傘姫
はしがき
私という男の恋愛感について、お話し致します。
女性に好かれる事は嫌ではないのです。
しかし、相手が本気になりますとオロオロと困惑してしまいます。
本気というのはつまり、男女の一線を越えようと企むことでありまして、その気配を感じてしまった瞬間に、それまで何ともなかった女性に対し、なにか恐ろしいものを感じてしまいます。私が古臭い男なのでしょうか、責任やら貞操観念を深く考える性分でありまして、この女は私との関係を後々後悔しないだろうか?
この娘の父親は私の様な男に、手塩にかけた娘を奪われたとしたらどれ程悲観するだろうか?そもそも私はこの女を抱かねばならぬ程、愛しているのだろうか?などの葛藤が生じるのでございます。
私が女を知ったのは二十二歳の時と周りに比べ遅うございました。ただただ私がモテなかったから?いいえ滅相もございません。
自分から申すのは恥ずかしく、恐縮でありますが、街や学校、アルバイト先などで女性から連絡先と稚拙な一文を記した手紙を渡されたり、学生時代には芸能界からのスカウトやテレビ局からの取材が来たりと、どうやら本能的に人間を、特に女性を魅了する要素を備え持った女達者のようでございます。
しかし恋愛となると難しく、私が好意を持つ者に無条件で好かれるなんて事はなく、恋愛から離れたい時や、興味がない女からは、やたらと好かれるものですから不思議なものでございます。
でも、どうして好きになると苦しく辛くなるのでしょう。
両想いとなっても両者の精神の探り合いがあり、相手に気付かれぬ様にと息を殺して取り調べを行い、受ける側は精神の尋問を受けている様で仕方ありません。
思い返すと小・中学生時代の恋の感情はこんなに汚かったでしょうか?
私が器が小さいだけでしょうか?人間も動物です、貞操観念を気にする動物が人間の他に居りますでしょうか?
余談ではありますが、三島由紀夫のエッセイ「不道徳教育講座」のせいで私は処女膜というものが人間とモグラにしかないと思って居りましたが、これは俗説で、実際は犬や猫、象や馬、蛇や鼠、蝙蝠などにもありました。
尊いヴァージニア…。私は綺麗な純愛に強い憧れがあります。
しかし、現代の恋愛は軽い恋愛が増えすぎて、一種のゲームの様な恋愛に感じられてしまい辟易しております。本当の恋愛と呼べたものは少なくなっていると感じるのでございます。
もし紫式部が平成の世に生まれたならば、源氏物語に出てくる数々の恋歌は「重たい」と評価され、共感や芸術的な感動を得なかったかもしれないのでは?と疑ってしまうほど、凡庸な最近の恋愛に対する私の観念は冷めてしまっております。
何故かって?
だって私の周りで恋愛という『偽恋愛』をしている人達は何か問題が起こるとパートナーを取っ替え引っ替えしている人が多いんですもの。
だから私は恋歌のような、健気で純朴な恋愛しかしたくないのです。昔読んだ田辺聖子さんの「おちくぼ姫」のような女性との恋愛に憧れているのです。
恋愛とは時代によって形を変えるお化けのようなものでありまして、出会いも多く、自由に恋愛が出来る時代ですから、私に共感できる人は少ないでしょう。
私は、私の望む観念と世間の観念とが食い違っているという悩みを抱えて生きております。
しかし、私は思います。お姫様はきっと息を潜め何処かに身を隠しているはずです。
むしろそう信じていたいのです。
これはお姫様を信じた私のお話しでございます。
そして女性からしてみれば、こんな恋愛観を抱く私を面倒くさい男に感じるかもしれません。
そのことは私自身が重々理解しております故、こんな私を幾重にもお許し下さいませ。
一章
梅雨も明け、博多では山笠の準備が行われ、いよいよ本格的な夏の到来を迎えようとしています。
じめじめとしたややカビ臭い四畳半の部屋で、机の上の原稿に向かう小説家がおり、それが私でございます。
小説家と言っても、これまで書いてきたものが売れたなんてことも、何か大それた賞を受賞したなんてこともなく、二次選考を通過した程度で、短編小説がたまに雑誌に載る程度でございまして、生活の方はと申しますと、地方雑誌などのエッセイを手がけたり、あとはコラムなども書いたりして得た、わずかな原稿料と、アルバイトの給与で、ほそぼそとした生活を送っているのですから、自分のことを小説家、もしくは作家と名乗っても良いのやらと、はなはだ怪しく、素晴らしい小説を書いておられる文豪と呼ばれる先生方に対して、(職業を聞かれた際に)自分の生業を小説家と名乗ることが恐れ多くも感じる程でございます。
四百字詰め原稿用紙八十枚程綴った頃になって万年筆の動きが次第に鈍くなり、ついには止まってしまいました。納得できるアイデアが枯渇してしまいました。正確にはアイデアが枯渇して万年筆が止まったのですが…。
それと同時に、このじめじめとした部屋に対する不快指数が急に高くなり、自分の力の無さをこの部屋のせいにしたくなってしまって、心底深い絶望感に満ちた溜息をついて、万年筆のキャップを丁寧に締めて原稿用紙の真ん中にそっと置き、そのままジワ〜っと伸びをして、万歳をした格好のまま畳に仰臥し、天井を眺めて、しばらくはその天井の木目の模様や染みに何か意味が有るのかを確かめているかの如く、殆ど瞬きもせずに寝転がりながら、ただただ見慣れた天井を吟味するように見上げていました。
十五分くらいそうしていたでしょうか、私はじめじめとした、このややカビ臭い部屋に、今こうして黄昏て居ること自体がなんだか愚かで間違っているような気がして、嫌になって、のそのそと芋虫の様に身体を起こし、部屋着として着ているお土産物のTシャツを脱ぎ、ねずみ色をした無地のVネックのTシャツに着替え、その上から白い長袖のシャツを着ました。
痩せていて、上腕が細く情けないものですので、その蚊トンボみたいな上腕が隠れる長袖を夏でも好んで着ておりました。
しかし、上腕とは対照的に前腕は然程細さを気にする程ではなく、むしろ筋肉の筋や血管が隆起しており、しなやかながらも男らしい腕をしていましたので、決まって腕まくりをして露出させるのが私の夏の定番のスタイルでした。
次にズボンを着替えました。ハーフパンツのジャージを脱いで、やや薄いインディゴブルーで、膝のあたりに程よくダメージと、リペアの施されたジーパンを履きました。
それから財布と鍵、茶色い革ベルトの腕時計を身に付けた後、お気に入りの黒いショルダーバッグにメモ帳と万年筆を詰めて肩に掛けました。
あ、そうそう、携帯電話はズボンの右のポケットにしまいますよ。
そのあとテーブルの上にある生ぬるい麦茶をコップに注いで、グイッと一気に飲み干してから玄関まで行き、紺色のキャンバス地のスニーカーを履いて外に出て、駐車場に停めているオートバイに跨りエンジンをかけました。
オートバイと言っても、可愛らしいレトロな見た目で、単気筒二百五十ccという控え目な排気量が私の性格を代弁しているようであります。
日差しが照りつける中で、オートバイのアクセルを回すと、その回し加減に比例して私の身体を心地良い風が包んでくれます。
その時間は、とても優しく、頬や首すじを流れる風は滑らかで、陽気に鼻歌を歌ったり、とくに面白いことがあった訳でもないのですが、無性に笑ってみたくなって、本当に笑ってみたり、前を走る自動車の後部座席から反対を向いて私か、もしくはオートバイを見ている子供と睨めっこして道化てみたり、自分の年齢すら忘れちゃう、と言った具合で、恐ろしいまでに開放的な気持ちになるのでございます。
オートバイの革張りのシートに座って流れていく景色と供に向かい風に当たると、きっと風が心の蟠りを洗い流してくれているのでしょう、なんだか心が浄化されていく、そんな気持ちさえしてしまうのですから…。
折角きれいな気持ちになったので、本当の事を言いますね。
先ほど、じめじめとしたカビ臭い部屋が嫌になって飛び出して来たと言いましたが、本当は嘘にございます。
私は、私の四畳半のあの狭い部屋が、もうまるで私の分身のような、どんなに散らかっていても必要な物がどこに埋もれているのかが分かるような、そんな信頼関係とでも申したら分かりやすいでしょうか…。私は本当はあの部屋が大好きで、大好きで、部屋の匂いといい、家具の配置から絶妙な程よい狭さといい、どれも私の好みに合わせた按配になっているのですから、それはそれは落ち着いて、居心地が良くて仕方ないのです。
ただ、あまりにも私を上手に包み込んでしまう部屋なので、私はその部屋の優しさに、ついつい甘えてしまい、ボーっと黄昏れてしまうのです。
そう、あの部屋は優しさと紙一重に、私を駄目な人間に陥し入れようとする恐ろしさも兼ね備えているのです。
かろうじて、私はそのことを重々理解しておりますので、こうしてアクセルを握って、あの部屋との程よい距離間を保っているのです。
晴れ渡った空の下、オートバイに乗り健康的な日差しと風を浴びていると、無心になれるとか良く耳にしますが、私はその逆でありまして、くだらない様々な事をあれやこれやと考えてしまう性分なのです。
明日の事や、昨日の振り返り、食べたご飯のおかずや恋愛、社会やニュースなど、これと言ったテーマは露ほども無く、大半はふと思いついたどうでも良い事なのですが、そのどうでも良いが集まって行き詰まった時の小説のカンフル剤になることが多々ありまして、そのような事から今もそのカンフル剤となる事を期待してオートバイを運転しているという訳です。
行くあてなどは勿論ないのですが、呆れる程に天候が良く、このままオートバイでブラリとまわって家へ引き返すのが凄く惜しい気持ちになったので、電車に乗って少し遠くへ行こうと思い駅を目指しました。
駅の近くにあるコンクリートで出来た立体駐車場へ入ると、車を停めるには窮屈で向かない、所謂、余りの敷地といいますか、歪に空いた敷地が二輪車を停める場所でした。その歪んだ敷地にオートバイを真っ直ぐ停め、駐車料金三百円を払って駅へと向かいました。
天照大御神のお怒りかと思いたくなる様な夏のギラギラとした、地上の生物を焼き尽くさんとする日差しが降り注ぎ、その熱波がアスファルトからも照り返すので、眉をひそめ、目を窪ませ、あまり汗をかかないように意識を払いながら、逃げるが如く小走りで駅を目指しました。駅に隣接したスーパーマーケットに着いたので、冷やりと涼しい通路を堪能しながら今度はゆっくりと歩みを運び、ついでにアイスコーヒーを買ってからスーパーマーケットを後にし、駅へと続く階段を登りました。
電光掲示板を見ますと、電車まで四・五分ほど待ち時間があったので、トイレへ行って、ヘルメットでペタンと潰れてしまった、天然パーマが軽くかかっている髪に手櫛を入れ頭髪を整えました。トイレを出て、プラットホームへ続くエスカレーターを上がると、丁度ステンレスの銀色のボディに黄、赤、青のラインが入った急行電車が入ってきました。
その電車の三両目あたりから乗って、前から二番目の転換式のクロスシートの座席に座りました。ひと息つくと電車は発車しましたので、車窓に右肘をつき、空を見上げると、芭蕉が詠んだ句に出てきそうな程、立派で肉厚な雲の峰(入道雲)が高く高く、天へと伸びていて、自然の恐ろしさと人間の小っぽけさを、豪雨や地震、雷などではなく、まさか思いもしなかった雲からも感じさせられて、なんだか恐ろしくなりました。
その雲の峰をしばらく見てから、眼を閉じ、またもの思いに考えました。
一人で想像を掻き立て、小説のマテリアルを考えることは私にはとても楽しいものです。小説を書くなんて、他人からは空想や妄想ばかりしているようで変に思われる事もあるものでしょうが、私の場合はそこに悟りのようなものも加わり、またこんな事を言っている自分が滑稽な変わり者だという事も重々承知の上ですから、気が狂っているなんて事もございませんし、私があれこれ考えた後、冷静になって、もう一人の自分が私の頭上から私を見ているような…。そんな客観的な視点まで含めての考えごとなのです。
電車に揺られながらその時、私は、学生時代の土屋という男とした会話と出来事を追想していました…。
二章
土屋という男は長崎県の五島という、四方を海に囲まれた離島の田舎町で育った為、地元の海で獲れる海産物に恵まれ、種類豊富でどれも活きのいい美味しい魚介類を食べて育った男でした。
その土屋と放課後に博多の商店街を散歩していると、料亭の生簀が通行人の目に入るようにしてありました。
その中に二尺(六十センチ)程の、九州ではアラと呼ばれる魚がおりました。
土屋はその魚を見て指差し「これ、爺ちゃんが獲ってきて、刺身にして食べたんだけど、めちゃくちゃ美味かったな~」と言いました。
「こんな大きな高級魚も五島では普通に食べてたのかい?」と私が問うと、
「流石にアラはなかなか獲れないから、そんなにしょっちゅう食べていた訳じゃないけどね、アラが獲れた時は家族や親戚で食べたっけかな。あ、そうそう、これを捌いているのを初めて見た時はそりぁ衝撃的だったなー」
「衝撃的?」私は問いました。
「うん、生命力が半端ないんだよ。包丁が身体に入っても激しく暴れ回ってるし、それだけじゃない。腹を割って内蔵を出した時、取り出された心臓がしばらくの間まな板の上でドクンドクンと動いてたから、あれには本当にびっくりしたな~~」
私は見た事もないその光景を妙に生々しく、リアルに想像してしまいました。
私の家の台所でハラワタをかき出されてプルプルと引き攣るようにして痛みに悶えるアラがまな板の上で口をパクパクとしていて…。
流し場の隅に避けられたハラワタ…。
そしてそのハラワタという臓器の塊中でドクンドクンと血液を身体中に送り込もうとする心臓…。
脳みそと離れてしまっても、生きようと動き続ける心臓が、死ぬことをまだ理解できてない、そんな気がして、また一段と可哀想で悲しくなりました。
土屋のその話を聞いて以降、私は魚の生命力を考え、慈悲を思うようになりました。
釜揚げされた、ちりめんじゃこをご飯にかける時にも考えるようになりました。
「あのアラは一匹の肉体を犠牲にして、人間何人もの胃袋を満たしたけど、このちりめんじゃこは…?」
ちりめんじゃこを一匹摘んで食べるなんて人間は小さい子供か、よっぽどの変わり者くらいで、それをしたところで胃袋は満たされませんから、ちりめんじゃこは、あのシラスという魚が集団になって犠牲となることで、はじめて人間にとって意味を成すことになるのであって、彼らは集団であっての味覚なのです。
アラが切り身での味覚に対してちりめんじゃこは何十匹という集団でこその味覚なのです…。
ちりめんじゃこをご飯にかけた時に、茶碗から四・五匹程度よく溢れ落ちます。
この溢れ落ちたちりめんじゃこはご飯が済んで食卓を片付ける際に、台拭きで食卓を拭くのと一緒に存在を消し去られてしまいます。
つまりはこの溢れ落ちたちりめんじゃこは結局のところ無駄死にだったに過ぎないのです。
誰にも食べられる事すらなく、集団でなければならない為に命を奪われたのでございます。
同じ魚…。小さいだけで心臓もあるわけですから、もしも数センチの人間が数ミリの包丁を手にしてシラスを捌いたなら、心臓のドクンドクンというポンプを感じられるかもしれません、いや多分感じられるでしょう…。
それからというもの、命について考える癖がつきました。
私はこれまで何匹の魚を食べてきたのでしょう…。何十、何百、何千、いや何万?
