んだとはいえ、ヒュームなどには負けないと思っていたからか、あるいは古代種という超越種ゆえの誇りかは分からない。
それでも、間に広がる空間はゆっくりと……しかし確実に緊張感を増していく。
「深緑のファウエル殿……だな?アナタに力をお借りしたい」
そう最初に断る俺にも
『礼をわきまえん男よ。まずは自ら名乗らんか。それにその件は一度断ったハズだが?』
そうたしなめるように言いながらも、その美しい笑みを深くしていく。
おそらく深緑の古代種にも、黒帝の力を手に入れた俺には勝てないと分かっていたはずだ。
俺自身が深緑には負けない、と戦う前から分かっているように。
確かに人の身ゆえに、黒帝そのモノより使える力もかなり劣っている。それでも『黒帝』と『深緑』では、元々の力が違うのだ。
天寿を全うするほどに古きモノである黒帝と、まだ若く力も未熟な深緑では力の差は圧倒的だ。
その差は、人の身と古代種の違いすら埋めきれないモノだ。
だから俺ははっきりと……しかしもう警告ではなく、宣戦布告の意味を込めて口を開いた。
「ならば力ずくで従えよう」
俺が感情を押し殺し、そう言った言葉が合図となった。
──それは、有史以来そう何度もなかったであろう、古代種たる力を持つモノ同士の……殺し合いの始まり。
古代種達は、万物の超越種たる存在ゆえに、他の生物との無益な争いをしない。食う為の狩りならいざ知らず、古代種同士が争い合う事などそうはないだろう。
互いが超越種である為に、お互いの領分は侵さない。互いが強大な力を持つと知るがゆえに、自身が傷ついてまで争う事などないのだ。
その不可侵が破られた。
ヒュームという被支配層である種族の長である俺によって。
それを感慨深く思いながらも、俺は即座に闇を展開していく。供の近衛兵達も、医学と薬学の粋を尽くして強化された歴戦の猛者達である。本能的な恐怖……圧倒的な存在を前にしても、素早く周囲に展開していく。
数名は医師達を下がらせ、残る者達は俺を中心に扇状に『ファウエル』を囲む。
『ふむ……。王がいかに狂っていようが、部下達はよく鍛錬されておる』
そう言うと彼女は愉快げに碧の瞳を細め──
次の瞬間、ファウエルを守るように茶色の蔦が、太い木の根が近衛達に襲いかかった。
『しかし妾の前に立つにはまだ役不足……。剣ではなく、ヒュームお得意の火器でも持ってくるべきであったな』
そう言うファウエルは楽しげで──
「エルルレ・サル・メロイ(黒鐘の断罪)」
その彼女に、彼女を守る太い根に、闇の眷属が形作る刃の群れを放つ。
無音で群れる羽虫のように蠢く闇の子達が、母を守ろうとするように暴れまくる木の表皮に穿たれる。
それは緑と茶の煌めきと、深き黒の闇のせめぎ合い。嘲笑に似た笑みを浮かべるファウエルと、無表情な『狂った王』のぶつかり合い。
周りでは、前後左右から迫る緑の眷属から、自らの主君を守ろうと近衛達が得物を振るい、猛々しい雄叫びを上げている。
小枝が皮膚を破こうが、眼球を打とうが怯まない配下達の姿は心から誇らしく……とても悲しい。
守る必要などないのに、無力な王など守る価値がないのに、俺は多くを守る為に、たった一つの個を喰らう外道でしかないのに。
そして守られなくとも傷など負わないのに。
必死にその身を楯とする近衛達の姿は、俺を追い詰める。
俺を苛み、傷つけ、貶める。
そんな俺の心情など関係なく、闇は緑を犯していき、荒れ狂う。その様を彼女は落ち着いた様子で眺め……小さく息を吐いた
『……勝てぬか。いかに、黒の者の呪縛があれ、狂った王と刺し違える事すらかなわぬとはの』
そう言って、ファウエルがその瞳を閉じた瞬間……我が黒き眷属がその身を貫いた。
戦い自体は一刻もかからず終わった。ほんの短時間で、辺りの緑は蹂躙された。
闇に打たれ、呻くファウエルを守ろうと、木の幹や根は荒れ狂い、その葉や花弁は宙を乱れ舞う。その様は自然の猛威そのモノで……
俺の周りにいた者達を弾き飛ばし、数名の近衛兵達の命を吹き飛ばした。残る者達も、それぞれ瀕死の重傷で……その中でただ1人、『狂った王』だけが無傷で佇んでいる。
そう、近衛兵達が信頼を寄せる『狂った俺』だけが。
