人を作る
静香が死んで2週間が経ったある日、弟が本を一冊持って私の部屋を訪ねてきた。何か話があるのだろうと思い、向こうが話し始めるまでしばらく待った。重苦しい空気が漂ったが、外のアブラセミはそんなことを構うこと無く元気に鳴いている。どういう気持ちで鳴いているのだろう。1週間しか地上で生きられないという現実、その間近に迫った死の恐怖から生まれる悲しみの声なのか。それとも、ようやく地上に出られたという歓喜の声なのか。もし自分がセミだったら…、とセミに自己投影して考えようとした矢先に、ようやく弟が口を開いた。
「静香を作ろう」
真剣な顔つきだった。口調は穏やかで冷静だったが、その言葉には強い意志が込められていた。人を作ってはいけないんだよと言おうとしたが、やめた。その代わりに、「どうやって」と聞いた。具体的な方法を聞いて、その中で辻褄が合わない部分を見つけ、人を作ることが理論的に不可能だと証明しようと思ったのだ。その方が弟も納得してくれると思った。しかし、それは失敗だった。私は弟に口論で勝ったことがないのだ。弟は常に冷静かつ理性的なので、たとえもし彼の意見に自分の意見をぶつけたとしても、彼に理論で勝てるはずがないことはわかっていたはずだ。それにも拘らず、なぜか私は具体的な方法を聞いてしまった。もしかすると、私も静香を作りたかったのかもしれない。
弟は持ってきた本を私に見せてきた。「これに作り方が書いてある。全部読解するのに2週間もかかっちゃったよ。」どこで見つけてきたのか、それは全て英語で書かれていて、千ページ近くある分厚い本だった。タイトルは"hippocampus" 。日本語訳すると、"タツノオトシゴ"あるいは、"海馬" 。文脈から判断すると明らかに後者である。海馬はタツノオトシゴの形によく似ているため、タツノオトシゴと同じ名前で呼ばれるようになったと本で読んだことがある。ちなみに、タツノオトシゴを"hippocampus"と呼ぶことはあまりないらしく、体型が馬に似ていることから"seahorse" と呼ぶことが多いらしい。タツノオトシゴはアメリカ人には海(sea)の馬(horse)に見えて、日本人には竜の子どもに見えたのだろう。結局、日本人は大脳の意味での"hippocampus" を"竜子"ではなく、"海馬"と呼んでいるのだから、その研究分野は日本ではなく、アメリカが先行しているのだろうな。
「おいおい、海馬は確か、脳の記憶と何らかの関係がある場所だったよな。なぜその本を読めば、人を作ることが出来るのだ?」
弟はその質問を待ってましたと言わんばかりに、ニヤリと笑い、こう答えた。
「人の記憶を作るんだよ。いや違うな、再構築と言ったほうが正しいのか。」
弟の意見はこうだ。人間は脳に蓄積された記憶に従って行動する動物なので、既存の記憶の全てを完全に別の記憶に塗り替えることが出来れば、人を作ることが出来る。その人の体や顔は整形手術で記憶に合うように作り変えればいいし、人の心や性格は記憶を変えて仕舞えば、その記憶に沿ったものになるだろう。
そこで、記憶を塗り替えるためには、新しい記憶を作るための機械と、その記憶を貼り付けるための身体を用意する必要性があり、多額の費用を要する。その費用として、親父の遺産を使いたいとのことである。
「遺産を使うことは別に構わないが、記憶を塗り替えるなんて本当に可能なのか?」 弟はその分野について、かなりの量の情報を集めて、緻密な理論を組み立てたときにしか、他人に自分の意見を言わない。情報が足りていないときに話を振られると、「情報が不足しているため、答えません」という。それほど完璧主義の男なのだから、出来ないことを私に言うわけがないとは思うが、一応聞いてみた。
「出来る」と返事が返ってきた。そうか、出来るのか。出来るのなら、もう聞くことはあるまい。私には不確定要素が多いように思えるが、弟が出来るというのなら出来るのだろう。新しい記憶を作るための機械とはなんだ。その機械を手に入れたとしても、使い方はわかるのか。静香の記憶を作るらしいが、静香の記憶の全部を一体誰が知っている。それに、記憶を貼り付けるための身体なんてどこに売っている。こんなことは私が質問しなくても、弟は既に自分で疑問符をつけていて、完璧な解答も出せているのだろう。なぜそこまで弟を信用しているのかというと、それは弟は私より賢いからである。
一つエピソードを紹介しよう。昔、私と弟が同じ数学のテストを受けたことがあった。百点満点のテストで、弟は90点で私は100点だった。弟はいつも数学のテストでは100点を取っていたので、珍しいこともあるのだなと思った。しかし、次の日、そのテストの解答に別解が追加され、弟の数学のテストの点数は100点に修正された。弟の点数はこれで私と同じ100点になったわけだが、その重みはまるで違った。弟の解答は、教科書に載っていないものだったのだ。
あとから、担任教師から聞いた話だが、弟は数学に関しては天才的だったという。通常の学生なら、教科書に載っている数学の公式を覚えて、それを使って問題を解くだけなのだが、弟は違う。教科書に載っている数学の公式の理論を突き詰めることはもちろん、それに加えて、教科書に載っていない公式を自分で考え出し、それを使っていたのだ。そのような解答を作られるのだから、採点者が戸惑うのも無理はなかった。本当の天才は、教科書だけでは満足せずに、教科書以上のことを考えるのに時間を使うのだろう。いや、もっと視野を広げて、マクロ的視点で言い換えると、本当の天才とは、私を含む凡人には考えも及ばないようなフィールドでモノを考える人のことを指すのかもしれない。