そんなことを考えたら、人一人が生きているのに対して、きっとおびただしい数の魚を犠牲に…。もちろん魚だけではございませんが、ここでは魚だけで考えてみますと、それらの命の代償を払ってまで、「生きている価値のある人間なのだろうか」と、私は自分を問うてしまいます。
それからと言うもの、自分のお皿の上に身体を焼かれたり、煮たりされた魚の眼と、私の眼が合うと、恐ろしくもあり、哀しくもあり、なんだか不思議な気持ちになってしまいます。
死んだ魚はどういう思いで、その白濁の瞳で私を見つめているのでございましょうか…。
そんなことを考えていると、電車が駅に停まり、いつの間にか三駅程通過しておりました。
乗降口の扉が開いて、家事が済んでこれから買い物に行くのであろう叔母さん達や、少し早く学校が終わったのでしょう、学生達がガヤガヤと乗車してきました。
乗客が座る座席を確保するか、座らずに立っているのかが決定した頃合いで電車は再び進み出しました。
ふと乗降口付近を見ますと、柄の細い雨傘を持って立つセーラー服姿の女子学生がおります。アイボリー色の傘の淵にはネイビーで、小花柄かリボンかマカロンか、そう言う類の繊細な装飾が可愛らしくあしらわれております。
昨日は午前中に雨が降って、午後からは朝の雨が嘘のようにカラリと晴れ渡ったものですから、少女はおそらく学校に傘を忘れて帰宅してしまい、今日になって傘を持って帰っているといったところなのでしょう。
私は、晴れた日と雨傘の少女の組み合わせが、頭の中で妙に引っかかりました。
それと同じくして、第六感というものでしょうか、直感的に引きつけられる魅力的なものを感じたので、この少女をお得意の空想癖の興味の対象にしてみることにしました。
私は時折、読心術とまでは恥ずかしくて言えたものではございませんが、気になった人間の心の中を想像して遊ぶ癖がありました。
正確な的中率は分かりませんが、遊びの割りにしては、思いっきり的外れな想像というわけでもないようで、想像をした後、その人間の動きや言動などを観察していると、そこそこ当たっていると感じる事が多いのです。
そして今度は、この少女の心情をあれこれと思い浮かべてみようと思いました。
もちろん、この場合も遊びの一環で想像するのですが、少女の心情を自分の都合が良いように闇雲に思い描くといったような、そんないやらしい事はなく、もっと十代特有の、センチメンタルな気持ち、強いて言えばそれ以上にこの少女ならではの特有の気持ちになって想像するのです。
ところで、こんな悪趣味な遊びをする私は、いったい何者なのでしょう…。
そして誰に教わったでもなく、もちろん誰にも言えない、言ったら軽蔑されるであろう遊びを、私はいつからはじめたのでしょう…。
そう懺悔の念も併せ持ちながら、少女の心を読みはじめました…。
「はあ…。恥ずかしい…。昨日ちゃんと確認して帰れば良かった。午後になって晴れたから、傘を忘れないようにしようって思ってたのに忘れるなんて…。情けないわ…」
「せめてみんなと一緒に帰れていれば、誰かが傘を持って帰っているのを見て、傘を忘れてる事にすぐ気付いたでしょうけど、先生と進路についての面談があったから、放課後は私一人になって、早く帰らなきゃって急いでしまったんだもん…」
「でも、どうして遅くまで学校に生徒が一人で残っていると急に心細くなってしまうんでしょう…。不気味に感じて、なんだかこれから先は先生だけの時間というか…、生徒禁制の時間のような気がして、バタバタと慌てるように帰りたくなっちゃうのは何故かしら…」
「はあ…。それにしても恥ずかしい…。こんなに晴れた日に傘を持っているなんて、周りから見たら絶対変な人に思われちゃう」
「はあ…。さっきからみんなが私を見てる気がする。傘を持ってる私を数奇な目で見てる気がして怖い。恥ずかしい」
「こんな姿を、もしあの人に見られてしまったなら…。私の恋は想いを伝える事も出来ないまま儚く散ってしまう…。だからどうか、あの人にだけは見られませんように…」
私は眼をつぶって少女の気持ちになって想像を膨らませました。
この時点で、私が実際に自分の眼でしっかりと見たものは少女の傘くらいで、少女についてはまだピントを合わせて見ていなかったのです。セーラー服を着ているという程度で、彼女の肩から下しかほとんど把握してなく、ぼや~と靄がかかったように雰囲気で少女を認識していたのです。
私はそっと眼を開け少女の容姿をじっくりと観察してみることにしました。
三章
晴天の霹靂とはこの事を言うのでしょう。
あまりにも予想を超えた少女に私はドキッとして、言葉を失い、おののいてしまいました。
一瞬全身の血の気がひいて、心の中の声を失ったのです。
残念ながら、私の居る角度からでは少女の左体側しか見えない上に、少女が顔をちょっと下に向けていたものですから、顔の半分程に黒く影がかかり、余計に顔が見えにくかったのですが、それでも、この少女が本当に美しくきれいである事は、推量するに難くありませんでした。
私の美的感覚についてですが、私は子供の頃から芸術が好きでございました。よく、図書館に行っては絵画の本を借りて、海外の美女の名画を見たり、美術館では美しい女性をモデルとした美術品を見て育ちました。
それに加え写真を見ることも好きでしたので、美少女の写真なども随分と眼にしてきました。
その為、眼が他の人よりかなり肥えておりまして、他人の言う「綺麗」や「可愛い」「美少女」と言った水準は、私にとってみれば随分と低いレベルに感じられてしまうのでございます。
周りの男達が、たいして可愛くもない女を「可愛い」やら「美女だ!」と盛り上がっている中で、自分だけはそれが理解できないという苦しみが、幾度となくあり、寂しい思いをした事がございます。
私は自分の生み出したこの厳しい「美」の基準を何度呪った事でしょう。
私にとって「美しい」や「綺麗」「美少女」と言った基準は、随分と疑り深く、狭き門を潜り抜けた所に存在する尊いものでございました。
もはや自分でも、芸術品でしか辿り着けない領域ではなかろうかと考えており、恋愛においてはその「美」の観念は持ち込まないようにしようと思っていたものですから、私が異性を好きになる条件は、女の持つ、「愛嬌」や「健気さ」から来る「可愛さ」だと思っていました。
しかし、この少女は違いました。
そんな私が沈黙してしまう程、名だたる名画にも劣らない美少女だったのでございます。
上品に愛らしく傘を持って立つ姿が芸術そのもののように感じ、傘がまた一段とその絵(少女)の芸術性を高めているようにすら感じられました。
艶々と水を含んだ様な、まとまりのある髪。
きめ細かい白い肌。
緩やかなカーブを描く薄紅色の頬。
紺色のスカートの下から伸びるスラリとした白い脚。
か細く長い華奢な指先。
髪の毛は束ねてアップにしており、そこから見える白く細いうなじが少女の可憐さをより際立たせていました。
また、頬から輪郭に沿って垂れる髪の毛の束が、かぐや姫を彷彿させ、長いまつ毛と澄んだ瞳が物憂げで、激しく私の心を締め付けました。
このままずっと見ていたいと感じさせる芸術的な美少女に、私のハートは悔しくも刹那にして骨抜きにされてしまいました。
それと同時に、この空間の儚さが私の心を襲ってきました。つまりそれは、この少女と同じ空間に居座れる事があまりにも短く、ひょっとすると次の駅で終わりになるかもしれないという気持ちでありました。
その断末魔の迫り来る気持ちが次第に大きくなり、「この少女がもしこの電車を降りてしまったら、もう二度とこの少女に出会うことはきっとないだろう…」そう思い、そう信じざるを得ませんでした。
神様は昔から意地悪で悪い予想程よく当たるものなのです。
「いやだ、いやだ、いやだ!」
私は駄々をこねる子供のように、その現状を否定しました。
どんなに否定したところでその打開策は、自分の行動でしか変えられない事は分かっていましたが、この迫り来る断末魔を否定する感情を確信した事で、私のこれから起こさんとする行動の勇気と正当性と、行動をしなかった事で後悔するであろう事態を確信したかったし、そしてそれを今確信したのです。この状況でこうも冷静に分析している私はやはり落ち着いています。
「まさか自分がこんな気持ちになるなんて…」
「恋という感情において、まさかこんなにも積極的になるなんて…」
狙った訳もなく女に好かれてしまうという、他人には理解と相談の難しい病を持ち、友人からは「女達者」などと冷やかされてきた私が、こんなにも息が詰まり、切羽詰まった状況に精神が追いやられるのは、この少女が初めてでした。
私は鞄の中から、万年筆とメモ帳を取り出し、ブルーブラックのインクで、彼女の性格を考えながら一文字ずつ丁寧に、私の名前と連絡先、短い文章をしたためました。
それを書いている際に、数年前の出来事を思い出しました。
それは、私が毎日バスを利用して通学をしていた学生の頃の話です。
バスに乗り込もうとした時に背中をツンツンと突かれたので、後ろを振り向くと、見覚えのない女性から無言で水色の紙を渡されました。
それは小さな小さな封に入った手紙で、内容を要約すると「いつも見かけてて、興味を持ったから、連絡をしていただけないですか?」といったもので名前と連絡先が一緒に記されていました。
前々から準備されていたのであろう、その女の手紙に対し、今私が綴っているのはメモ帳という点で、いくらか不安もありましたが、あの時の私に好意を寄せた女の行動を真似てみるしか今の私には出来ないのです。
そんな事を思いながら、このような文章を書きました。
「驚かせてしまってゴメンなさい。電車で見かけて、とても気になってしまって、どうしても友達になりたくて、声をかけてしまいました。
もし迷惑じゃなければ、僕とメールをしてくれませんか?」
書きたい事は他にもありました、けれども、長い文章は圧迫感を与える気がして自分なりの最小限の文章にしました。
文章が丁寧でかしこまり過ぎるのも厳かになるので、ほんの少し茶目っ気を交えた文章で書きました。
勿論、友達になりたいと書いたのは相手の警戒を極力少なくする為の建前で、本当は恋愛感情を含んでいることを、少女も察知するでしょうから、わざわざ書くまでも無いと思ったのです。
このような様々な工夫が吉と出るか凶とでるか…それとも、そもそも論外であるのか…
そんな事を思いつつ、メモ帳を小さく四つ折りにし、渡すタイミングを見据えながら、私の心臓がまるであの時のアラのようにドクンドクンと激しく動いている事を感じました。
それから五・六分程経ち、電車が駅へ到着しようと、完全に停止する為の最徐行と言ったらいいのでしょうか、そうしていると少女から、ここの駅で降りる気配がしました。
いよいよだと思うと私の心臓はより一層高鳴りましたので、「血圧が上がり過ぎて血管が切れてここで死んでしまうんじゃ…?」なんて馬鹿げたことを一瞬思いました。
心臓は焦っているようですが、私の脳はこの状況でも予想に反して冷静なものでした。
驚くほど極端に心臓と脳が違う態度を示したので、人間は考える場所は二つ備わっていて、脳みそで考える事も、こころで考える事も出来るのかな?そんなことをチラッと思いました。
こころで考え感じたものを「気持ち」とするなら、私の今の状況は脳より気持ちが優位になって行動を起こしてる?なんていう、もう自分でも訳分からない馬鹿げた事を瞬時に考えていた時に、電車の乗降扉が開き、少女が降りました。
私もすぐに電車から降り、少女の後を追いかけました。
人気の少ない駅でした。
少女の歩みがホームの階段にさしかかった所で、少女の肩をトントンと二度軽くたたきました。
少女がくるりと振り返り、不思議そうにして私を見上げています。
少女のまん丸な瞳は、汚れを知らない少女の無垢さ、こころの綺麗な様を現しているようで、それを間近に見てしまった私は、圧倒され、一瞬怯んでしまい、目線を逸らしました。
そのまま逃げだしたくなりました。
「えっと…」
眼線を伏せて逸らしたまま、やっとこさ出た言葉でした。
直視は出来ないものの、少女がポカンとした様子で黙ってこちらを見ているのがなんとなく分かりました。
「あの、これ、良かったら、読んで下さい…」
自分でも分かる気弱な声でそう言って、少女に四つ折りにしたメモ紙を渡し、少女と目を合わせ、最後に照れ臭そうに笑って、そのままぎこちなく回れ右して隠れるように逃げました。
少女が利用するのであろう階段とは反対側の別の階段を駆け下り、そのまま近くのトイレへ駆け込みました。
心臓がはち切れんばかりに緊張したものの、最後の照れ臭く笑った仕草は、とっさにその場の状況を読み取り、直感的にそうする方が良いと感じてからの行動でした。
つまりは冷静だった脳みそが起こした演出のようなものでした。
そして「人事を尽くして天命を待つ」と心の中で小さく声にしました。
すぐにこの場を出ると再び少女と出くわしてしまう危険があるので、洋式トイレに腰掛けて待つ事にしました。便座に座った途端、急に膝がガタガタと揺れ、上半身まで身じろぎました。そのまま「落ち着け、落ち着け」と唱えつつ、彼女がそこら辺に居ない事を願いながら二十分程トイレで過ごしました。
私がなぜ少女と出くわすのが嫌なのか分かりますよね?説明なんかしませんよ?
