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10.<悲しみ>のキーワード

 悲しいことも今までにたくさんあったはずだが、大切にしまい込んでいるはずの記憶を取り出そうとしても、すぐにその景色が浮かび上がることはなかった。喜びも悲しみもその時を過ぎてしまえば次第に忘れてしまうものなのだろう。絶え間ない時の流れに翻弄されながら人は生きて行く定めにある。朝、目覚めるといつも新しい一日がそこにある。いつまでも過去に引きずられていては、現在目の当たりにしていることを公正に評価できなくなってしまう。そして凡庸な日常が積み重ねられるにつれて、かつてあった大切なことはその中に埋もれてしまう。かつて存在したはずの感情の起伏はすっかり削ぎ落されてしまう。

「今、病室にいます」

沢村巧は私の言葉にただうなずいていた。私が少しずつ思い出したことを口にするのをじっと待っていた。

「父は私が高校生の時に亡くなりました。身体中にがんが転移してしまって、もう助からないとお医者さまに言われていたのです。でも、その日、亡くなるなんて少しも考えていなかったのです。お医者さまの説明が終わった後、病室に戻るとそれまでにはなかった装置が置いてありました。それは脈拍と呼吸を計測するためのものでした。画面に数値が表示されていました。父は静かに眠っていました。マスクをして痛々しい姿でした。話しかけても返事がありませんでした。脈拍と呼吸を示す数値は少しずつ下がっているようでした。私は不安になってナースステーションに行って、看護士さんに脈拍も呼吸もさっきより下がっていますと一生懸命説明しました。看護士さんはうなずいて私の話を聞いてくれました。それから『心配ですね。こちらでもモニタしているので大丈夫です』と言いました。それを聞いて私は病室に戻りました。だけど数値はどんどん下がって行きました。私は『元に戻れ』と心の中で叫んでいましたが、その思いが通じることはなく数値は<ゼロ>になってしまいました。<ゼロ>ってどういうこと? 私は混乱しました。すぐにお医者さまと看護士さんがやって来て、脈と瞳孔を調べてから『ご臨終です』と言いました。お父さんが今、死んでしまったの? 私は目の前で起きていることが信じられませんでした。その時のことを今、思い出しています。目頭が熱くなって来ます。悲しみがぶり返して来ます。時の経過に癒されて、すっかり忘れたと思っていても、あの時の光景は私の心の奥底にしっかり焼き付いています」

熱い涙がこぼれ落ちていた。どうしてこんなところで泣いてしまうのだろうと思った。

「今日は、これまでにしましょう」

動揺している私を見かねて彼は言った。その記憶は<悲しみ>の表情を引き起こすのに申し分のないものであることは確かだった。そして<悲しみ>のキーワードがすでに決まっていることを私は自覚していた。脈拍と呼吸が止まり、かつて父だったものがベッドに横たわっているのを見た時の喪失感。人間はいつか何もかも失ってしまうのだと知った時の絶望感。その気持ちを導く私のキーワードは<ゼロ>だった。

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