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12.複雑な世界

 <エモーション・ジェネレーター>で私は<喜び>と<悲しみ>の表情を作り出すことができるようになったが、そっと心の奥底にしまい込んである大切な記憶を実用的なことのために呼び出すのは、それだけでも大きな負担になるような気がした。<エモーション・ジェネレーター>は自分の大切なものを犠牲にして<エモーション・アナライザー>と対峙するための手段のように思えた。

「少しは慣れましたか?」

私は沢村巧とすっかり打ち解けていた。任務のために私が彼に取り入ったという訳でもなかった。自分の感情や記憶を差し出すには相手との信頼関係が不可欠であり、私は彼を信頼に足る人間だと本能で感じ取っていた。

「そうですね。でもこの方法は心に大きな負担を掛けているような気がします」

そう言うと彼は少し考え込んでいた。

「仰る通りだと思います。すみません。他に良い方法が思い浮かばなかったのです」

確かに<エモーション・アナライザー>の脅威を逃れる手段がそうそうあるとは考えられなかった。表情を変えるのでなければ仮面でも被るしかなさそうだった。

「一つ質問してよろしいでしょうか?」

「いいですよ」

「沢村さんは、どうしてこんなことを始めようと思ったのですか?」

目的を聞いておかねばならないと思った。それが反社会的なものであったなら、私の任務には都合が良かった。

「どうしてでしょうね?」

彼は自分に問い掛けているようだった。

「一方的に気持ちを読み取られるというのは誰であっても嫌なものだと思います。心の中まで見透かされたくない。江田さんだってそうでしょう? <エモーション・アナライザー>を使っている人たちも、自分がそういう目にあったなら、やっぱり嫌な気分になるのではないでしょうか?」

一瞬、どきりとした。もしかしたら私があちら側の人間であることが見透かされているのかもしれないと思った。

「江田さんはどう思いますか? 権力者が必要と判断したなら、人間の感情を読み取る行為は許されると思いますか?」

自分がその立場に置かれたなら、とても嫌なことだった。だが人間は今までずっとこんなことを繰り返して来ているのだという諦めに似た気持ちもあった。いつの時代も支配者がいて、支配者の思惑に背く人間は排除されて来た。それだけのことだった。お前は俺の言うことが聞けないのか? 隣国の侵略を始めた独裁者も、冴えない業績の企業の経営者も根っこは同じだった。支配者に逆らう者は社会での存在を許されない。それは私自身についても当てはまることだった。

「人間は他の動物に比べると少々複雑にできています。言葉を持たない動物は喜びや悲しみや恐怖を偽りなく表情に出します。圧倒的な強さを誇る群れのボスを目の前にすると恐怖が滲み出てしまいます。人間も同じようなものですが、人間は表情を隠そうとする場合があります。素のまま喜んだり、悲しんだりできない場合があります。感情の赴くままに行動してしまっては先々の利益を損ねてしまうこともあります。場合によっては命を落としてしまいます。怒りを露わにしてしまうとすぐに滅ぼされてしまう場合もあります」

彼はごくあたり前のことを言っていたが、私自身はそのあたり前のことを今まであまり考えていなかったのかもしれなかった。嘘をつきたくなくても、場合によっては嘘をつかなければならない。私たちは世界と同化して現在のみを生きている動物たちとは違うのだ。言葉や知性の働きによって、いっそう複雑な世界が構築され、その中で生きている。<エモーション・アナライザー>はその複雑な世界を単純な世界にしてしまうのかもしれなかった。嘘や裏切り、あるいは愛や友情によって複雑になっている世界を動物の群れと同じ上下関係に引き下げてしまう。だが、そもそも私はあちら側の人間だった。兵士が上官の指示に従わなかったとしたら部隊が全滅してしまうと言って、秩序の維持がもっとも重要だと考えている側の人間だった。だが、世界は常に新しいものを生み出そうとしていた。そこで生まれる新しい価値観を人々が踏みにじって来たのなら、世界は今も中世のままだったかもしれなかった。

 遠い記憶の彼方にいる自分に再会させてくれた研修も今日で終わりだった。私は明日、一日に数本しかないバスに乗って施設を離れることになる。だが私は今夜も、眠り続ける女の部屋を訪れる沢村巧をカメラと盗聴器で確認しなければならなかった。

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