トイレを出てから、人気の少ない改札を抜けました。
ふらふらと商店街を歩き、昭和の匂いが漂う「ルフラン」という純喫茶に入りました。照明やテーブル、椅子やら、店内全てが茶色っぽい色味で統一されており、ドビュッシーのピアノの音と珈琲の香りに包まれた上品でアンニュイな店内でした。
店内の角の赤褐色のソファーに腰掛け、適当にメニューに目を通しプレーンワッフルとウインナー珈琲を注文した後で、急に罪悪感が襲ってきて、うしろぐらい気持ちになりました。
ああするしか無かったのでしょうが、いきなり手紙を渡すという手段をとった自分が情けなくなってきて泣きたくなりました。
少女のまん丸な瞳で私を見上げる絵が頭に焼き付いて何度も何度も再生され、その無垢な瞳に、何故かうしろめたく、懺悔したくなり、また少女を驚かせたであろう事に罪の意識、そして自分がもの凄く下衆な男に感じました。それ程まで少女の瞳が美しすぎたのです。
こみ上げてくる自責の念に精神がやられそうでした。
私は自分を慰める為にでございましょうか、文豪が書いた、娘や少女が出てくる小説を思い返しました。
やはり私は純文学作家の端くれの性というものなのでしょうね。困ったり、悲しんだりした時は純文学が心の拠り所であり、特に今は谷崎潤一郎の女にまつわる小説の数々が私の罪の意識を解放させてくれる気がするのです。
しかしこの時、救い主の代表作である『刺青』に至っては別でした。
背中を彫られた後の娘の心の変化が過激すぎ、私には些か娘が女へと移り変わる複雑な精神的変化、成長に現実味が感じられず理解出来ないものでした。
きっと、女心を熟知した繊細な男にしか分からない部分なのでしょう。
娘から女へと変化を遂げようとしている、その複雑な狭間で生きる女というものを、私はまだ知らない。という事を意味しているのだと思っていました。
そして、谷崎潤一郎に救いの手を求めている自分が、なんだか奇怪で不可思議な人間に感じつつ、あの少女が私にもたらした、後遺症とでもいいますか、この糸をひくような、心に重たい一物でも残すかのような…そんな魔物の如き美貌にゾッとしました…。
喫茶店を出た後、私がどこへ行ったのか自分でもほとんど覚えがありません。
その日は夜になって家へ帰り、遅めの夕食を一人で食べたのですが、味が感じられませんでした。
テレビを見ても内容が入らず、母親に話しかけられても魂を抜かれたかのように生返事で応え、頭の中では日中の出来事が繰り返され、あれは夢か幻か、そんな事ばかり考えていました。
携帯に少女からの連絡が入る気配も無く、あの様な美しい少女に一縷の希望を持ったことを反省し、ただただ私は萎え、早めに床に入りました。
枕に右の耳を沈め眼を閉じると、自然と切ない水が流れてきて、そのままじんわりと枕を濡らしました。
その夜は静かに過ぎていきました。
四章
翌朝、朝日が昇る眩しさで眼が醒め、寝ぼけ眼のまま時刻を確認しようと携帯を手にした途端、ドキリとして飛び起きました。
見慣れぬアドレスからのメールで、その内容を読んでみますと、送り主があの少女だったのであります。
「夜分遅くに申し訳ありません。今日駅でお手紙を頂いた夏川姫名乃という者です。連絡するか迷って、悩んだあげく、こんな時間になってしまい…すみません。手紙を頂いた時は戸惑いましたが、嬉しかったことと、手紙の文字を見て何となくですが、連絡しても大丈夫な方かなって気がしたので連絡してみました。」
送信時刻は午後十一時四八分で、もう私がすっかり寝てしまっていた時刻でした。
なんと、いじらしい女でしょう。
なんと、可愛い女でしょう、文章すら可愛く感じました。いや、実際に丁寧な文章ながらも、ほんの少しだけくだけた可愛い文なのです。
このメールだけで少女の知性や育ちの良さが分かるようでした。
私は一文字ずつ、丁寧にメールを作り返信しました。
「メールありがとうございます。まさか連絡が来るなんて思ってもみなかったので、本当にびっくりしました。素直に、とても嬉しいです。ぜひ仲良くなりましょう。さっそくですが、何とお呼びしたら良いですか?」
すると時間的に通学電車の中だったのか、すぐに返信が来ました。
「おはようございます。こちらこそ改めてよろしくお願いしますね。何でもお好きな様に呼んで構いませんよ。逆に私は何とお呼びしたら良いですか?それと、お幾つで、何をしてらっしゃる方ですか?大学生?質問攻めしてごめんなさい。」
謝られるどころか、質問してくれることが嬉しく思いました。見た目の予想に反し、無邪気であどけなさが感じられ、私の緊張もほぐれました。これは私にとって嬉しい予想外の出来事でした。
「じゃあ、ヒナちゃんと呼びますね。馴れ馴れしいかな?僕の事は苗字でも名前でもあだ名でも、何でも好きに呼んで下さい。あはは、残念ながら大学生じゃありません。二十六歳で一応作家をしてますよ。」
「ヒナちゃんで大丈夫ですよ。作家さんですか?うわぁ凄い!私、読書が好きなので、趣味やお話しが合いそうですね。あ、じゃあ…作家さんなので、先生って呼びますね。先生見た目が若いから大学生くらいかな?って思ってました。笑。私は十八歳の高校三年生です。」
小説を書いていると、度々冷やかしで「先生、先生!」や「平成の太宰治先生」とか呼ばれますが、ヒナちゃんから呼ばれる「先生」には、たまらない愛着を感じました。
「先生…、かしこです。笑。でも先生ってのはちょっと照れ臭い気もするね。笑。あまり老けないもので、普段から年齢より若く見られます。ヒナちゃんの予想より随分とおじさんで何だか申し訳ないです。」
「かしこって…笑。先生ってなんだか昔の人みたいで面白いですね。笑。いえいえ、私はおじさんなんて思いませんよ。それにあの時の笑顔が可愛かったです。笑。じゃあ、そろそろ学校に着きますので、一旦失礼しますね。作家のお仕事頑張って下さい。」
「あはは、面白いなら良かった。そんな事言われたら照れます。なんだか朝から照れてばかりだな。笑。でもありがとう。ヒナちゃんも学校頑張ってね、また後で。」
メールは敬語とタメ語が自然に混じるようになっており、それが可笑しく思いました。
ふと冷静に考えると、メールの相手が昨日の美少女だと改めて思うと、夢か嘘のように感じ、順調すぎて怖いくらいでした。
その後朝食で、ごはんとおみおつけ、焼き魚を食べましたが、今朝は昨晩の夕食と違った意味で味がしませんでした。
今日、私は週に二回のアルバイトの日でした。ちなみに駅沿いの小さなカフェでアルバイトをしております。
今朝少女に生業を作家と言ったばかりなので、早く原稿料だけで食べて行きたいと思いながらアルバイト先のカフェへと向かいました。
今日のシフトは柳田という男子大学生と組まれていました。この柳田も私の事を「先生」と呼ぶので、この日は柳田に「先生」と呼ばれるのが何となく癇に障りました。
柳田は歳下ながら調子の良いやつで、さっそく今日もこんな感じで絡んできます。
「先生、そろそろ夏本番ですよ、先生~小説なんか書いてたらもったいないですよ!」
「先生、普通に結構かっこいいのに、女とあまり遊んでないとかもったいないですって!」
「先生、あれなら、大学のサークルの女の子紹介しましょうか?」
私は柳田を愛想笑いで適当に交わし、頭の中で、ヒナちゃんの事ばかりでしたので、柳田がヒナちゃんの足元にも及ばない女の話をする度に辟易していました。
私は、柳田という男が、純朴で、汚れを知らない、尊い真の可愛い女を知らない事、そしておそらく今後も知ることがないであろう事を考えると、柳田の女性に対する恋愛感を余計な御世話ではありますが少し憐れんでしまいました。
アルバイトが午後五時に終わり、携帯を見てみると、ヒナちゃんからのメールが来ていて、その瞬間、アルバイトの疲れと、柳田の絡みによるストレスが一気にふき飛び、どきどきしながらメールを開きました。
「お仕事お疲れ様です。執筆は進んでいますか?笑。私は学校が終わって、これから九時までアルバイトに行ってきますね。また後で。」
送信時間を見ると十六時四五分でした。
ヒナちゃんとメールができると楽しみにしていたものの、予想外のすれ違いでした。もうアルバイトが始まっているしょうが、すぐに返信しました。
「執筆はぼちぼちかな。笑。今度書いたもの見せますね。ヒナちゃん遅くまで大変だね、ちなみに何のバイトしてるの?バイト頑張ってね。あまり無理はしないように…。」
ヒナちゃんは私が今日執筆をしていたと思っていたようなので、カフェでアルバイトをしていたと言うと、彼女をがっかりさせるんじゃないかと心配になったので、アルバイトをしていた事は言いませんでした。
それに私にとっての執筆は日常生活の発見や出来事が執筆のヒントになる事が多いので、アルバイトは単なる生活費の足しではなく、そういった理由からも今の私には意味のあるものでしたし、それに後々話せば良いかと思いました。
それよりも、ヒナちゃんがアルバイトをしているということが少し意外でした。
それから彼女が何のアルバイトをしているのかや、接客業であれば変な客に絡まれやしてないかなどが凄く気になりながら、九時が来るのを今か今かと待ちました。
八時五十分を過ぎた頃、彼女にメールを打ちました。
「バイトお疲れ様。一日よく頑張ったね、気をつけて帰ってね!」
それからしばらくして、メールが来ました。
ヒナちゃんだと思い、慌てて携帯を手に取ると、柳田からの「ホークス勝ってます?」というメールだったので、期待した分、普段は温厚な私もイラッとしてしまいました。
柳田は恐ろしくくだらないメールを度々送ってくるのですが、このタイミングでの柳田には流石に腹が立ちました。
そうしているとまたメールが来て、今度はヒナちゃんからでした。
「アルバイト終わりました。先生からメール来てて元気でました。筑紫中央病院の隣のファミレスで働いていますよ。心配もありがとうございます。嬉しいです。気をつけて帰りますね!」
その日は彼女が家に帰ってからも、メールをしました。
興奮染みた嬉しさが最高潮に達している私はお酒を飲んでいる訳でもないのに勢い付いており、せっかちになっておりまして、無性に彼女の声が聞いてみたいという、一種の好奇心と言いますでしょうか、彼女の顔が見えない事で、携帯越しの彼女が絶世の美少女であるという意識がぼやけてきたのか、はたまた夢の中でのやりとりの感覚でしょうか、程よいスリリングな緊張感を求め、「電話してもいい?」と問いかけてみると、「まだ電話は何だか恥ずかしいです…。ごめんなさい…」とあっさりかわされたので、たちまち興が覚め冷静になり、メールで、誕生日や血液型、身長や趣味、好きな食べ物など、極々単純なプロフィール交換を行いました。
しかしこの今迄に感じた事の無いじれったさがまたいじらしくて、愛おしさが増す感覚なのでございます。
極々単純なやりとりですが、この単純なやりとりがこれまで経験したどんな遊戯よりも新しく、純粋で楽しかった事か、お判りになりますでしょうか?
それは二人だけの秘密にしておきたいので、ここでは、あえてあなたの想像に任せますね。
その日から毎日、主に夜、メールをしました。毎日といっても彼女がメール漬けになるなんて事はなく、勉強する時は勉強に集中する女の子で、メリハリがあり、真面目で、学校の成績も上位な様でした。毎日机に向かう習慣があり、ヒナちゃん自身も「勉強は好きですよ。知らなかった事を知ると楽しいし、分からない事が分かるようになると嬉しいです」と話していて、俗に言う「お利口さん」な女の子なのでした。
メールの内容は、私の書いた小説やエッセイの話、何をして過ごしたのかなどで、ヒナちゃんは学校での出来事や勉強の事など、まあ大した内容ではないのですが、それがとても楽しく、そうしているうちに凄く会いたくなってきます。
特に夜は悪い魔法にかかるのです。感情的になってしまい、まだ言わずに大切に大切に心にしまっている、「ヒナちゃんの事が大好きです」という気持ちが源泉のように湧き出てきて、危うくメールにしてしまいそうで、その気持ちを抑えることが苦しくなります。
そうして今の私は、ただただ会いたい。ただそれだけなのです。
その願いが叶ったのは、それからすぐの事でした。
次の土曜日、ヒナちゃんの学校が終わってから、アルバイトまで少し時間があるとの事なので、二時間程度ですが、会う事になったのです。
ヒナちゃんの土曜日の予定ですが、十二時半過ぎに学校が終わり、一度家へ帰って制服を着替えて、駅沿いの本屋に二時に私と待ち合わせ、そして四時からアルバイトという具合です。
迎えた土曜日、私はファッション雑誌を参考に、下手に流行に乗らず自分に似合う物を組み合わせ、それなりに満足いくお洒落ができました。
待ち合わせ場所へは電車で行くかオートバイで行くか迷いました。車という選択肢も無い事もないのですが、家にある車と言っても母親が使う軽自動車でして、なんとなくそれは気がひけるので、迷った末にオートバイに決めました。
待ち合わせ時刻より二十分以上も早く着いた為、本屋の向かいにあるコンビニのトイレへ寄って、ヘルメットで潰れた頭髪を整えました。髪の毛を整えながら高鳴る鼓動を抑えようとしても、期待、嬉しさ、喜び、緊張、不安、恐怖と一度に様々な感情が込み上げて来るものですから、到底不可能な試みでした。
コンビニを出て約束時刻の十分前に本屋へ行きました。すると本屋の入り口付近に、小さめのショルダーバッグを斜めにかけ、行儀よく起立した彼女が待っていました。
プリントの入った白いTシャツに、黄色の花柄が入った水色の膝丈スカート、白のスニーカーといったラフながらガーリーな着こなしおしており、まさに女の子でした。
もちろんヒナちゃんは女の子ですが、ここでの女の子とは、女の子の中の女の子という意味であり、彼女は神に選ばれた女の子とでも言ったら伝わるでしょうか、兎にも角にもそういう雰囲気を漂わせていました。
彼女は今日も髪をアップにしていました。これからアルバイトだからだろうか、それともアップが好きなのだろうか、そう思いつつも輪郭のはっきり分かるその髪型は彼女の可愛さが紛れもなく本物である事を証明しているようにも感じました。
五章
「ヒナちゃん!お待たせ!」
私が手を振って歩み寄ると、彼女は微笑みながら軽く一礼し、照れくさそうにしています。
彼女を前にすると私の想像以上に緊張している私がいました。緊張しているのにも関わらず、無理に緊張を隠そうと見栄を張り、とりあえず固い笑顔で応えました。そして
「いや〜、相変わらず暑いね」
「本当ですね。今日は暑くなるって天気予報で言ってましたもん」
と、謂わば通俗の、実際内容なんてどうでも良く、何も頭に残らないような挨拶じみた会話を皮切りに緊張を解していきました。
「どこ行こうか?」
「ん〜、ゆっくりとお話しが出来る場所に行きたいですね」
「どこか良いところあったかな〜?」
「どこか心当たりありますか?」
わざと考える振りをしましたが、実は最初からこうなる事を見越して場所は決めてありました。
「う〜ん、あっ!じゃあ…」
「どこか思いつきました?」
「うん、僕の行きつけが近くにあるんだ。そこでもいいかな?」
「先生の行きつけなんて、なんだか面白そうですね。そこに行ってみたいです」
実はこの時考えていた場所は、手紙を渡した日に立ち寄った純喫茶店のルフランであり、もちろん行きつけではなかったのですが、そういう流れの方が会話を上手く運ぶ事が出来ましたし、事実ルフランの落ち着いた雰囲気と味を私は気に入っておりました。
「じゃあ決まり!おいで!」
そう言って手招きをして彼女を、オートバイを停めている本屋の駐輪場へ連れて行きました。
駐輪場?っといった具合にヒナちゃんが不思議そうにしています。
「実はバイクで来たんだ。僕、文系なイメージだからバイクのイメージなんて無かったでしょ?」
「え、先生がバイク?凄く意外!行きつけのお店まではバイクで行くんですか?」
「うん、ヒナちゃんを驚かせたくて、そのつもりだったけど…やっぱ無理かな?」
ヒナちゃんは少し考えながら、
「ちょっと怖いけど…、乗ってみたい気もします」と答えました。
ヒナちゃんを後ろに乗せるためにオートバイで来たようなものでしたから、その返答が嬉しいものでした。
私がオートバイを見せると、キラキラと輝くクロームメッキと、丸っこいレトロな見た目が彼女の眼には上品に映ったのか、「わぁ、かっこいい!お洒落ですね!」と少しはしゃいだ声を出し、上品で落ち着いたオートバイの見た目だったせいか、彼女の顔から安堵の色が伺えました。
ヒナちゃんにハーフキャップのヘルメットを渡すと、顎紐に苦戦しながらぎこちない手付きで被ります。
「ちょっと大きくないですか?大丈夫かなぁ…」
「うーん、ヘルメットは少し大きく感じるモンだからね、その分、顎紐しっかり調節しとこうね」
この頃になると、ヒナちゃんの口から少しずつ、敬語でない会話もぎこちなくですが聞こえるようになりましたので「ヒナちゃん、別に敬語使わなくてもいいよ」と言うと、
