8.<喜び>のキーワード
「<喜び>のキーワードは<イルカ>ということですね」
大切なものを預かるように沢村巧は言った。プライバシーに関わるということで彼は朝から一人ずつヒアリングをしていた。ようやく順番の回って来た私は、そのキーワードにまつわる詳細を彼に話した。聞かれて困るような話ではなかったが、少し恥ずかしかった。彼はしっかりと私の話を受け止めていた。彼は話し手を安心させる何か特別な才能を備えていた。
「キーワードを唱えることで表情を切り替えられるようになるのでしょうか?」
私は<エモーション・ジェネレーター>の仕組みをきちんと理解しておかなければならなかった。何が脅威になり得るのか? その仕組みはどうなっているのか?
「そうですね。必要時に確実に切り替えることと簡単に切り替えることとは相反していますね。不要時に切り替わってしまうと大変なことになってしまうかもしれません。ですからまず<エモーション・アナライザー>の対象になっていることを検知しなければなりません」
「そんなことが可能なのですか?」
その方法はなんとなく察しがついたが、探っていると思われないように注意する必要があった。
「<エモーション・アナライザー>はいくつかのパーツから成り立っています。対象の表情を捉えるカメラ、画像を解析するシステム、解析した結果を表示する画面。結果はスマートフォンにもパソコンのモニタにも表示できますが、それを見ながら対面で会話はできないのでスマートグラスが使われることが多いです。スマートグラスは解析システムを内蔵していることもありますが、カメラまで内蔵することはできませんので無線で接続する必要があります。さすがに有線でカメラとスマートグラスを接続することはありません」
「それはそうですね」
「<エモーション・ジェネレーター>はまず周辺の電波環境を調べます。すぐそばで一定の出力以上の電波が検出されたら、目の前の相手が何か企んでいると考えて間違いないでしょう」
それは盗聴器や盗聴カメラを検出するのと同じ仕組みだった。私自身も何度かそうやって調べたことがあった。
「<エモーション・ジェネレーター>には単調な音の発生パターンが何種類か用意されています。音の発生パターンは各々の<感情のキーワード>と訓練によってあらかじめ紐づけておきます。<エモーション・アナライザー>が発する電波が検出されるとその音が順番に出力されます。それは聴覚検査で用いられるようなとても小さな音です。何もしなければ最後のパターンの音が出力された後、最初のパターンの音がまた出力されます。表情に接続したい感情と紐づけた音の発生パターンが出力されている時に<エモーション・ジェネレーター>のスイッチを操作して発生パターンを固定します。そして<感情のキーワード>を思い浮かべます」
そうすると音が出力されている間、<感情のキーワード>に呼び出された記憶が表情と結び付けられるようになるということだった。<エモーション・ジェネレーター>という立派な名前がついてはいるが、それほど大がかりな仕掛けがある訳ではなかった。それから私は<喜び>の表情を作り出す訓練に取り組んだ。沢村巧はスマートグラスを装着して向かい側の椅子に座っていた。対抗するシステムを構築する上では必要不可欠のことだったが、彼は何処からか<エモーション・アナライザー>を入手していた。ポケットに潜ませた<エモーション・ジェネレーター>が<エモーション・アナライザー>の発する電波を検知していた。しばらくして、聴覚検査で用いられるような小さな音量の発信音が聞こえて来た。私は心の中で<イルカ>のことを考える。イルカがジャンプしている。波しぶきがあがってキラキラ輝いている。大勢の人の歓声が聞こえる。父が隣で微笑んでいる。
「江田さん、今の感じです。<喜び>の感情が読み取れました。でも、江田さん自身も楽しい記憶の中にいるようで、これだと会話にならないですね」
ただ思い出すだけでは、ダメだった。思惟と独立した表情を作り出すことなんて本当にできるのだろうかと思った。