6.研修
見渡す限り緑の芝生が広がっていた。自家用車での来場はできませんということなので、一日に数本しか発着のないバスに乗ってやって来た。隣はスキー場のようだった。シーズンを外れたリフトが寂しそうにしていた。携帯の電波も届かない閑散とした人里離れた山の中。ここで研修が行われるということだった。三十名くらい収容できそうな部屋に横長の机とパイプ椅子が並べられていた。私は前から三列目の席に座っていた。扉が開いて講師と思しき人物が入って来た。
「初めまして、本日の講師を務めさせてもらう沢村と申します。よろしくお願いします」
どうやらターゲットのようだった。意外に早く接触できて私は少し拍子抜けした。簡単な自己紹介の後、沢村と名乗った講師は<エモーション・アナライザー>の脅威について語り始めた。
「皆さんの感情は周囲の状況に応じて常に変化しています。たとえば、皆さんの目の前にライオンが現れたとしましょう。皆さんの身体は恐怖を感じて身体全体がすくみます。恐怖という感情によって筋肉の状態が変化するのです。その変化は顔の筋肉にも及びます。それが恐怖を感じた時の表情となって現れます。<エモーション・アナライザー>はあなたの顔の画像データを取り込み、筋肉の微細な動きを解析して、あなたの感情を読み取ります。置かれた状況によっては感情が表情に出るのを隠した方が良い場合もあるでしょう。ですが先ほど説明しましたように表情はあなた自身の意思で制御できるものではなく、身体の状態がうっかり外に出てしまうといったものなのです。人間が読み取れないような微妙な変化であったとしても<エモーション・アナライザー>は検出してしまいます」
<エモーション・アナライザー>の性能については組織で事前に確認させてもらっていた。感情をそっくり読み取られてしまうのは事実のようだった。生体に組み込まれている感情や表情は進化の末に獲得された機能であり、意思の力で変えられる類のものではなかった。私たちは普段、やたらと精神の力を賛美しがちだが、実際には遺伝子という精密な設計図によって身体の隅々の材質や形状を細かく指定され、さらに神経系によって各々の機能部位が密接に連携した有機物の総合体だった。だからその仕組みを利用するシステムの前では、あっさりとその本質を見抜かれてしまうことになる。
「そうした脅威に晒されている私たちにとって唯一の身を守る手段が<エモーション・ジェネレーター>の活用なのです。それは<エモーション・アナライザー>が検出しようとする私たちの感情を別のもので置き換えてしまいます」
それが身体の状態と異なる表情を作り出すということなのか? 私は説明を聞き洩らすまいと講師をまじまじと見つめていた。髪を短く刈り上げ、笑顔を絶やさず、説明は丁寧で誠実な印象を与える男だった。顔立ちもそれなりに整っていた。もう少し服のセンスが良ければ、一回くらいはデートしてあげても良いと思った。
「別のもので置き換えるというのはどういうことかと言いますと、たとえば思い出し笑いのようなものです。かつて体験して楽しかったことを今、思い出して笑うというのと同じです。かつての記憶と表情を直結させるのです。そのために皆さん一人一人の記憶を活用することになります。<喜び><悲しみ><怒り><恐れ><嫌悪><驚き>あらゆる感情について表情を作り出そうとするなら、各々の感情が最も強く結び付いた記憶が最低一つ必要となります。プライベートなことに立ち入ってしまうかもしれませんが、その話を聞かせていただきたいと思います。そしてその記憶を呼び出すのに最も効果的なキーワードを一緒に考えたいと思います。キーワードが決まれば、切り替えがスムーズに行えるよう訓練することになります」
今日の研修はこれまでだった。明日までに<感情が最も強く結び付いた記憶>を用意してくださいということだった。そんなことを簡単に言われてもと思った。