「ありがとうございます。そうですよね、ずっと敬語だと、それもそれで感じ悪いですよね…ごめんなさい。私敬語が癖になっちゃってて、敬語の方が話しやすいんです。でもタメ語も使えるようになりますね!」
と申し訳なさそうに言った後で、とりつくろうような、なんとなく気まずそうな笑顔を見せました。
そんな小さな事を気にしていた彼女が、また健気で愛しく、抱きしめたくなりました。
「ううん、無理に直したりしないで、ヒナちゃんが一番気楽な状態で僕に接してくれるのが僕も一番嬉しいよ」
「本当ですか?敬語でも嫌な気になりませんか?」
「ああ、もちろんだよ」
と優しく言って返すと、彼女がほっこり笑って「ありがとうございます」と言いました。
何事でも無いんです。
何事でも無いことなんです。たったの、ただの「ありがとうございます」なんです。しかし私は自分の方こそ「ありがとう」という気持ちがこみ上げ、そこから何故か彼女の「ありがとうございます」という言葉に人間の求める尊き愛情、平和、慈悲深さのような温もりを感じ、それが嬉しくて、嬉しくて、泣きたくなるような、、じわりと心の底から温かい気持ちに包まれました。
さて、ヘルメットも被り終えたので、いよいよオートバイに跨ります。
私がオートバイに跨った後に、いよいよヒナちゃんの番です。
タンデムステップに足を掛け私の肩を持って頑張って跨ります。
膝丈の柔らかい生地のスカートだったおかげで、私が、いや世の中の男子が心配していた事はなく、無事にシートに座る事が出来ました。
彼女にしっかりと掴まってるように言うと、
怖いのでしょう、ギュっと私に密着してしがみつきました。
私の腹部にまわった手に自分の手を合わせ、「もし怖かったら遠慮なく言ってね。」と言ってオートバイのアクセルを繋ぎました。
するとどうでしょう、私の心配とは裏腹に、ヒナちゃんは「凄い、凄い!」と歓声を上げて楽しんでいるのです。
私が「どう、大丈夫?」と聞くと、
「風が凄く強いけど楽しいです。先生、今何キロ位出てるんですか?」
と言った具合でございました。
その後も、「先生、なんだかバイクの後ろに乗ってると不良になったような気分になりますね。なんだか映画みたい」
と面白いことを言うので、ついつい笑ってしまいました。
「バイクってやっぱり不良のイメージかい?」と聞くと、
「私には縁がないですもん、昔の映画とかで不良が乗るイメージだったから…。だから先生も今は不良です!」
なんて言って嬉しそうに笑うので、私も可笑しくなってまた笑いました。
そして、尾崎豊の『十五の夜』なんかを口ずさみました。ヒナちゃんも知っていた曲らしく、ハミングで合わせてくれました。
きっと側から見たらお気楽者で、奇妙に思われたでしょうが、それがまた愉快でにやけ、幸せを噛み締め、この現実が事実なのか心配になりました。
でも、この心配から私は昔なにかの書物で読んだ、フランスの思想家、デカルトの唱えた「我思う、ゆえに我あり」Cogito, ergo sumを実感しました。
と言いますのも、幸せ過ぎて怖いくらいで「私は本当に実在しているのだろうか?」
そう不安になったからです。
しかし、こんなにも不安で心配してあれこれ考えを巡らせているということは、つまりそれは私が実在していることの証明じゃないか。と……。哲学染みたことはあまり分かりませんし、それで理解した気になって良いものかも分かりませんが、少なくとも私はデカルトの思想を実体験で理解した気になったのです。
この時の私は、自分の精神が幸せのあまり現実の世界から離れた所に解き放たれ、解離した状態でふわふわとした世界観に包み込まれていました。でも、もちろん、これを経験している私は間違いなく実在しておりました。
そんなちょっと夢の中のような不思議な感覚を過ごしつつ、二人を乗せたオートバイはルフランへ到着し、私はあたかもこの店に馴れたそぶりでヒナちゃんを店内へと導きました。
店内には三十代後半から七十代ではなかろうかと見られる客がそこそこ居りまして、そこにこの店にしては珍客であろう女子高生のヒナちゃんが入った訳ですからガクンと店内の平均年齢を下げ、ヒナちゃんの存在が他の客には見慣れぬ光景だったせいか、はたまたヒナちゃんの美しさが年齢を問わず、この中年から老人にかけての客たちを魅了したせいなのか、まあ確かなことは分かりませんが、それまで穏やかだった店内の空気すらざわつかせるといった、そんな気さえしました。
いや、客の視線が彼女に向けられていた事を考えると、私の感じたことはおそらく当たっていたのでしょう。
私たちは向かい合って四人が座れるソファーの席へ腰掛けました。
メニューを一通り見て、私はブレンド珈琲とプレーンワッフルのセットを、ヒナちゃんはレモンスカッシュとホットケーキのセットを注文しました。
彼女は純喫茶が初めてな様で、あたりを物珍しそうにキョロキョロ見渡し、「うわ〜凄い!ノスタルジックで小説家や探偵が集まりそうなカフェですね。先生!」と言いました。
「あはは、こんな場所は初めてでしょ。後、僕的には、ここはカフェじゃなくて喫茶店。僕はカフェと喫茶店を呼び分けているんだ。お洒落で現代的な空間がカフェで、喫茶店は昔から変わらない、古き良き時代を感じさせるものだと僕は考えているよ。どちらもお茶する場所で、居心地も良いけど、小説家としては、ヒナちゃんの言う通り、ノスタルジックな空間の方が創作意欲が高まる気がするのさ!」
と独自の自論を得意気に言いました。
「なるほど!先生のこだわりですね!」
と言い笑う彼女。
そして私は、自分の書いた作品を彼女に見せるという事をメールで約束しておいたので、作品が掲載されている本や、過去の原稿を彼女に見せ、それを話の種に様々なお喋りや、お互いに聞きたい事を質問しあったりしました。
私がワッフルをナイフで切りながら、「ところで、ヒナちゃんはなんでバイトしてるの?」と尋ねました。
彼女は少し沈黙して考えた後に、
「私、洋服が好きで、それで、バイト代が入ったら洋服を買うんです。それを楽しみにしているんですよ」と答えました。
答えるまでに少し間が開いたのが少し気になりましたが、真面目な彼女が、普通の女子高生らしい事を言ったので、なんとなく安心し、納得しました。
現に彼女はお洒落なのですから。
楽しい時間は光の如く過ぎ去り、次の予定の場所、つまりアルバイト先までオートバイで送る事にしました。
帰りの彼女は私の背に頬を寄せるようにして密着し、行きがけとは対照的に物静かで、この二人の時間を大切に味わっているかの如く感じられました。
アルバイト先に着き、
「今日はあまり時間が無くてごめんなさい。短かったけどとても楽しかったです。また遊んで下さいね」と言われ、
「勿論!また遊ぼう!僕も凄く楽しかった。時間作ってくれてありがとう。じゃあ、バイト頑張ってね!」と返しました。
彼女は「いいえ、楽しんでもらえて良かったです。はい、バイト頑張ってきますね。先生は気をつけて帰って下さいね」と言って、店内のドアを引き、振り向き際に小さく手を振って店内の奥へと入って行きました。
一人になった私は、彼女の、そんな別れ際の最後の一滴まで残心を忘れず、手を振るその姿、健気さをつましい美学とでも表現したら良いのでしょうか…彼女は自分の頭の天辺から足の爪先、はたまた相手の心に至るまで「心の眼」という神経が行き渡っていて、私が絶滅したかとばかり思っていた「大和撫子」そのものなのでございます。
もちろん他の女性もきっとこのくらいの事はするでしょうし、きっとこれは私のヒナちゃんに対する過剰な評価でございましょう。
しかし私がそう思っちゃうんですから仕方が無いことなのでございます。
だから、ごめんなさいね、許してね。
だって私は嬉しくって気が変になるくらい浮かれてるんだもの。
「可愛い可愛い夏川姫名乃ちゃん、僕の可愛い可愛い大和撫子よ。」そう心で歌い、彼女の美しき可愛気にもはや呆気にとられてしまいました。そして「彼女のバイトの制服姿まで見たかったな…」と心で思いながらも清々しく、ほくそ笑みを浮かべながら帰路についたのでありました。
さて、このままヒナちゃんとの毎日のメールや心情を事細かに書いていては短編小説として収まりきれないので、ここから先は、物語に関係するメール以外は割愛して進めて参りますね。
それからもメールは続き、二度目のデートの約束をしました。
デート当日の前夜、ヒナちゃんから「明日も出来ればバイクの後ろに乗りたいです。車は酔っちゃうから、ちょっと苦手なんです…」とメールが届いたので、私は希望通りオートバイで待ち合わせ場所へと向かいました。
待ち合わせ場所に到着すると、またしても彼女の方が早く着いており今回も行儀よく起立して待っております。
彼女の服装は、シアサッカー素材で、肩にフリルとリボン襟を施した水色のギンガムチェックの夏らしいシャツに、白のレースのキュロットスカート、白いサンダルで、バッグは前回と同じ物を使用しておりました。
今日の彼女は髪を下ろしており、今までとはまた違った女性らしさを感じ、女と髪の密接な関係性を感じました。
彼女の肩甲骨あたりまである潤んだ髪は、黒く艶やかでまとまっていて、まるで滝のように綺麗な線を描き垂れており、思わず触れてしまいたい程に美しく、それと同時に、また触れることすら恐れ多くて、気がひけてしまうくらい繊細で美しい、という矛盾を含んだ魔性の髪に感じられました。
この日は天神や博多へ出て、ウィンドウショッピングをしました。ショーウィンドウの商品を見て、目星を付けたり、あの商品はあーだのこーだのと言ったり、秋の商品が並び始めていれば、まだ早いだの二人であれこれ言って、きゃっきゃとはしゃいで笑うだけなのですが、たったのそれだけで、ちゃんちゃら可笑しく楽しいのです。
少しはしゃいで汗をかいたので、涼む為に、商店街の甘味処へ入りました。私は、まんまるとした小さめの白玉が二つ乗った宇治金時のかき氷を、ヒナちゃんは、アイスクリームが乗って練乳のかかったいちごかき氷を食べました。
二人で歩いた商店街のアーチ状をしたアーケードに、風鈴やら金魚やらレトロな風ぐるまなどといった涼し気な装いが色とりどりに彩られいて綺麗でした。
夕暮れ時になり、公園を散歩しました。
昼間と違い、二人共落ち着いた様子で歩きました。
隣を歩くヒナちゃんと時折肩が触れながらも、さすがに手は怖くて繋げませんでした。
しかし私より半身後ろを歩く彼女は、私から離れまいとピタリと張り付いてるようで、手を今更繋ぐという行動が、かえって愚行にすら感じてしまうような…そんな気持ちがしました。
歩くと私の腕が彼女のほどよく膨らんだ柔らかな胸に当たりました。
彼女がピタリと張り付いているので気をつけていても当たってしまうのです。
もちろんそれは、彼女がわざと当てているわけではないのでしょうが、触れても嫌ではないという意味なのでしょうか?私にはそんな自分の都合のいい気持ちさえしてしまいました。
きっとこれは煩悩という精神の汚い部分の現れなのでしょうが…。
私はその事には意識してない素振りをしつつも、その柔らかくも弾力のある気持ちいい感触に内心はドキドキしながら、その夕暮れの散歩を過ごしました。
完全に日が沈もうとする、静寂の夕闇に包まれた道を、オートバイは走りました。
独特の「トコトコ」と言う単気筒エンジンの音が、「バイバイ」が近づいてきている虚しさを引き立たせます。
オートバイでの帰り道、ヒナちゃんはずっとペタリと隙間なく私にくっつき身を任せ、頬を背中に寄せ夜風を気持ち良さそうに堪能しているようでした。
その温もりを感じつつ、丁寧に安全な路面を選び彼女を無事に送り届けました。
それから一人、背中に残るヒナちゃんの温もりと、今日の余韻に浸りながら、私も帰路につきました。
赤信号でオートバイを停めると、道路沿いを流れる澱んだ、汚い川がありました。
その汚い川から発生する、夏ならではの独特なドブ臭さの混ざった生ぬるい風が私の鼻を通過したので顔を上にそむけ避けました。
そうして、すっかり日も落ちた空を見上げました。
するとたくさんの青白い光の粒が空に散りばめられており、その不快な汚い川とは対照的な、とても眺めの良い夜空が広がっていました。
六章
それ以降も順調に連絡を取り合いました。
私たちは日に日に距離を縮めていきました。
この頃になってくると、私の中で「独占したい」と言う感情が日に日に大きく成長してきており、ふとした瞬間に無性に彼女を抱きしめたくもなりますし、感情で気道が詰まり呼吸困難にみまわれる感覚がして、苦しくて辛くなる時があるのでございました。
三度目のデートの日は、生憎の雨でした。その為、私も渋々ではございましたが、止むを得ず、例の母親が使っている軽自動車を借りてのデートにございます。
オートバイに乗る事を楽しみにしていたヒナちゃんも週間天気予報で雨が予想された時点で少ししょんぼりとしておりました。
彼女は以前、車は酔う。と言っていた為、きっと車での移動中は元気がないものだろうと思っていましたが、ところがどっこい、彼女はけろりとしており、まったく酔う気配が無く、それどころか
「車でのドライブも楽しいですね」など言うのです。
「はて?酔い止めでも飲んで来たか?」と思い、
「ヒナちゃん、今朝、薬か何か飲んだ?」と尋ねましたが
「ううん、飲んでないですよ?どうしてですか?」と返すのです。
「ははん、なるほど!さてはヒナちゃん、オートバイの後ろがよっぽど気に入っていたのだな?そして背中にぴたっと頬をくっつけるのが好きだけど、それが明らさまになると恥ずかしいから、酔うというのは口実で、さりげなくオートバイに乗る為にそう言ったに違いない」と思い、一人でくすりと笑うと、ヒナちゃんが「変な先生」とやや不満そうに言うので滑稽で可愛いものでした。
そういう車内を過ごしつつ、ニ人が向かった先は水族館でした。
水族館に着き、窓口で大人チケットを二枚を支払いました。
高校生以上からは大人料金でしたので私がニ枚まとめて支払うと、
「それはいけません。申し訳ないです…。いつも先生が多く支払ってくれていますし…」と彼女の分のチケット代金を私に渡してきました。
「僕が誘ったんだし、気にしないでいいよ」と言いました。
それでも、彼女はなんとなく申し訳なさそうにしていたので、私は心の中で、このチケット代金は、お昼代とお土産に換えて、想い出として彼女に返そう。と思いながら受け取り、水族館へと入場しました。
トンネル状になった水槽をくぐり、私の前を歩きはしゃぐ彼女。純白のレースのワンピースを着た彼女が、背景の水槽と重なり、まるでクラゲやクリオネを思わせました。
彼女は薄暗い水族館の中で淡く眩しく輝き、ゆらゆらとぼんやりと浮いて見え、それはそれは幻想的な美しさでありました。
水槽の魚を見ていると、岩陰にアラがボケーっと口を開けたまま岩場の陰に潜んでいるのを見つけました。私は、ふと、あの博多の商店街で土屋と会話したアラの話を思い出し、ヒナちゃんにそのアラの事を話し、その流れでちりめんじゃこの儚さについても話しました。
アラの内臓を取り出すなど、少し生々しい内容である為、思いつきで話し出してしまった事を、話している途中でやや後悔しましたが、彼女は私の心配とは裏腹にこう返しました。
「先生は、他の人が気がつかない所に気づける優しい心を持った人ですよね。」
「え、そうかな?」
「はい、そうですよ!ちりめんじゃこの事を聞いた時とか感激しました。これからもずっと先生のそんな感性を忘れないでほしいですし、私もその気持ちを凄く大切にしたいです。先生のそういうとこ、私は好きですよ」
一瞬、告白を受けたような気がしてどきっとしました。
思いのほか好感触で、褒められたことが照れくさく嬉しくもありました。そして、最後の「好きですよ」と言った時の彼女が脳裏に焼きつきました。そのシーンを何度も繰り返し頭の中で再生しては、にやけて照れて、嬉しさを噛み締めて酔いしれました。
私たちはぐるりと館内を一通り見終わった後、「触れ合い水槽」と言う、ウニやナマコやヒトデ、イソギンチャク、カニやヤドカリ、クサフグやサザエなどの生き物が入れられた、実際に触れて観察が出来る水槽で遊びました。
ヒナちゃんはきゃーきゃー言いながらもヌルヌルとした膜をまとったナマコや、毒々しい派手な色をしたヒトデを興味深く触って遊んでおりました。
ナマコを突っついてみると、ナマコの身体が硬くなり、そうかと思えば、だら〜んと死んだように柔らかくなったりするのが面白いのでしょう。
「先生、見て見て!」と嬉しそうに笑っていました。
どうやらヒナちゃんは世間一般の女の子が敬遠するであろう「ゲテモノ」と呼ばれるジャンルの生物がお気に召したようでございました。
その熱心になってナマコやらヒトデやらと触れ合う彼女を見ていた時です…、私は落雷に撃たれたかの如くハッとしました。
ナマコを触りながら前屈みになっている彼女の胸元から白いレースが見えているのです。