『……まさか、手傷1つ付けられんとはの。……よほど……その力はお主に馴染んでおるらしい』
「お前もすぐにこうなる。こんな風に俺の中に沈むんだ。古き者よ」
俺自身意外だった。正直向かい合うまでは──力をぶつけ合うまでは、良くて6対4くらいの勝率だろうとさえ考えていたのだ。だからこそ、楯にしかなり得ない近衛兵達を連れてきた。確実に勝てるのなら、少し離れた位置で待機させていただろう。
だが結果はあっさりと出た。
脂汗をダラダラ流し、倒れ臥す美しき古代種に対し、俺はまったくの無傷。
こんな結果が出た以上、『狂った王』という呼び名は控え目な称号だとすら言える。
──化け物という呼び名でないだけ、まだ人らしい呼び名だと思うから。
「禁学医師よ。ただちに術式に入る。準備を」
倒れ臥す美しき古代種には目もくれず、ただその四肢を闇で縫い止めながらそう声をかけた。
ファウエルが美しき女性である事など気にはしない。若く見えても気にならない。
今からする事は、人の生命を取り込む事。
もっと言えば、『人を喰らう事』に他ならない。
そこに『若さ』や『女性』などといった付加価値などを入れる必要は、ありはしないのだ。
『我が目を持っていくがよい』
そう語るファウエルの言葉に異存はなかった。彼女の力の源が、その緑の瞳である事が分かっていたからだ。
彼女の美しさ、そして僅かな罪悪感に戸惑う医師達を下がらせ──
「遠慮なく貰っていこう」
そう一言だけを呟き、瞳をえぐる。右目の眼下に闇が浸透していき、それが視神経ごとえぐったのだ。
それでも彼女は僅かな苦悶の声を漏らすだけで、震える口元を歪めるだけの笑みを浮かべた。
『……狂った王よ。汝が行く道は壊れ果てた道か、血濡れた道か……その片目となり見据えてくれよう』
「……代わりに我が目、これまで世界の半分を見てきた瞳を置いていく。代償などと安っぽい事は言わん。必要ないからくれてやる。上手く適合すれば今までの営みは繕えよう」
そう言って今度は自らの右目へと、闇をえぐらせた。呻き1つ上げる事なく。
痛みは文字通り激痛というに余りあるモノだったが、それでも声を上げる真似だけはしない。
これは『個を犠牲にした罰』。これからも背負う罪の象徴。
今の時点で痛みに嘆くのは早過ぎる、自分の罪には全然見合わない……そう思ったからだ。
「王っ!!」
心配げに駆けてくる医師達、なんとか体を起こそうとする生き残った近衛兵達を、軽く腕をあげるだけで制し、闇に包まれたままの『碧の眼球』を、深い穴が穿たれた眼下へと差し込んだ。
脳髄の奥まできしむ痛みが走り、引きちぎられた神経が繋がっていくのが分かる。
視界が明滅し、世界を赤く染める。血と闇に染まった赤……これから進む道を示すような赤に。
「こっちは自分でなんとかする。ファウエルに目を繋げてやれ」
それだけを言うと、自らの体を黒い羽虫共で覆った。自分自身を隔離するように……。
これから始まる本当の苦痛を、誰にも見せないように。
世界が黒に包まれる前に、地面から覆っていく闇の隙間から覗いた、透けるような青空に最後に目をやってから。
──二度目の地獄も、一度目のそれと変わりなかった。闇で覆われた世界で、俺は無様にのた打ち回った。
誰にも憚る事のない世界(場所)で、煉獄の業火に焼かれるような痛みに耐え続けた。
もし、見える場所に何かがあったなら……世界が自らの『黒い世界』に包まれていなければ、多分それを衝動のままに破壊していただろう。
この痛み、この苦しさ、理不尽さ、不条理さ……その全てを知らしめるかのように、残酷に……無惨に壊していた。
「ッ────」
もう声も出ない。枯れ果てた喉からはヒューヒューと掠れた息のみが、甲高い笛を思わせる音色で漏れ出ている。
その音が、黒一色の世界に似合いの、死の風音を思わせ……それが、自らの喉を震わせ漏れ出た音だと気づいて、喉をかきむしった。
ただ本能のままに。縋るように喉へと指先を食い込ませる。
その音が耳障りなワケじゃない。
その音が憎いワケでもない。
単にそれぐらいにしかこの地獄に対する憤りをぶつけるモノがなかったから。
自身の体ぐらいしかこの苦痛を分かち合えるモノがなかったから、俺は自らの喉に爪を立てる。
