13.沢村巧
今日も沢村巧は眠っている女の部屋を訪れていた。それは彼にとっては食事や睡眠と同じように欠かせないものだった。いつからこうしているのか、もう覚えていなかった。時々、快活に笑っていた頃の彼女の姿を思い出すことがあった。ただ会っているだけで楽しかった。互いに将来の伴侶となることを自覚していた。すぐ先にある未来は薔薇色に輝いて見えた。どうしてこうなってしまったのだろう? あまりにも突然に彼女は生きることを拒絶するようになった。瞳は輝きを失くし、口元から笑いは消え、一切の感情が抜け落ちてしまったように見えた。彼女は焦点の定まらぬ眼で虚空を見ていた。話しかけてもうつむいたままだった。やがて彼女は眠りに落ちてしまった。かろうじて生命は維持されているが、ずっと目を覚まさない。彼は毎日、話しかけた。いつか目を覚ましてくれると思っていた。どうすれば彼女の心をこじ開けることができるか、彼はずっと考えて来た。いろいろな方法を試してみた。無伴奏チェロ組曲。モーツァルトのピアノ協奏曲。彼女が好きだった音楽を一日中かけてみたが、彼女の心には届かないようだった。
『一ダースの男の子よりも、おまえにいてもらいたいんだよ』
彼女のお気に入りの話を聞かせてみても彼女が目覚めることはなかった。クリスマスの夜に二人で街を歩いた時のことも話してみた。イルミネーションをまとった街路樹が無数の光を放っていた。並木道を連れ立って歩く幸せそうな恋人たちに混じって、私たちもこっそり手をつないで歩いていた。彼女の瞳の中でイルミネーションがキラキラ輝いていた。とても寒かったけれど、二人でいればなんともなかった。だが、その思い出を聞かせても彼女は眠ったままだった。沢村は考えていた。たとえばどんな話であれば、自分は聞きたいと思うのだろうか? 彼は子供の頃の楽しかった出来事について話してみた。お父さんに何度か野球に連れて行ってもらった。球場には大勢のファンが集まっていた。彼は一生懸命ホームチームを応援していた。投手が捕手めがけて渾身の力でボールを投げる。そのボールを打者が打ち返す。乾いた音と共にボールが夜空に舞い上がる。その一点を球場に集まったすべての観客が追いかける。その話を聞かせていると、彼女が少し笑ったような気がした。それから彼は誰もが心の奥底にそっとしまい込んである大切な体験を聞かせれば良いのかもしれないと考えるようになった。
「今日は一つ楽しい話を聞かせてあげよう」
彼はそう言って、父親に連れて来てもらった水族館でイルカショーを楽しんでいる女の子の話をした。江田佳穂の心の奥にそっとしまい込まれていた話だった。ジャンプしたイルカが最高到達点で静止して、ボールをつついた時に紙吹雪が舞った時の話をすると彼女が少し笑ったような気がした。次に父を亡くしてしまった高校生の話をした。これも江田から聞いた話だった。病室で付き添っている時に脈拍と呼吸を表示する装置の数値が、みるみるうちに下がって行くのを目の当たりにした恐怖と悲しみについて語った。彼女の表情に悲しみが現れたような気がした。彼はずっと長い間、彼女に語り掛けていた。記憶に留まり続ける大切な出来事はきっと彼女に刺激を与え、いつか眠りが解かれる日が訪れるのだと信じていた。