ワンピースの襟元がやや広いこともあって、どうやら前屈みになる事で胸元が露わになるようでした。
私はこの時、焦りと悲しみと、それでいて不思議な浪漫が入り混じったような、なんともいたたまれない気持ちになりました。
直ぐに周囲をキョロキョロ見渡しました。幸い他の男が近くに居らず、見られていなかったことに胸をなでおろしました。
どうしても、大切なヒナちゃんですから、他の誰にもいやらしい目で見られたくないという独占欲というか、ジェラシーの様なものが芽生えるのであります。
しかし、ホッとしたのも束の間、あろうことか、小学校五六年生でしょうか、真っ黒に日焼けした、いかにも野球小僧と言わんばかりの小僧が、ヒナちゃんの胸元をまじまじと見ているのです。
私はこの少年にゲンコツをぶちかましたい気持ちでしたが、そうはいきませんので、ヒナちゃんに「イルカのショーがあるから席を取りに行こう。」と言って、すぐにその場から連れ去りました。
彼女としてみれば私が急に連れ出したものですから、「どうしたことやら?」と言った具合でしょう。
ナマコやヒトデやらを名残惜しそうにしているヒナちゃんに、私は何故か八つ当たりに似た腹立たしさを感じてしまいました。
無防備だと言うことに気づいていないヒナちゃん…。
心の中で「馬鹿野郎、貞操観念…」と叫びました。
いろいろ考えるだけで、どうする事もできない葛藤で、それが彼女にも勿論言えたものではなく苦しいのでございます。
注意したいのだけれど、異性の壁というものでしょうか、それが出来ないのが悔しくもあり、どんどん嫌な想像が膨らんできて、「あの野球小僧以外にも、これまでに何人かの男たちがヒナちゃんを?いやいや、そんな事より、このワンピースを着た時は、他の男たちに見られてしまう危険があるのではないか?」などと考えても考えてもキリがない事を考えてしまうのでございます。
こんな些細なことをいちいち気にとめ、憤慨し、苦しく感じたのは、私がそんな馬鹿げたことを考え苦しんでいる事とは露をも知らないであろう、この夏川姫名乃という女が初めての事でありました…。
そしてこんな事に腹を立て、自らの精神を消耗させる自分が、本当に小さく、あさましく、情け無く、惨めで、どうする事もできず、なんだか涙が溢れそうになってしまうのでございました。
その後は、ニ人でお土産を選びました。
記念になるようにと、お揃いのイルカのストラップと、あとヒナちゃんがダイオウグソクムシのぬいぐるみを可愛がっていたので、一番小さいサイズのダイオウグソクムシのぬいぐるみを買ってあげました。
そして、出口を出て、イルカのオブジェの像の前で記念写真を撮りました。
二人ともよい顔をした写真が撮れて嬉しくなりました。
それから飲み物を買っていそいそと車に乗り込みました。
帰りの車内では、ヒナちゃんがさっき買ったばかりのダイオウグソクムシのぬいぐるみと会話ごっこをしたり、運転している私に、ちょくちょく薄気味悪いダイオウグソクムシのぬいぐるみでちょっかいを出して、からかったりして、今日の思い出話しなどをしながら帰りました。
ある程度今日の思い出話しをしたところで私が尋ねました。
「ヒナちゃんは高校卒業したらどうするの?進学するの?」
「ううん、就職しますよ」と答えます。
「でも、せっかく成績が良いのに、何で進学しないの?」
「ーーうん…」
彼女は数秒の間を空けてから、少し下を向いて話し始めました。
「実はですね…私の家は、父がもう居ないんです。もう六年前になります。父に大腸の癌が見つかりました。父もまだ若かった為に予期していない突然の事でしたから、癌保険などにも加入しておらず、随分と高額な治療費になったそうです。父が治るのであればと、様々な可能性を懸命に徹しましたが、癌とは聞いていた噂以上に本当に恐ろしいもので、痛みや吐き気、息苦しさ、下痢、不眠といった症状との闘いの日々で、食事もろくに取れなく、父は日に日に瘦せ細って、可哀想で、父と目が合うと、父は笑ってくれました。それがまた一層苦しくて、私は涙が浮かんできて…ワアっと声をあげて泣いちゃいそうで、それからは父を見る事すら嫌だと思うようになっていきました。もともと物静かな父でしたが、最期もとても静かなものでした。最後の会話は亡くなる前日の事でした。言葉の会話ではありません。眼と眼だけの会話でした。父は私たち娘に申し訳なく謝り、母に子供たちを頼んだ。と伝えたようでした。それはまだ幼い私にも分かりました。
父が亡くなる前、一生懸命生きようとする父を見る事が苦しく、もう見る事が嫌だと思った事を今でも悔やんでいます。今じゃ父の墓を撫でて、声をかけてあげることくらいしか、もう出来ないのですから…
父が亡くなって以降、母は私の他に現在十一歳と九歳になる妹たちを養う為に働いているのです。母は結婚してからは専業主婦をしておりましたが、それまでは看護師をしておりましたので、今も再び看護師として働いているんです。だから私も夜勤などで大変な母を少しでも助けようと妹たちの世話や夕食を作ったり、バイトをして少しでも家計を助けようと思ったのです。母はそんな私に気を使っているのか、お洒落をしたくなる年頃ですから身なりだけでもと思っているのか、洋服を買ってくれるのです。私と一緒に買い物をする事が母と私の楽しみなのです。そうしてくれる母の為にも、早く社会に出て働くことで、家族を助けたいと思うのです。本当は大学に行きたいって気持ちも、無いと言えば嘘になります。でも下にニ人も妹がいる事を考えると、働くという選択しか私にはありません…」
私は癌で亡くなった父親のことには、あえて触れませんでした。話を聞いて感じる事は勿論たくさんありましたが、それをどう言葉に変えても、父親との死別をその眼で見て感じてきたヒナちゃんに対して、両親との死別を経験していない私の声掛けは、下手すれば失礼にあたるように感じられたからでありました。
そして、ヒナちゃんの強く気持ちが込もった話しを聞いて、それを自分の学生時代と照合わせると、ひどく恥ずかしく思いました。
そして私が学生時代の時の、母の言葉が思い返されました。
母は私に言いました。
「勉強しなさい」
「勉強にかかるお金なら、苦しくても母さん出すのは惜しくない、だから勉強に必要な物があれば遠慮なく言いなさい。そして今のうちからしっかり勉強しなさい。母さんは勉強したくても出来なかったから、アンタはしっかり勉強しなさい」と…。
その母の言葉が込み上げ、そう言われながらもろくすっぽ勉強せず、仮にしたとしても嫌々勉強していた事を恥ずかしく感じたのです。
高校の教師をしている父を持つ私の家計は、決して贅沢ではありませんでしたが、それでも母が外に出て働くということもなく、姉弟二人を大学まで送り出し、これといって急な出費が払えないなんて事も、学生時代にアルバイト代を家に入れるなんて事もありませんでしたので、呑気気ままに大学を卒業して、今に至るのでございます。
そんなことを考えていると、彼女が再び話しを続けました。
「就職については、担任の先生がすごく良くしてくれるんです。岡部先生っていうまだ二十五歳の若い男の先生なんですけど、いつも私の事を気にかけてくれていて、優しく、親身になってサポートしてくれるんです。つい先月の話ですけど、岡部先生と面談して、私が『食』について興味があること、都会より自然が好きなこと、また笑顔が良くてコミュニケーション能力が高いから、向いているんじゃないかって分析して下さって、学校に来ていたJAの広報職の推薦を私に勧めてくれたんです。その話しを頂いてからは、私に何が出来るのかはまだ詳しくは分からないし、受かるかもまだ分からないけれど、とても興味が湧きました。だから今は農業の実態を勉強して、今、盛んに言われている農業の後継問題の改善や、生産者の思いを伝えたりと、今後の農業の発展に繋がる仕事がしてみたいって思うようになったんです」と言いました。
「ありがとう。過去の事やこれからの事をヒナちゃんが話してくれて、すごく嬉しかった。なんだか感動しちゃった。すごく考えが深くて、正直びっくりしたよ。ヒナちゃんの事を応援する。あと僕も頑張らなきゃな!って改めて思ったよ」と返しました。
「そうですか?先生に話して、なんだかホッとしました。先生は話しやすいですし、なんか落ち着くんです。でも先生は今のままで大丈夫です、ちょっとぬるいところが先生の良さですよ」と彼女は笑いながら言いました。
「軽く馬鹿にしたでしょ?」
「んふふ、そんなことないですよ。お偉い作家の大先生を尊敬してますよ」
「やっぱり馬鹿にしてるじゃないか!」
「うふふ」
「あはは…」
なんて二人して笑いあいました。
そう笑いつつも、ヒナちゃんの話しを聞いて、自分が十八歳の時にこれ程まで真剣に人生を考えることが出来ていただろうか、はたまた家族を支えるという責任感や使命感なんてあっただろうか、きっと当時の私は到底持ち合わせていなかったでしょう。今ですらあまりそのような事を考えることも無く生きているのですから…。
ひょっとするともしかしたら、彼女は私よりも大人なのではなかろうか…?そんな気さえして焦りました。いや、きっと私より強い覚悟を持っているのは確かなのです。
そして、このままではいけないと気づかされ、急に焦燥に駆られ恐ろしく感じました。
こんなにも家族思いで家庭的で、可愛くて優しい彼女を何が何でも逃したく無いと思いましたし、例え龍であろうが悪魔の心をした人間であろうが、あらゆる外敵から彼女を守れる男になりたいと強く思うのです。
しかし私が彼女を守る為には、気持ちだけでは到底いけない事なのです。一人の男として自立して、作家として安定しなければならないのでございます。
私は彼女を守りたいと思う事で、これまでのぬるま湯に浸かった生活により、長いこと芽胞のようになり冬眠していたであろう「野心」を呼び醒ましたのでありました。
男という生き物は単純だと思っておりましたが、まさか自分もこうまでも単純であり、しかもそれが恋だという、あまりにもありがちな定番の人生のターニングポイントとでも言うべきキッカケに、長い長い人類の歴史の中で幾億の人間が、神の仕業によってか、無数に繰り返してきたであろうそのキッカケの型に、私もまたはまってしまったことに半分呆れつつ笑いました。
ただ何故かこの時、直感的に、岡部先生という男に対して嫌悪を抱きました。
七章
水族館の帰り道での、ヒナちゃんの話を聞いて以降、私の心情は、これは私じゃなく他人の心が乗り移ったのではなかろうか?とさえ感じられる程、真面目で野心家な人間へと変わっていきました。
しかもかなりの短期間でガラリと精神が入れ替わるものでしたから、自分の隠された裏の顔とでも言いますでしょうか、どこぞやの野球チームのユーティリティプレイヤーがあらゆる局面に柔軟に対応するかの如く、新しく生まれ変わった新生な私を、古い過去の私が喧嘩もせずにすんなりと受け入れるものですから、正直、私自身が一番驚かされました。
「これまでの私は甘えておりました」
「緩慢でございました」
「浅はかでございました」
「馬鹿でございました」
「情けない男でございました」
「私は生まれ変わります」
「夏川姫名乃に少しでも相応しくなる為…、いやいや、もとい、それはきっかけで、本当は自分の為でございます」
「私はもっと勉強します」
「真面目になります」
「一生懸命働きます」
「世間の為になる書き物を書きます」
「目標も立てます」
「親孝行します」
「決めた事は守ります」
「挨拶だってちゃんとします」
「朝はきちんと起きます」
「夜はきちんと寝ます」
「三食きちんと食べます」
「整理整頓もきちんとします」
「間食は控えます」
「お酒は控えます」
「運動だってちゃんとします」
「自分を見つめなおします」
「一日一日を大切にします」
新しく生まれ変わった私の、自分自身へ向けたマニフェストでした。
それ以降、私はマニフェストを実行しました。
書いたものは納得行くまで何べんも見返し、思考を巡らせ、様々な読み手がいる事を再度考え、読み手にも本を読みつけている人と本を読まない人とのレベルがある事も意識して、表現するように心がけました。
かと言って読者に流されすぎず、自分のスタイルを確立する為に子供の頃からインスピレーションを受けた書物や絵画の本を読み返し、信念の固い純朴な想いを文字として綴っていきました。
また私が作家を目指すきっかけとなった、高校時代の現代文の先生に会いに足を運びました。
その先生は大の純文学マニアで、内容が難しくて、懸念してしまいがちな純文学を、授業の余った時間などを利用しては面白く話してくれた先生でした。
ちなみに、その先生の授業で小論文を書く事がありまして、私の書いた小論文を非常に絶賛し褒めてもらった事が嬉しくて、それがきっかけで作家を目指したのであります。
私は、私にとって「道しるべ」となった先生に、今の私の実力を読んでほしかったのでございます。
そして感想を頂きました。
「君の文章には、君らしい自由な表現が詰まっている。発想が豊かだ。私がアドバイスする事は無いし、下手にアドバイスを聞いては良さが崩れるかもしれん。自信をもって書きなさい」とおっしゃいました。
学生時代のように、ヒントや添削はありませんでしたが、私にはそれが何より一番のアドバイスでありました。
先生は当時より少し老けていて、皺も深くなり、随分と頭頂部の輝きは増しておりましたが、中身は昔のままでした。
私らしさを尊重してくれる、優しい先生のままでした。
それが私には凄く嬉しく懐かしく感じました。
その現代文の先生がくれた言葉の意味を私は咀嚼しました。
実はこれまでに何度も何度も挫折して、作家なんて夢は諦めようと思う事もありました。
やりはじめてから気づいた事でしたが、作家で食べていくなんて道は険しいもので、最初はただ書くことが好きだという、単純な興味からその道に足を踏み入れたものの、奥に進めば進む程、道は薔薇のように険しく、雨や雷が降り注ぎ、細く長い真っ暗なトンネルを、弱々しい細い懐中電灯の灯りで照らしながら手探りで進むようなものでした。
私と同じ道に足を踏み入れた同志も次第に道を換えて別の道を歩み、私の進む道を歩く者はどんどん少なくなっていくのであります。
もはや、ただ進んでいくことはおろか、その場所に滞在しておくことですら難しいと言った感覚さえ覚え、何度も道を換えよう、引き返そうと思ったのでございます。
しかし、道を変えなかったのは、この現代文の先生との記憶が強く心にあったからでしょう。
先生が今回かけてくれた短い言葉はその道を照らす太陽のようで、私に文学の素晴らしさを教えてくださったあの日の想い出の歴史がぎっしりと凝縮されており、そして励みとなり、それを聞いた時には「続けてきて良かった…」と、思わず、その場で泣き出しそうになってしまいました。
先生を尋ねて良かったと思いました。
私は、このマニフェストを実行している時はヒナちゃんのことを忘れて、一心不乱に取り組みました。
朝から昼まで原稿を書き、昼食を食べ、昼から夕方までは原稿の見直しや書き物に通ずる勉学に時間をかける事が日課となりました。
良いアイデアが浮かべば入浴中であれど、風呂場から飛び出し、紙にそれを書き留めました。
その為脱衣所にはノートと鉛筆を置く様になりました。
私は自分の経験など、感性で書く事に特化した作家だと自分では思っているので、感性でを磨く事に努力しました。
道徳については特に力をいれました。
寺や神社にも足を運び、ありがたい教えや語り継がれてきた伝説を教わりました。
願いや信仰などの精神が溶け込んでいるものと考え、スピリチュアルな世界観も大切にしました。
夕方になり私の中での「日課」が終わると、ヒナちゃんの事を思い浮かべます。
その頃の私は彼女がアルバイトをした日の夜道がとても恐ろしいものに感じていました。
心配でたまらなく、付き添って帰りたいのです。特にあの話しを聞いてからです。
きっと父親が亡くなった事も関係しているのでしょう。
ヒナちゃんに何かあっては絶対にならない、ただでさえ恐ろしい程に可愛いく、純粋な少女だから、悪い男に眼をつけられても不思議じゃない、危険じゃ無い方がおかしい。と考えるようになりましたし、そう考える事は普通なことに思えました。
その日は私が「生まれ変わって」から十日が経過して頃でした。
生まれ変わってからも、ヒナちゃんと連絡をしていましたが、以前の様に馬鹿げた内容は自然と控えておりました。というよりも、あまり以前のようなくだらない話しが不思議と出来ない私に変わっておりました。しかしその事で後悔する事はなく、私自身、自分の成長を誇らしく感じられ、過去の自分が恥ずかしく思えたものでございました。
しかし、マニフェストを実行する事で、必然的に自分にかける時間が増え、どうしても彼女とのメールの回数も減ってしまいました。
しかし想いは薄らいでおりません。
むしろ強くなっております。
その為、彼女を思うと、余計に心配でたまらなくなる事がお分かり頂けますでしょうか?