その考えが可笑しいなんて思わない。
自身の苦痛に対するの八つ当たりを、自分にする事が矛盾だなんて思わない。
だって今この場所には『俺しかいないのだから』。
むしろ喉の痛みが、他の痛みを緩和してくれているような錯覚すら覚え、恍惚としたモノを感じながらもひたすらにかきむしる。
子供がかさぶたを戯れに剥がすように、傷口を弄くるように、ただひたすらに傷口を広げていく。
それでも『黒帝』の高い治癒力が、傷つけた側からその傷口を癒着させていき……半ば意地になって夢中でかきむしった。
自分の中にある古代種、黒帝の力による治癒力に対抗するように。
気付けば、眼下にあった焼けた鋼が差し込まれるような激痛は薄れていた。
代わりに残ったのは染み込むような鈍痛と、うだるような虚脱感。
そして1つの言葉──
『我が力を受け継ぐうぬには、歪んだ王の道よりも、血塗れた覇道を進んで欲しいのだがな』
──ロンバルディア。どうやら俺が行くのは王の道でも覇者の道でもないらしい。
内に刻まれている言葉にそう独りごちて、小さく口元に笑みを浮かべる。
今みたいな脳髄に響く、後を引くような痛みには覚えがあった。そう。最初の地獄の責め苦の終わりと良く似ている。
この指先に黒の力、古代種の呪縛を宿したあの刻に。
そう思い至った後、深い実感が胸に浮かぶ。
──これは地獄の終わりじゃない。
──これは次なる地獄の始まりで
──この痛みの残滓は、3度目の地獄への道行きでしかなく
──俺が完全に壊れるか、人の意識を失うか、さもなくば……
《世界が俺の理想通りに狂ってしまうまでは終わらない》
そう、だからきっと俺が行く道は……王や覇者のような、まだ人と分類される存在が行く道じゃないだろう。
『誰も傷付かない世界』
『誰も泣かない世界』
『みんなが笑える世界』
そんな歪んだ空論が作った矛盾の世界。
その『誰か』や『みんな』に、『自分自身を含んでいない時点』で、そんな世界は……自分自身が破綻している事にはさすがにもう気付いている。
その原因にも心当たりがある。
父・先代の王が原因なのだろう、と。
自らの快楽を求めただけの父。醜悪な『民に寄生する虫ケラ』……ファムル・レム・エルドラード。そんな名前の堕落したゴミの姿が、俺の歪んだ理想が産まれる胎盤となった。
あんな醜い存在にはなりたくない。民をヴェスペルや他の幻想種達に《魔術や魔法用の生贄》として差し出し、その血で築かれた玉座の上で享楽に耽るブタ。
それを嫌悪し、憎悪し、拒絶し、否定しすぎて、今の自分があるのだろう。
それが今の俺には分かる。
ロンバルディアの影響か、はたまたファウエルの影響なのかは分からない。ただ、自分も父と同様に歪んでいるのだけは自覚出来る。
自分も結局は歪んで壊れた人間なのだ、とハッキリ分かる。
認めたくはないが、やはり血は繋がっているのだろう。
その方向は全く真逆だとしても、同じように欠陥品だ。
それを実感し、その実感が胸にストンとはまった後……それでも俺は、自分の憧れた世界──破綻した理想の世界が美しいと思える事に気付いた。それを諦めきれていないと気づいたのだ。
そこにもし自分のような『歪んだ存在』、『欠陥品(歪んだ王)』が一点混じっていても、その世界は美しいのだろう……そう思った。
ならば──ならば俺は王の仮面を被る他ないではないか。
その上で覇者の道も選ぶしかないだろう?
憧れてしまったのだから。
それに縋ってしまったのだから。
今でも……そう、今の俺でもその世界が綺麗だと思うのだから。
今の矛盾を変えるには……世界を今と違った形に歪ませるには、まだ力が足りない。
まだまだ足りない。
まだまだまだまだ全然喰い足りていない。
今の自分には、自身を犠牲にし続け、自らの民だけを一時的に守る王の道か、いまある力と禁学で、血で血を拭う争いの末に国を強く大きくする覇者の道しか持ち得ない。
王の道を選ぼうと俺が死ねば国は傾く。覇者の道を行こうと、より大きな犠牲を強いて一時代の平和しか得られない。
王では破綻は変えられない……
覇者で矛盾を正せ(歪めら)ない……
もっとだ。そう渇望する。もっと強くなればいい。
もっともっともっともっとッ!!