ここで少し、静香の話をしよう。家が近かったので、私と弟と静香はいつも一緒に遊んでいた。近くの公園で鬼ごっこ、隠れんぼ、サッカーなどをして遊んでいた。静香はボーイッシュな性格で、男と混じって遊んでいても全く違和感がなかった。
そして、彼女は優しかった。ある日、公園で遊ぶのに飽きた私たち3人は、静香の両親が出かけていたので、静香の家でこっそり遊ぶことにした。静香の両親、特に母親はキレイ好きだったので、一度も静香の家で遊ぶことを許可してくれなかった。遊ぶことが認可されていない家の中で遊ぶといったスリル感もあって、静香の家で遊べることに3人はワクワクしていた。何をして遊ぼうかという話になったが、3人とも公園での遊びしかしてこなかったため、隠れんぼ以外の案が思い浮かばなかった。
静香がジャンケンで負け、私と弟は隠れる場所を探した。私は寝室に置いてあるシングルベットの下に隠れた。弟は和室に行き、仏壇が近くに置いてある押入れに入った。その押入れには布団が入っていたので、弟はその布団をよじ登って隠れた。
静香が30秒を数え終わり、家中を探し始めた。開始10秒足らずで私は見つけられた。ベットの下というのはあまりにありきたり過ぎたのかも知れない。それから20秒足らずで、次は弟が見つかった。弟を見つけると、静香は満足気に笑って見せたので、私たちも楽しい気分になった。ところが、弟が押入れから出ると、空気が一瞬にして凍り付いてしまった。
弟は押入れから出ようとして、勢いよく布団の上からジャンプした。布団の上からだったため、体勢が崩れ、着地に失敗し、押入れ近くの仏壇を倒してしまったのだ。ロウソクを立てるための火立てや、線香を炊く香炉を倒してしまった。香炉に溜まっていた線香の灰が和室中に飛び散った。すぐに掃除をしてみたものの、畳に入った灰はキレイに取れなかった。
そのとき、静香の母親が予定より早く帰ってきた。怒られると思って、弟はひどく怯えていた。案の定、静香の母親は和室を見るやいなや、「一体誰がこんなことをしたの」と怒鳴った。自分がキレイに保っていた家で遊ばれた上に、和室の畳に灰を入れられたのだから、怒らずにはいられなかったのだろう。その質問に弟が渋々答えようとしたとき、静香が割って入ってきて、静香の母親に謝った。とても真剣に謝った。誰が仏壇を倒したのかは問題ではなく、静香が家で遊ぼうと言ったことが問題だと言って、謝った。娘の献身に謝る姿に母親はむしろ感心してしまい、怒りの感情はなくなり、次からは家で絶対遊ばないという契約をして、母親は3人を許した。結果、静香は弟を庇ったのだ。静香自身、その気持ちはなかったかも知れないが、あのとき、弟は静香に救われたと思っただろう。
そして、高校生になったときに、弟は静香に幼馴染を超えた感情を持つようになり、弟の猛プッシュにより、2人は恋仲になった。それから、5年が過ぎて、彼女は世間を騒がせていた通り魔に殺された。
私は弟が通り魔に復讐するのではないかと心配していたが、それは取り越し苦労だった。弟は復讐などという無意味なことに時間を使うのではなく、静香を作るという文字通り生産性のあることに時間を使おうと考えていた。素直に感心した。流石は我が弟である。
「ok! いいよ。遺産を全部使うのを許す。ただし、条件がある。あまり、無理はするなよ。やばくなったらいつでも俺に連絡するんだ。この条件を飲むなら、親父の遺産の全てをお前に託そう。」
「わかった。ありがとう。」 そう言って、弟は私の部屋を去っていった。
それから、2週間が過ぎ、ようやく弟から連絡がきた。
「兄ちゃん、出来たよ。静香が完成した。」
弟の口調は相変わらず、冷静である。
「本当か。ついにやったな。静香は今どこにいるんだ?」
なかなか返事が返って来ない。数秒の沈黙があった。2週間前の沈黙と同じ感じだ。また、耳を済ませてセミの声を聞いてみようとした矢先に、弟は言った。
「天国にいるよ。」
「あ、そりゃそうか。本物の静香は天国だよな。俺が聞いているのは、そうじゃなくて、お前が作った静香の方だよ。」
「その静香も天国に行っちゃったよ。」
「どうしてだ。静香を完璧に作れたんじゃなかったのか。」
「いや、完璧に作れたんだけどね。完璧に作り過ぎたのかもしれない。そんな偽物になってまで、生きたくないんだとさ。」
弟が作った静香はずっと泣いていたらしい。人に作られてまで生きたくないという悲しみの涙なのか。それとも、生きていることに対する喜びの涙なのか。答えは、前者だった。静香は弟によって作られた日の翌朝に自殺した。
「そうか。残念だったな。ところで、今、お前はどこにいるんだ。久しぶりにラーメンでも食いに行こう。」
「すぐ近くにいるよ。それじゃあ、駅前の天一に行こう。」
「わかった。すぐ行く。」
2人はラーメンを頼んで、席に着いた。2人の間にはまた沈黙があった。注文したラーメンが運ばれてきて、2人は同時にラーメンを食べ始めた。ラーメンを食べ終えると、2人は会話を交わすことなく無言のまま、家に帰っていった。