その心配のボルテージが頂点に達したのが今日でありました。
ですから、今日、アルバイトが終わった後のヒナちゃんを送って帰りたく思い、彼女へのメールを作成したのでございます。
「偶然近くで調べ物していて遅くなりそうだから、帰りがけにバイト先に寄っていい?一緒に帰ろう」
理由もなく唐突一緒に帰ろうと誘うのは、なんとなく気が引けたので、適当な設定を混じえたメールを作ったのでございます。
すると彼女から返信が来ました。
「終わるのが九時を少し過ぎますが、それでも良いですか?もし待たせちゃう様であれば、無理しないで下さいね…」
「オッケー、大丈夫だよ。僕も丁度その位になりそうだし。じゃあ、九時に迎えに行くね!」
「わかりました。じゃあ、一緒に帰りましょう。」
無事に約束がつき、ひと安心しました。
私は身仕度を済ませ、途中ホームセンターへ寄ってから、二十時五十分頃にヒナちゃんのアルバイト先のファミリーレストランへ着きました。
ファミリーレストランの名前が書かれた、大きな楕円形をした窓から、中の様子を伺いました。
薄い黄色がかったシャツに、茶色の短いエプロン、黒いパンツの制服に身を包んだヒナちゃんが、丁寧に、それでいてこなれた感じで料理をテーブルへ運んでいる姿が見えました。
客やスタッフに対して笑顔を振りまく彼女は、間違いなくこの店の看板娘であろうと思いました。そして彼女目当てで来る客もきっと少なくはなかろうと思いました。現に男性客の視線は彼女に向いております。
そんな多くの人達を釘付けにするアイドルと言っても過言ではない彼女が、私と一緒にこれから帰ると思うと、嘗て覚えのない、満足に満ちた優越を感じました。
しかし男に見られれば見られる程、不安であることもまた、否めないのでございました。
そうしていると、九時になり、ヒナちゃんが店内から姿を消しました。それからしばらくして彼女が店の裏扉から出てきました。
「待たせちゃってごめんなさい」
「いやいや、ぜんぜん待ってないよ。それよりもお疲れさま」
と、いかにも決まり決まった台詞のような、挨拶代わりの会話を交わした後、「なんだかちょっと久しぶりだね」と言いました。
「本当ですね。先生なんだか最近忙しいみたいですけど大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫だよ!それよりヒナちゃんは大丈夫?就活とか?」
「そろそろ面接の練習をはじめようかな、って思っています」
「言うことはだいたい考えてるの?」
「はい、言うことは前々から考えていたんですけど、問題は緊張せずに上手く言えるかが心配ですね」
「お、偉い、流石だね!でもまあ、面接は緊張しても構わないと思うよ!上手くかっこよく言おう言おうってする人が多いけど、高校生がそこまで固くなくていいと思うよ。難しい言葉を並べても、それが暗記みたいになっていてもそれは台詞みたいなもんさ、もっと高校生らしく素直であればいいと思う。不器用でもいいから、自分の心に一番近い言葉を選んで、想いを伝える方が、難しい台詞より案外届くもんだったりするしね。その点ヒナちゃんは信念がしっかりしているから、頭で考えるよりも、心に任せるって言ったら分かりやすいかな?感受性が高いし感情を伝る事が凄く上手いから、胸の想いをそのまま吐き出せばきっと上手く行くと思うよ!あはは、なんだか偉そうにごめんね」
「いえいえ、ありがたいです。なるほど、さすが先生。そうですよね、台詞になったら届かないですもんね。本当タメになります。ありがとうございます」
「タメになったなら良かった。あ、あと小論文の書き方くらいなら、手助けできると思うから、困った時は遠慮なく聞いてね」
「はい、ありがとうございます。先生頼りにしてますね」
「うん!任せて! よし、じゃあ、帰ろっか!」
「はい」
オートバイに跨り、ヒナちゃんを後ろに乗せ、出発しました。
今までと同様、彼女はピタリと私の背中に密着して、背中に頬を寄せていました。
この感触と感覚と言ったら、どんな上質なソファの背もたれよりも、精神的にも肉体的にも癒されるのでございました。
背中に感じる彼女の体温や、やさしい肌の質感、薄っすらと背中に当たる彼女の柔らかい胸の膨らみが、なんとも言葉では言い難い最高の癒しであり、ニつの身体が溶け出し融合してしまうかのような心地の良い一体感に包まれるのでございます。
そんな彼女が愛おしくて、食べたい程に可愛ゆいのです。
この頃になると、私の彼女への深い愛を言葉で表すには、モラリスト染みた平凡な言葉では言い表せないのでございます。
愛情を素直に表現しますと、犯罪の匂いを帯びたとでも言いますでしょうか、愛情が自然と狂気染みた表現になってしまい、自分ですら、その表現に、戦慄の恐怖を感じ、鳥肌が立つ思いになるのでございました。
もちろんこの犯罪めいた愛情の感情はヒナちゃんには内緒でございます。
アルバイト先からヒナちゃんの家までは五キロ程であり、普段ヒナちゃんは、アルバイト先から二百メートルほど離れた駅へ行き、電車で一駅乗って、そこから家まで五百メートルほど歩いて帰ります。
つまり私はこの、二百メートルと、五百メートルを合わせた七百メートルが心配で家まで送っていると言っても過言ではありません。
そうこうしていると、あっと言う間にヒナちゃんの家まで着きました。
着いたと言っても、正確には家の前にオートバイを停めずに、ヒナちゃんの家から五十メートル程離れた場所にある空き地にオートバイを停めるのでございます。
これはヒナちゃんが指定した場所であり、理由を聞くと、家の前に停めると、家族に見られる恐れがあって、もし見られると、男の人と帰ってきた事に興味を持たれてしまい、しかもこれまで男性と付き合った事もなかったから余計に根掘り葉掘り関係を聞かれてしまうかもしれない。そして、それがなんだか恥ずかしい。と言う訳でありました。
初々しいセンチメンタルな気持ちに、黒い染みなぞ一粒もない真っ白なキャンバスの匂いがしました。
彼女がオートバイから降りたところで、私は彼女に、ホームセンターで買った物を手渡しました。
防犯ブザーであります。
私はこの真っ白いキャンバスを、汚い油絵の具から守りたいと思ったからでありました。
「なんか、テレビで見たんだけど、なんかあった時は防犯ブザーが一番身を守ってくれるらしいよ。女の子が夜道を一人で歩くと何があるか分からない世の中だからね。一応、持っておいた方がいいよ」と言って渡しました。
「先生、ありがとうございます。でも実はすでに持ってるんですよ。母が買ってきて私に持たせてくれたんです」と無邪気に笑いながら言いました。
彼女が既に持っていた事は予想外で、なんだか恥ずかしくなりました。
そうすると彼女は、「でもせっかくなんで、先生の防犯ブザーは別のカバンに入れておきますね。わざわざ心配してくれてありがとうございます。嬉しいです!」と言ってくれました。
それを聞いて、なんだかまた一層恥ずかしいような、いや多分照れ臭いと言った方が的確でしょう、顔から耳の先端までじわじわ火照るような、むず痒いような、そんな衝動に駆られたのでした。
その帰り道、私は思いました。
そして決めたのでございます。
「来週末の花火大会で告白をしよう」と…
八章
家に着いて携帯電話を開くと、ヒナちゃんからメールが届いていました。
「運転お疲れ様です。今日はありがとうございました。防犯ブザーもありがとうございます。先生の身代わりだと思うと心強いです。大切にしますね」
私はこの時、告白をしようと決断したばかりで感情が高ぶっておりましたので、花火大会に誘う旨を込めて返信しました。
「ヒナちゃんもお疲れ様。僕も今無事に帰り着いたよ。あはは、心強いなら良かった!笑。あ、そうそう、就活の準備とかもあるだろうから忙しいとは思うけど、もし都合が良かったら、息抜きにでも、来週末、C川の花火大会に一緒に行かない?」
「花火大会ですか?いいですね。その日は母が家に居て妹たちの面倒を見てくれるから、多分大丈夫だと思います」
「良かった!あ、でも就活とかの準備は大丈夫?」
「はい。やる事は平日に済ませて置くから大丈夫です。それに、花火大会、私も行きたいですし」
「良かった!ありがとう。じゃあ一緒に花火大会に行ける事を楽しみにしておくね」
「はい、私も嬉しいです。私だって先生に負けないくらい、とっても楽しみにしていますよ。なんて…きゃっ///」
彼女にしては珍しく、彼女のこんなにもくだけて、恥ずかしそうにした態度が判るメールを受け取ったのは初めての事でした。
その時、彼女自身も私の告白を待っている…そんな気持ちがしてなりませんでした。
その日は花火大会の待ち合わせ場所と時刻を決めてから、床に就きましたが、興奮してなかなか寝付けませんでした。
家の近くの田んぼからカエルの鳴き声が聞こえてくる、蒸し暑い木曜日の夜でございました。
その夜から、五日後の間に週末休みを挟んだ、火曜日はヒナちゃんからのメールが届きませんでした。
その頃は私も自分の事に打ち込んでいましたし、ヒナちゃんも平日は就職活動に向けて打ち込むという事でしたので、メールは夜に少しだけする程度にしておりました。
その為、もしかしたら疲れて寝てしまったのかな?翌朝にはメールが来ているだろう。などと思っており、あまり気にとめませんでした。
翌朝目が覚め、最初に携帯を確認しましたが、ヒナちゃんからのメールはありませんでした。
昼になっても、夕方になっても来ず、その夜になってもメールが来なかった為、何かあったんじゃなかろうか?とさすがに心配になりメールを送りました。
「お疲れ様。ヒナちゃん調子はどうですか?忙しくて無理とかしてないですか?体調にはくれぐれも気をつけて頑張ってね。メール待ってます。」
なんでしょうか…丸一日ヒナちゃんからのメールが来なかっただけで、体調を崩したんじゃなかろうか、事故にあったんじゃなかろうか、携帯が壊れたんじゃなかろうか、など色々と心配になり、まるで母親が親元を離れた子を思うような口調のメールを送っておりました。
それからはひたすら待つだけですが、裁判の判決結果でも待つかのように落ち着かず、不安と恐怖が次第に募ってくる地獄の時間に感じ、私は部屋の電気を消し、布団を被り、両手の掌を合わせ、それを大腿で挟みこみ、背中を丸めてベッド上でごろごろと転がり悶えておりました。
頭の中ではヒナちゃんでいっぱいで、他の事が考えられず、苦痛で発狂しそうでございました。
そうして返信が来たのは一時間後の事でした。
ヒナちゃんからのメールは、
「先生、連絡が遅くなってごめんなさい。色々と考えていて、他の事が手につかなくなっていました。一人になって考える時間を頂いてもいいですか?すみません…」
という内容でした。
就職活動という人生を決める重要な準備をしているんだ、考えたり、悩んだりあるだろうし、手がつけられなくなるのも無理はない。
と思うと、安心した反面、自分の都合で、彼女に催促するようなメールをしてしまった事を情けなく感じ、反省しました。
そして花火大会まではしっかり就職活動の準備にあててもらおうと思い、こう返信しました。
「僕の方こそ、平日は就活に集中するって聞いてたのに、邪魔しちゃってごめんね。花火大会まではメール控えます。応援してます、頑張って!」
するとこう返信がきました。
「すみません、ありがとうございます。先生も頑張って下さいね、では…」
一人で人生を力強く進路に向かって歩むヒナちゃんが、またしても頼もしく感じました。
その反面、もっと頼ってくるもんだと思っていただけに、少し寂しくもありました。
しかし、私も四日後には人生の大一番がかかった勝負の花火大会でしたから、彼女が今頑張っていると思うと、私も俄然やる気になりました。
変な不安もなくなったおかげで、愁眉を開き、花火大会当日まで作家業に精を出して過ごしました。そして、いよいよ運命の日がやって参りました。
九章
花火大会当日の朝、私は告白がうまくいくように、と願をかけに、近くの八幡様へ出向き、かしわ手をうってお詣りをしました。
午後になって鏡に向かい、にこりと笑ってみました。歯が見えた方が良いのか、口角だけを上げた方が良いのかなど表情の研究と顔を作る練習をしました。
ドラマなんかで俳優が爽やかに笑う姿を頭でイメージして真似してみたり、目を細め、渋くもクールな横顔が出来るのかを合わせ鏡をして確認してみたり、人気の俳優が照れ臭そうにはにかんで笑うといったシーンを思い返しては、自分と比べてみて、その顔が自分には出来ないと思い知らされて、むしろ自分がやると不気味で気持ち悪い笑顔にしか感じられず、絶対にその表情はしまいと教訓しつつも、どことなく凹んだり…
それでいて告白の成功を想像して顔を赤らめたり…
とにかく今日の花火大会で、いい顔をヒナちゃんに見せてから、告白をしようと思っていましたので、鏡の自分と向き合ったり、歯を入念に磨くなど身だしなみをしっかりと整えたりしながら出かける時間までの間を過ごしました。
花火大会の会場の最寄り駅から会場へ直行する臨時バスが出る事になっておりましたので、駅で待ち合わせました。
駅へ着きますと、ここぞと言わんばかりに、色とりどりの浴衣を着た女性たちで溢れており、それがひらひらゆらゆらと泳ぐ金魚のように見え、駅の構内に居るのに、金魚鉢の中にいる金魚の気分になりました。
そしたら私はきっと出目金でございましょう。私は暗い紺色に染められた浴衣を着て、彫刻刀で彫ったかの如く、くっきりと綺麗な二重まぶたを備えた大きな眼をキョロキョロさせて、目的の金魚を探していたのですから…。
出目金がキョロキョロと辺りの金魚を見ておりますと、金魚と金魚の細い隙間から白く青い金魚が見えました。
その青い金魚は金魚の大群に揉まれながらも、するすると狭い隙間を上手にすり抜け、私の元へと泳いできました。
その金魚とはもちろん、夏川姫名乃でございます。
彼女は私の予想を裏切りました。
私はなぜかてっきり、白地にピンク色がかった色味で表れると思っていたのですが、彼女は白地に青のナデシコと露芝模様が描かれた浴衣で現れたのです。
青という色味が、より一層涼し気で、知性と品の良さを感じ、凛として大人っぽく、色っぽく感じました。
髪飾りとして左耳の後ろあたりに大きめの白い一輪の花のコサージュをつけており、浴衣と、彼女の髪型を、パッと華やかにし、より一層引き立てておりました。
手には花柄模様の巾着が入った竹籠のバッグを持っていて、頭の上から足の先まで、全体が綺麗にまとまっておりました。
しかし、私には彼女の浴衣姿が似合いすぎる程に似合うせいか、妖艶で、何となく別人なような気がしてしまい、どぎまぎしてしまいました。
「すみません。お待たせしました」
「いやいや、全然待ってないよ」
思いかえせば、待ち合わせ場所に彼女が私より遅れて着いたは初めての事でした。とはいっても彼女が着いたのは約束の時間通りで、遅刻をしたわけじゃございません。
「先生の浴衣姿、とても似合っていますね」
ヒナちゃんからそう言われたものの、私より彼女の方がよっぽど浴衣が似合っているので、少し複雑でしたが、彼女のその褒め言葉には何のイヤミっ気なぞ感じられませんでした。
「ヒナちゃんこそ、よく似合っていて、可愛いよ」
彼女を見て思った感情に、表現する言葉が追いつかずに歯痒く思いました。本当はこんな凡な褒め言葉じゃ足りないのでございます。
私たちは臨時バスへ乗りました。バスの中は花火客で賑わっており、ニ人して仕方なく吊り革に掴まって、肩を並べて会場まで揺られました。
会場へは早めに着きました。
見物場所を探してうろうろ歩いていると、花火を見るにはお誂え向きの緩やかな傾斜がついた丘がありましたので、そこに手拭いを敷いてニ人して腰掛けました。
場所取りも済み、ほっとして少しひと休みした後、出店を見て回ることにしました。
ちょうちんに灯りがともり、祭りの雰囲気をいい感じに盛り上げて、私の心もわくわくしてきました。
やきとり、いかやき、わたあめ、りんご飴、はしまき、梅ヶ枝餅、かき氷、などの美味しい匂いや焼いている音、立ち上る煙が私の五感を刺激し誘惑してきました。
祭りの時の食い物は不思議な物でして、すれ違う通行人が食べている物を見ると、それが異様なまでに美味しそうに見えるものですから、可笑しなものです。
「美味しそうだね、なんか買って食べようか?」
「そうですね、何か食べましょうか」
「なに食べたい?」
「先生はなにが食べたいですか?」
「冷やしパイン」
「え⁈先生、いきなりデザートですか?」
「あはは、食べたい気もするけど、今のは冗談、冗談」
「もう…」
「やきとりが食べたいかな。ヒナちゃんは?」
「私ははしまきが食べたいです」
「じゃあ、とりあえずやきとりとはしまきを買いに行こう。花火大会は長いからお腹が空いたらまた買いに行こうかね」
「そうですね」
私たちはやきとりとはしまきを、それぞれニ人分ずつ買って、元の場所へ戻りました。
お尻に敷いた手拭いと、飲みかけの水の入ったペットボトルがおとなしく私たちの帰りを待っているかの様にちょこんと在りました。
やきとりに手を掛けた所で、一発目の花火がなりました。やきとりに気を取られていた私たちはその一発目の花火が開くのを見逃してしまいました。