ずっとずっとずっとずっとずっとッ──!!
世界がずっと1つであり続けるだけの力を持てばいい。
俺が死ぬまでに、世界を1つにすればいい。
魔法も魔術も科学でさえも寄せ付けない、歪んだ世界にすればいい。
そこに辿り着けば……
そこからが《理想》の始まりだ。
天災や飢饉などが起きても、それを抑えられる力を持てばいい。
そこまでいけば──そんな力を持てば、そこからの世界は矛盾が矛盾ではなくなる。
狂っていても美しい世界がただ美しいだけの世界になる。
ただ一点、『俺』という汚濁が含まれただけの、綺麗な世界が出来上がる。
俺の歪みも受け入れられる。自分を貶めても、他者を気遣うのが当たり前の世界になる。
弱き全より強き個が優先される世界は形を変えるだろう。
スッと辺りを覆う闇が消えていく。心の迷いと同じくして俺を隔離した黒の膜が晴れる。
……そうだ、すべき事は決まった。そう思う。
まずは地盤たる大陸東部を手に入れる。争い耐えない地域をエルドラードに組み込む。
そうすれば、大陸でも随一の勢力と国力が手に入るだろう。
理想を描く為のキャンパスに大きな軌跡を残せる。
それで──我がエルドラードの国力をもって、国同士が争う事を止めてくれれば、絵の具の用意も出来た事になる。
勢力を背景にゆっくりとエルドラードから『歪みを広げる』。
他の地域……大陸北部や西部を飲み込むほどに。
「王っ!ご無事ですか!?」
世界を正すなんて思ってはいけない。あくまでも自らのエゴで『世界を歪める』。
空論に沿う形で、世界を歪めると考える。
その為にはまずは東部の覇権。足りなければ北部もだ。それでも足りないならば、大陸を手に入れればいい。
「城に帰るぞ」
「……王?」
何故か不思議そうに……そしておののくように、近衛達が顔をしかめる。
それに小さく笑いかけ、俺はこれから進む道をハッキリと口にしてみせた。
宣言するように、宣誓するように。
そして──
「ヴェスペルを攻め落とす。その次はガイラルギア。そしてグレートノア……エルドラードに敵対するモノ全てを打ち倒す」
俺が歪んだ世界を夢見た代わりに、これから傷ついていく者達へと懺悔するように。
これは後に『千の呪いを受けた王』と称された、有り得ない理想を目指した男の序章である。
後の世の歴史家達に『黒帝』『魔王』などと呼ばれ、エルドラード皇国をエルドラード・ロンバルディア帝国へと変えたこの男は、大陸東部の覇権を目指し国土を急速に広げていったと言われている。
その異常な体質……他者を取り込んでも身体機能が壊れず、その力を自らのモノと出来たこの王は、それゆえに人外のモノ、暴君だと見なされがちである。
だが、彼が非常に人間味のある名君であった事を知る者は少ない。
大陸の覇権を狙った北部の大国、グリュンヒルデ王国の女王や、西部の連合国家パルワーズ連邦の総統も、その力と人格を認めていたという記述もあるほどだ。
後にこのローラディア大陸の覇権を巡る三者であるが、それぞれが元は別の大国に所属する小国の出である事や、それぞれが異能者である事、国の滅亡の危機を救い、一代で大国へと成長させたなどそれぞれ共通点も多い。
それゆえかそれぞれお互いを認めていた節が見える。
古種捕食者、黒帝ユーリィ・カブス・エルドラード
魔剣使い(ソードマスター)、剣の姫ベルテロット・クロン・グリュンヒルデ
百眼の皇、赤眼クロムウェル・クロム・テスタロッサ
それぞれが生まれつき、あるいは後天的な異常能力者達であり、それぞれが1軍に匹敵する魔人、あるいは古代種である。
後の大戦により世界が今の形で落ち着くまで、この三雄が世界の中心であった事は語るまでもない。
では、彼らが本当に異常な力だけが特筆されるような人物だったのか?争いを顧みなかった暴君なのか?覇権の魅力に取り憑かれた人物だったのか?
私はそれを調べ続けてきたのである。
……私の調査がいずれ、今後の歴史家達が真実を得る役に立つ事を願い、この書を残す。
真実の歴史は後の世に色々と語る。かつて起こした大きな過ちは繰り返すべきではなく、真摯な願いは後世に伝えていくべきモノなのだから──。
To.be.continue──。