学校と日常
第1部を二つに分けて加筆修正しました。
物思いに耽っていたところ、唐突に声をかけられた。
「おはよっ!」
彼女の名前は姫川公香。
一年生の時から何かと話題が尽きず、学校全体でも悪い評判を聞かない、絵に描いたような人気者だ。
「あ、うん、おはよう」
朝のSHRが始まるまで特にやることのなかった僕はそのまま彼女の方に意識を向ける。
「えっと…木山くん…だっけ?」
「檜山だよ」
必死に思い出すような素振りをして言う彼女に僕は肩を竦めながら訂正した。
「あっ、そっか!ゴメンね!檜山くんね!覚えた!」
「別に気にしなくていいよ」
「よかった!」
僕が軽く頭を振り言うと彼女はホッと胸を撫で下ろす。
「えっと…それで僕に何か?」
「あ、そうそうっ、昨日の帰りに怪我した猫ちゃん手当てしてるの見たんだけど…あれ、檜山君だよね?」
「ん…?あ、昨日ね、見てたんだ」
そういえばそんなこともしたなと思い出して首肯する。
「うん!声をかけようかとも思ったんだけど、檜山君だってはっきり分からなかったし、ちゃんと話したこと無い相手に声かけられても困っちゃうかなぁと思って…」
彼女は少し俯きながら呟く。
「そっか確かに。それで人違いだったら気まずいもんね」
もともと自分から声をかけることの少ない僕にはあまり縁の無いことだが、もしこちらが相手を一方的に知っていたとしても話したことのない人に学校外で声をかけるのはハードルが高いと思うし、逆に声を掛けられたとしても多分反応に困る。自分なら素通りするかもしれない。
もしその相手が窮地に立たされている場合であれば話は変わるが…。
「うんうん」
彼女は腕を組みながら、頻りに頷いていた。
僕が、こういう素直でわかりやすい反応が他の人に好かれるのかな、と思いながら彼女を眺めていると、何かを思い出したかのように「あ、そうだ」と言って話を続けた。
「そういうことを言いに来たんじゃなくて、檜山君って優しいねってことを言いに来たんだっ」
明るい笑顔で面と向かって優しいと言われて少し照れくさくなった僕は少し目を逸らして言った。
「えっと…そうかな?ありがとう…?」
「それで、檜山君ってもしかして猫ちゃん好き?」
彼女は僕が目を逸らした方に移動し、僕の顔を覗き込む形になった。
傍から見たらかなり際どい距離だが、周りがザワつく様子はなかった。しかしこちらの様子に気づいた一部の生徒の視線が突き刺さる。中には氷のように冷たいものや、訝しむようなものも混じっていた。
さすがに肝を冷やした僕は視線を元の位置に戻し、それとなく距離を取り、答える。
「まぁどちらかと言えば好き…かな?」
その甲斐あってかこちらを突き刺していた数多の視線から解放され、内心ホッとしたと同時に冷や汗が肌を湿らせる。まだいくつか様子を伺うようなものも残っていたが一旦気にしないようにした。
「やっぱりっ?猫ちゃんって可愛いよねっ!なんであんなに可愛いんだろう…」
すると彼女の笑顔がさらに眩しく花咲き、だらしない程に頬が緩んでいた。
しかし、そのせいだろう。例の視線が次は鬼の様な形相でこちらを睨めつけていて、先程の努力が水の泡になってしまった。
「あの…姫川さん…?」
一刻も早くこの居心地の悪い空間を抜け出したくなり、困ったように名前を呼ぶが、彼女は周りの視線などに気づく素振りすら見せず、呑気なものだった。
「ん?なぁに?」
だらしない程に緩んでいた口元は戻っていたが、のほほんとした表情で小首を傾げていた。
その表情を見て、諦め気味に話題を終わらせようとした。
「えっと…猫…大好きなんだね…?」
だが、ここで話を切り上げるほど、彼女の猫への想いは軽いものではなかった。
「うんっ!それで私ねっ?ミーちゃんとムーちゃんっていう兄妹の猫を飼ってるんだけどそれがまた可愛くて…それでそれでっ___」
鐘が鳴る。
さらにヒートアップするかに思われたところで、彼女の話を遮るようにチャイムが鳴った。朝のSHRが始まる合図だ。
「あっ、ゴメンね!話し込んじゃって!それじゃっ、また後で!」
と言って姫川さんは手を振ってトタトタと自分の席に戻って行った。
助かった…と思いながらも僕はなんとか笑顔を作り、手を振った。
僕らに向いていた視線はチャイムと同時に散り、ホッと一息つく。
教室の端で生徒と談笑していた担任の先生が教卓に立ち、日直が号令をかける。
「起立、気をつけ、礼」
そして彼、檜山 紫苑の、いつもと変わらぬ日常が始まる___はずだった。