続けて二発、三発、四発と勢いよく花開き、暗くなっていた空に白い靄がかかり、火薬の匂いがしました。
「きれいですね、先生…」
右耳からヒナちゃんの声が静かな口調で入ってきました。
「そうだね〜」
「先生と花火が見れて嬉しいです」
「僕もだよ」
「誘ってくれてありがとうございます」
「あはは、こちらこそありがとうだよ」
ニ人とも空を見上げたまま話します。
安らぎ落ち着いた気持ちになりました。
そしてニ人とも同じ気持ちを共有しているような…そんな気がしてなりませんでした。
もしこのニ人ぼっちの丸まった背中の影を、誰かが傍視したならば、きっと安閑としたカップルに見られたに違いありませんでしょう。
そして誰かにそう思われたく思いました。
私はこっそりと、ヒナちゃんの方を見ました。
真っ黒な闇に、花火の灯りで照らされた彼女の左の横顔が、切り絵のように美しいシルエットでそこにありました。
その鼻筋の通った美しいシルエットに恍惚し、慈愛に満ちて眺めました。
その切り絵の彼女は美しすぎたせいなのか、どこかしら物憂いで寂寥感漂う顔でした。
それは実に芸術的で、呆れるほどによい顔でありました。
花火とヒナちゃんに見惚れていて、中断していたやきとりを再び手に取り、口へと運びました。すぐに「美味い」と思いました。
豚バラのやきとりでしたが、程よい塩加減と、少しカリッとした焼き加減が絶妙でした。
この時、お酒が飲みたくなったのは内緒でございます。
続けてはしまきを口に運び、ひとくち食べました。
まずい…。何かの具材が、薄い黄色がかった厚さの薄い生地の中で、ぐちゃぐちゃとひしめき合っていました。それは焼きが甘く少しべっちょりとしてました。
味はソースの味でした。食べられるには食べられるのですが、私の口には合いませんでした。
それでも、ヒナちゃんは私の方を見て、にこりと笑い「美味しいですね」と言って食べていました。
彼女はイイ子だと思いました。
ニ人しばらく花火を見ながらお話しをしました。
時折、ハートの形をした花火が打ち上がりました。そのハートの花火が上がると、まわりにいるカップルたちのはしゃぐ声が聞こえてきました。
私はそれを見ながら、ふと
「そのハートの花火を好きな人と見上げれば、その恋は成就する」なんて都合のいい思い込みをしました。
そういう迷信染みたものは信じないタイプでしたが、今は自分で勝手に迷信を創り上げそれを信じたいと思いました。
ロマンチストな一面に自分自身で気持ち悪くなりました。
都合のいい、きざな男だと思い気持ち悪くなりました。羞恥の念がこみ上げました。
そう感じつつ私はいったん火のついたロマンチックないたずら心が湧き上がり、
「ハートの花火が上がっている時にキスをしたカップルは、ずっと結ばれるって話し知ってる?」
と、即興で作った出鱈目な作り話を彼女に言いました。
皆さんはお分かりでしょう。
私は夏川姫名乃の薄い紅色をした優しそうな唇にキスがしたいのでございます。
そこで、返答によっては(彼女がキスを望むようなものならば)、キスを先にして、そのまま告白をしようと思ったのでございます。
ヒナちゃんは、「そうなんですか?初めて知りました。なんだかとてもロマンチックですね」と私の作り話を信じました。
私が一縷の希望を持った返答じゃありませんでしたが、内容に照れて顔を赤らめているのか、困ったようにもぞもぞとしているように感じました。
そんな彼女を見ると可愛くて可愛くて、いじめたくなるくらいにもどかしくなりまた。
そして嘘を信じた素直すぎる彼女が、なんだかかわいそうに感じられて、自分がついた嘘に耐えきれずに、すぐにこう言いました。
「ごめん、本当は今の話はウソ…。実は小説の中でキスするシーンを書いてて、ロマンチックなキスを考えてたんだ。そして、ヒナちゃんの反応を見て参考にさせてもらったんだ、ごめんね」
もちろんそんな内容の小説なんて書いておりませんが、その照れ隠しの嘘でその場を平たくしました。
「先生そんな、いけません…。私、そういうの慣れてないから、参考になりませんし、…」
伏し目がちに小さな声で答えます。
「あはは、ごめん、ごめん。でも凄く参考になったよ。ありがとう!」
「はぁ…。参考になれば良かったです…」
照れていたのか、それとも本当に困らせてしまったのか曖昧な混沌とした状況で、不思議な空気が流れました。カオス……
それを払拭する為に花火を見上げて、好きな花火の話しをしました。
打ち上げ花火の定番であろう菊や牡丹呼ばれるタイプの花火が花開き、その後で、空中で炸裂し一瞬遅れて無数の小花が咲き乱れる千輪菊という花火が会場の歓声をより一層大きなものへと導きます。
どの花火も綺麗ですが、私は冠菊と呼ばれる花火が最も好きでした。
炸裂した火花の星屑が長い尻尾を付けたまま自分の居る所まで垂れてくる感じが良いのです。火の粉が襲いかかってきて火傷しちゃうんじゃないかと恐怖するほど迫力があり、地上に降り注ぐ間の数秒間がスローモーションのように見えて、なかなか消えて無くならない事が素晴らしいと思っていました。
口が寂しくなったので、再び出店を二人して回りました。最初より随分と人が多くて逸れてしまいそうだったので、自然と彼女の手を取ってしまい、ハッとしました。
手を繋いだのはこの時が初めてで、柔らかくも薄い手のひらと、折れそうな細い指に愕然としたのでございます。
これを読まれている方には、たかだか手を握っただけだとお笑いになるかもしれませんが、その時の感情は、言葉では表現しづらい温もりを感じたのでありまして、彼女と私の素肌と素肌が触れあっていると思うと、なんだか不思議な気持ちで、それでいてこんなにも嬉しく、尊く、泣きたくなる…そんな、なんとも言い難いあやしい気持ちになったのでございます。
めぼしい物を探して出店を散策しました。
出店うちで金魚屋は私の心をひくものの代表でした。それは子供の頃から変わらない事でした。
「ヒナちゃんに金魚すくいしてみない?」と聞きました。
以前の水族館で、あんなにもナマコやヒトデなどの生き物と触れ合うことを楽しめる彼女だから、きっと喜ぶに違いないと思ったのです。
ですが私の予想とは裏腹に彼女は、
「お祭りの金魚はすぐに死んじゃうから…」と視線を右斜め下へ落とし、落ち着いた声で妙にリアルな返答をしたので、急にわびしさがこみあげ、私の興も冷めました。
でも確かに私自身も、お祭りの金魚が早く死んだ経験がありましたから、私の育て方が悪かっただけでなく、金魚にかかるストレスとかも関係しているのでしょうか、案外どこの家庭でも早く死なせてしまうものかな。と思い納得しました。
それに、もし金魚すくいをしていて、ニ人の思い出の金魚が死んだとなると、なんだか縁起が悪い気がして、怖くなりました。
しかしなんでしょうか、彼女が死を寂しそうに言った姿が妙に色っぽく感じられ、ドキッとさせられ、私の心臓をしめつけました。
すれ違う人達がかき氷を美味しそうに食べていましたので、私はヒナちゃんに「かき氷たべる?」と聞くと、コクンと頷いたのて、かき氷の出店へ行きました。
ヒナちゃんはレモンを、私はブルーハワイを頼みました。
出店の無精ヒゲを生やしたおじさんは小銭を受け取った手でかき氷を豪快に作りました。
ブルーハワイのシロップをかける前にこぼれ落ちそうな氷をおじさんが素手で形成したので、そのかき氷に恐怖しました。
お腹が痛くなる事を怯えながらそれを食べました。
子供の頃、お祭りのかき氷を食べるとよくお腹を壊していて、その度に母親に汚い仮設トイレへ連れて行ってもらっていた嫌な記憶があります。
そのトラウマから、今でもお祭りのかき氷には少し苦手意識があるのですが、おじさんが素手で触ったものですから、尚更そのかき氷を食べる事が怖かったのでございます。
しかし、それでもヒナちゃんと一緒にかき氷を食べたかったのです。
幸い、お腹は痛くなりませんでした。
それから二人並んで座り花火を見上げて過ごしました。
どれくらい時間が流れたのでしょう、いつの間にか私が食べ終えたかき氷のカップが倒れていて何処からかアリが寄ってきていました。
ヒナちゃんのカップと重ねて、三十メートル程離れた所にあるブルーシートが敷かれただけの特設のゴミ溜め場へ捨てに行きました。
そろそろ花火大会も終わりが近づいて来ていました。
「よし、告白をするのは今だ」
私はついに告白をする時がきました。
十章
私は立ち上がり、ヒナちゃんの手をとり、さびしい所へいざないました。
列を成した出店の末端から二百メートルほど離れた木が茂る闇に僕たちは包みこまれ、暗闇に溶け込みました。
ヒナちゃんは無色透明な澄んだ顔をしていました。
それを見て、彼女はこれから起こる事をすでに悟っているような気がしました。
私は告白が実る予感がしました。彼女の落ち着いた様子から彼女も私の告白を待っているように感じられるのでございます。
勝利を確信しつつも、緊張しました。程よくわくわくした楽しみ混じりの良い緊張感でございました。
私は彼女の澄んだ眼と、眼を合わせ、渾身の力で言葉をそそぎました。
「あのね、僕は初めてヒナちゃんに会った時から、本当はヒナちゃんのことが好きになっていたんだ。ヒナちゃんを想うと苦しくて息が詰まりそうになってしまう…。僕はこれからもずっとヒナちゃんが大好きだよ。だから僕の彼女になってくれないかな?」
数秒の間、しんとした静かな時間となりました。そして答えが返ってきました。
「ーーーーごめんなさい…」
小さな声でそう聞こえた気がしました。
しかし彼女の様子から判断すると、それは確かにそう言ったようでした。
「えっと…、僕じゃダメかな?悪い所は直すし、小説だってもっと良いの書いて、ヒナちゃんを仕合わせにしてみせるからさ」
内心動揺しながらも、平静を装い再度頼みました。
死ぬほど彼女のことが好きなもんですから、心情は表に表せないほど熱のこもったものでしたが、その気持ちに準じて感情的になりすぎるのは、私の描く理想の男性像とはかけ離れたもので、決してかっこいいものではないし、何より彼女に押し付けがましい男だと思われるのが何より一番避けたい事態だと思っていたので、その熱のこもった気持ちは理性で抑え込みました。
そんな気持ちを知ってか知らずか分かりませんが、彼女はあまり考え直した素振りを見せず、再び答えを出しました。
「ーーううん、ダメなんです…」
「何でだい?教えてくれよ、ヒナちゃん」
「先生はいつも私を大切にしてくれます。女の子らしいきれいな女性が好きなんですよね?」
「そりゃヒナちゃんは大切な女の子だからもちろんだよ」
「ならば、私は違います。私は汚れてしまっているのです」
思いがけない返答に、私の背後から何者かにいきなりナイフで刺されたかのようなショックを覚えました。
「そ、それは、どうゆうことかい?まさか誰かに…」
「いいえ、違うんです。私は心が汚れているのです。私は家庭の都合上、青春を犠牲にしてきました。そしてそれは仕方のない事だと思っていましたし、男というものに対してもそれほど興味がある訳ではありませんでした。
しかし母が買ってくれる洋服でお洒落をしているうちに、これを一人で楽しむ事が次第に惜しく感じるようになってきました。
そして、私を見ている男子の眼も意識するようになっていて、私も周りの年頃の女子と同じ様な、口には出しにくい恥ずかしい気持ちに興味を覚えるようになったのです。
そんな時に先生に声をかけられました。先生は優しく、安心でき、これまで経験した事のない世界を見せてくれました。これまで我慢していた心の内に秘めた感情の紐が緩み、先生に甘えたくなりました。恥ずかしいのですが、先生になら全部をあげてもいいと思いました。
ーーでも…それは間違いだと気付きました。私は自分の生活から逃げ、自分がお洒落をしてきれいになったと浮かれている自分を誰かに認めてもらいたいと思っただけの、きたない、あさましい女なのです…そして私は、それに気づいてしまったのです。抱きしめられて思いっきり甘えたいなどと、今ではこれっぽっちも思えなくなりました。心は汚れても、せめて体はきれいでありたいと思ったのです。だから私は先生の思っているような女ではありません。私は先生を利用して自分の欲を満たそうとした女です。恋をすることに恋をしていた汚い悪い女です。だから先生の望む綺麗な恋はできません…ごめんなさい…ごめんなさい…」
なんだか想像を超えた女ゴコロの複雑さと繊細さから引き起こされた虚しさに頭が真っ白になりました。
ただ今まで分からなかった谷崎潤一郎の『刺青』の女の気持ちの複雑な変化のようなものを、まだまだ純朴な少女とばかり思っていた夏川姫名乃から教わった気がして身震いしましたが、しかし今はそんな事どうでもいいのです。
それよりも自分に降りかかったショックが大き過ぎて、私が私でいられなくなりそうな壊れそうな気配を感じたのでございます。
目の前が真っ暗になるような感覚ははじめてでございました。
必死で平静を装うように努めましたが、脳みそと心がドタドタバタバタと暴れ回り、調和がとれず、それに応じて私の肉体を制御できず壊れていくのを感じました。
私は、泣くこと、取り乱すことは不甲斐ないことだと思っていたのですが、その意思は生理的に払拭され、無情にも、嗚咽して、短く芝の刈られた大地にぼたぼたと涙を落としてしまいました。
呼吸が苦しくなり、視界が霞み、ガクンと膝をついてしまいました。そんな自分が情けなくて、そのことが悔しくて、歯痒くて、そういった念が溢れ出る涙に詰め込まれ、大地に沁みていきました。
私が四つん這いになり、苦しそうに泣いていると、彼女はかがんで私の背中をさすりました。
そして、左の袂からハンケチを取り出し、私の頬を伝う涙をそれに吸わせました。
ハンケチが優しく頬を撫でると落ち着きました。
私は顔を上げ、彼女を見ました。
すると、彼女は声を殺すようにして泣いておりました。
そしてその顔を私に見られた事に気づいて、引き攣った震える細い声で言いました。
「ーーーー嘘です…」
私には何のことか分かりませんでした。
すると彼女は涙を拭いながら、濡れた長いまつ毛を下へ向けて話しはじめました。
「私…見られちゃったんです。誰かに。そして怒られちゃったんです…」
何の事だか分かりませんでした。
「ごめん、ヒナちゃん、詳しく教えてくれないかい?」私は藁にもすがるような気持ちで何かを求めて問いました。
彼女はコクンと頷き、ひくひくと喉を鳴らし、唇を震わせ、ぽつりぽつりと丁寧に話しを続けました。
「先生と私がバイクに乗っている所を誰かに見られて…その事が岡部先生に知られてしまったんです…
そして、私は岡部先生に呼び出されました…
岡部先生は、私と先生の仲を詳しく問いました…そして、先生の事をたくさん聞いた後で、『そういう大人と付き合うのは止しなさい』と言いました…『今がどういう時期か分かっているだろ?お前の事を心配して言っているんだぞ、何かあってからじゃ遅いんだ。直ちにその大人とは関係を絶ちなさい。でないと、親御さんにも相談して指導をしてもらうし、下手したら学校の推薦も取り消しになるかもしれない』と言われました…
私は怖くなりました…とても怖いんです…今も誰かに見られてないか…とても怖い…。母には余計な心配はかけたくありません…誰にも言えずに苦しみました…そして決めました…。
私は弱い女です、もう疲れました…
先生と過ごせた時間は…本当に、本当に私の大切な想い出です。宝物です…ずっと忘れません。
恋愛ごっこ…楽しませて頂きました。
私、先生のこと、きっと好きになってたと思います…でも、もうここまで…
もっと…生まれるのが早かったら良かったのに…先生の事を悪く思う人が居ても、私は、先生が誰よりも優しい心をもった人だと…私は、私は…分かっています…から…
だから、それが一層、苦しいのです…本当に…自分勝手でごめんなさい…本当にごめんなさい…告白…本当はとっても嬉しかったです…こんな私を…好きになってくれて…ありがとうございました…先生の、気持ちに、応えられなくて…本当に、ごめんなさい…。さようなら…」
彼女は左手で私の手をとり、掌にハンケチを握らせるように彼女の右手で包み込んだ後、立ち上がりました。
そして、私の眼を、赤く腫れ上がった透き通った眼でジッとみつめました。その眼は切なさと憂いを帯びた複雑な眼でありながらも、なにか恐ろしいほどに力強くもあり、もうこの気持ちを容易く変える事は出来ないという印象を私に与えました。
その時間は一秒程の短い時間だったでしょうが、時が止まったように、とても長い時間に感じられました。
その後彼女は深く一礼して、くるりと背を向け、闇に消えて行きました。
来た時には気づきませんでしたが、去っていく彼女の籠バッグには、私のあげた防犯ブザーが目立つように付いており、それが、私が彼女を送って帰ることを拒んでいるという、彼女の意思表示に感じられて、彼女の後を追いかけることが、どうしても、どうしても…出来ませんでした…。
十一章
私は一人で歩いて帰りました。
どれだけ歩いたのでしょう、ただひたすら夢を見ているんじゃないかと疑いながら歩きました。
告白した後、最初彼女が嘘をついたのは何故でしょう。彼女の彼女なりの優しさからでしょうか?
その嘘が、考え抜いた末の彼女の本当の告白の答えなのでしょう。私に第三者の介入を知らせず、彼女が全てを一人で仕舞いこんで、未練なく別れることに仕向けることが彼女の精一杯の、私に対するお詫びと思いやりだったのではないかと思います…
それとも、私の思い過ごしでしょうか?
でもきっと彼女は私が想像もつかない深い所まで一人であれこれ考えて悩んだ末の応えには違いありませんでしょうから、奥底の深い部分の想いは彼女にしか分からないのかもしれません…。
ふらふらと歩きながら、時計を見ては、時間を頭の中で巻き戻し、その時間の思い出にすがりつきました。
私は、力なく歩きながら、詩を作っておりました。
小出しにしていた その愛は
君との未来のおたのしみ
儚く笑った君という記憶が
今じゃ罪と化し 死にたくなる
あゝ、本当の愛でくるみたかつた!
不器用な私が憎い
未熟な私が好かん
全部あげれば良かつた!
あゝ全部あげたかつた!
二人で並んで見た水族館は わびしからずや
肩よせあいたひな…
ちよつと冷えるや 灰色の道
嗚呼、タイムマシンがあるのなら
ビユンと戻れるのに
嗚呼、記憶はこんなに近ひのに、
露ほどの過去すら遐ひ遐ひ
あゝ無情たるや
もつとあげれば良かつた
もつとあげれば良かつた…
家に着いたのは午前三時すぎでした。
彼女にメールをしましたが、返信はありませんでした。読んでいるのかすらわかりません。
もしかしたら、もう二度と連絡が出来なくなるかと思うと、様々な後悔の念に押しつぶされ目眩が起こりました。
その日と、その翌日は丸一日かけて寝込みました。
それから一週間は、昼から酒を飲みました。ウイスキーが一番すぐに酔えたので、そういった意味ではウイスキーには助けられました。
酒に酔いながら原稿を書きました。
作家という仕事は自分の好きな時に書けば良いし、酒を飲みながら書いても、処罰を受けるわけじゃないので、そうした点をありがたく感じました。
しかし、飲んでいても、飲んでなくても、なにかし駆られて泣きました。
原稿を書きながらも涙したもんですから、インクがにじみ、何枚も何枚も破り棄てて駄目にしました。
酒に頼りすぎていても変わらない事ははじめから分かっていました。
昔から酒に逃げるダメな男を見ては、その男のことを反面教師だと思っていましたから、そうはなりたくないと思った日がありました。
その為、そう思えたその日のその翌日の朝は、「誰かと会話をして気分を変えよう、酒には逃げるまい」と思う自分がおりました。
その日は家に私しか居ない日でしたので、家に友達でも呼ぼうと思いました。
男の友達は皆、何かしら用事や仕事があるとの理由でつかまりませんでした。
普段、暇を持て余しているのか、どうでもいい事で連絡をしてくる為、鬱陶しくも感じられる柳田が、こういう時こそ必要なのですが、その柳田とも都合があいませんでした。
肝心な時に役に立たないという、なんとも柳田らしいとでも表現するしかない彼には、もう完全にお手上げだと思いました。
電話帳に眼を通し、私の事を好いてると思われるサヨという女に眼をつけ連絡をとりました。
サヨは明るい女というイメージでした。
きっとサヨは積極的に話しかけてくれるだろう。そして、会話でもして一度でも笑えれば気が紛れるかもしれないと思いました。
サヨが部屋へ来ました。
サヨはやはり私を好いているのでしょう、日頃から観察をしていたのでしょうか、話しはじめてたったの五分ほど過ぎたときでした。サヨは私の様子がおかしいと感じたようで、「何かあった?」聞いてきました。
私の事を好きであろうサヨに、ヒナちゃんの事を話すことはさすがに出来ませんでした。
私としては友達感覚として付き合いをしているサヨですが、私の寂しそうにしている姿がサヨの母性本能を刺激してしまったのか、黙りこんだままの私にサヨがソロソロと近づいてきて、私の頭を包み込むようにして軽く抱きこんできました。
私の顔はサヨの胸に沈みこみました。
サヨは私の頭頂部から後頭部にかけて「よしよし」と言って撫でた後、両方の手を私の両側の頬に添え、キスをしました。
優しくされると余計に悲しくなりました。
その日のサヨは明るいどころか、しっとりとしており、しおらしい女になっていました。
私はまたいけないことをしてしまったと思いました。
そして、もうサヨには連絡をしないでおこうと思いました。
その夜、サヨの件をきっかけに、反省しよう、元の自分に戻らなければと思い、頭の中を整理していましたが、悪いことだと分かっていながらも、どうしても、どうしても気付けば岡部先生という男を怨んでいる自分がおりました。
当初から岡部に対して抱いていた嫌悪は、もう憎悪へと形をかえておりました。
「私は知っています。分かります。」
「貴方は、夏川姫名乃に恋をしているんですよね?」
「だから、それらしい理由を付けて、心配するフリをして、夏川姫名乃を惑わせたんですよね?」
「そして母親想いな彼女の『お利口さん』を上手く利用したんでしょう…?」
「あなたは『先生』という、お利口さんな彼女にとって絶対的な立場であること悪用して、私の純愛と彼女の気持ちを知りもせず、知ろうともせず、あなたの感情だけで正当ぶって否定し、破壊したのですよね?」
「そうです、私は年齢の差や職業という社会的な信頼であなたに負けたのです。『世間体』という物事の本質を見ていないモノサシで判断される残酷さ…。常識はもちろん大切です。それは重々分かります。でも純愛は個人が尊重されるべきです。純愛は!私のこの恋には常識というモノサシでは測ることの出来ない世界があったんです。あなたにはきっと分からないでしょう。
あなたはそんな世間のつまらない常識をちらつかせ、脅すことで、夏川姫名乃のこころをあんなにも追いやったのですから…」
「あなたはずるい。あなたのやり方はきたない。私はあなたが嫌いです。あなたが憎いです」
「はぁ…」
「社会が残酷な一面を持つことは理解しております。ときには世間の常識すら残酷な顔をのぞかせます。それは仕方のないことなのでしょう」
「しかし私は諦めません」
「私はあなたの思惑にはめられたまま終わるわけにはいきません」
「世に認められる作家になって、えらくなって、信頼で彼女をもらいます」
「あなたに夏川姫名乃は譲れません」
正直に申し上げますと、何度も岡部を殺したく思いました。
岡部を怨んだところで、それは愚かな事にすぎず、それをもしヒナちゃんに知られたならば、彼女はきっと悲しむであろう事も自覚しておりました。
でも、悲しいかな、悔しいことに、それが分かっていてもそうするしかない時だってあるのです。無理に真摯になって怨みの念を抑えるなんてできないものです。
正論がすべて正しいなんてことは決してないのです。
じゃないと私が壊れてしまいそうだから…。
分かりますでしょうか?
自分の精神を守る為に怨むのです。
そしてその怨みと怒りの念を原稿にぶつけるのです。
せっかくですから岡部に対する憎悪の念を、私の活力に代えて最大限に生かさせてもらいます。
私は書きます。
ここから先は私との闘いであり、囚われたお姫さまを取り戻す為に書くのです。
それが私が書く意味であり、そのために私が生まれてきたのだと思います。
私は彼女の、あの涙色に染まったハンケチを握りしめました。
もう私は彼女しか愛せない男になっております。彼女を愛する事がどんなに辛く苦しかろうとしても、もう彼女しか嫌だし、彼女しかダメなのです。
だから私は彼女を…
夏川姫名乃という姫君を迎えに行くために、こうして、これを書いているのでございます。
あとがき
いかがでしたか。最後に主人公が夏川姫名乃をとりもどす為に書いている原稿が、実は今読んでいただいたこの本であったという結末を知った瞬間に、傘姫という物語全体が、ぐっと生々しく、そして主人公の狂気染みた野心が掻き立てられる源となった、岡部先生に対する怨みが込められた魔小説とでも言うべき「気味の悪さ」を感じられたのではないでしょうか。
この物語は、私の体験談ではないのですが、ヒロインの夏川姫名乃に関しましては実際に参考にしたモデルの女性がおります。
そのモデルとなった女性に初めて出会った時、彼女はまだ十八歳と若く、可愛らしい顔立ちをした女の子でした。
私はその彼女の発する綺麗な言葉使い、礼儀、丁寧でおしとやかな姿勢に驚かされました。
彼女には古き良き日本の女性といった要素が詰まっており、伝統的な日本の女性がもつ美しさや可愛さというものは、このようなつつましい「美徳」なのではないかと感じさせられました。
その彼女との出会いが衝撃的であり、私は女性的な魅力の奥深さに改めて気づかされたことを喜び、またその事をすごく嬉しく思いました。
私が異性との交友に関しては妙に真面目で、そこが古臭い男だと言われる所以かもしれませんが、新しいものが全て正しいとは思いません。恋愛も文化もそうだと思います。
様々な新しい情報や文化が入ってくるからこそ、ただただ周りの流行や考えに乗るのではなく、よく吟味して考えてから取り入れていくことも大切だと思います。古くとも守っていかねばならない文化、精神があるけれど、残念ながら衰退して、このままでは失われてしまいそうな大切な「何か」がたくさんあると思います。
温故知新と言うように、古いものから学べることがたくさんあるはずです。
私は残すべき日本の良さ、美しさ、その歴史の中で育まれてきた日本人の「美しさ」を見つめ直して欲しく思いこれを書きました。
そして、恋愛を通じて主人公が感じる、「命の尊さ」「親のありがたさ」「夢を持つことと、それを持ち続ける困難」「社会の眼」「挫折」「葛藤」「不屈」「野心」を一緒になって考えてもらえたらと思います。
当初、主人公の名前を出し、三人称で物語を進めようと思いましたが、それはやめました。
少しでも多くの読者の方々が主人公に共感しやすくなるように、読んだ時に何かを感じとりやすくならないかと思い、一人称の私(先生)として、この物語を綴りました。
そしてこれを読んで、どこかしらノスタルジックに感じられなかったでしょうか?
私は思うんです。
今の日本人は江戸時代や戦国時代、平安時代などの今から随分と昔の歴史に興味を持ち、その時代を素晴らしく評価します。
そして新しい時代のものを好み受け入れます。
つまりは遥か昔の時代と、最新の時代を好むのです。
でも私は思うんです。
もっと両親や祖父母が生きてきた時代を、その身近な歴史の尊重し、その時代を生き抜いた母や父、祖父母の苦労や努力をねぎらいながら、もっとその時代も、歴史として受け入れ、たくさんその話しを聞いて次の世代へと引き継ぐべきであると。
戦争(第二次世界大戦)という歴史から眼を背ける人がいます。そのわりに関ヶ原の戦いや応仁の乱などの戦争はフィーチャーしたりします。
私は思うんです。
きっと戦争で流した血の生々しさの差だと。きっと大昔の戦は、日本史という物語の「おはなし」だからじゃないかと。
でも、今のうちに、その時代を生き抜いた母や父、祖父母から話しを聞いておかねば、いつかまた過ちを繰り返してしまうと…
それが亡くなった方々の追悼にもなると私は思うんです。
話が逸れたようですが、この傘姫は、そう言った意味でも、少しノスタルジックな要素を含ませ、夏川姫名乃にしても、その昭和という歴史を匂わせる、つつましい古風な女の子にしたわけです。
傘姫を読んで、感じた「何か」があなたの胸を浸透し、それがあなたの心の栄養となり、あなたの生活でいかせていけたら幸いに思います。