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騒動の原因について

 プレイヤー同士の争いから勃発(ぼっぱつ)した、FVRレイティング騒動の余波は、当然ながら、他のジャンルにまで影響が(およ)んだ。規定の見直しと全タイトルのチェックによって、FVRRPGやFVRFPS(FVR First(ファースト)Person(パーソン) Shooter(シューター)の略称である)といった人気のあるジャンルは、一つ残らず、全て『暴力表現』のコンテンツアイコンが掲示された。一見、過剰な規制とも受け取れるこの適用に、やり過ぎだといった非難を浴びたものの、FVRの仕様や特色を照合(しょうごう)すれば、これは正当な処置であった。


 あの日を境に、開発者やユーザー達は、FVRハードに対する認識を大幅に改めた。厳密に言えば、改めたというよりは、ハードの特異性を再度理解した、と表現した方が正確だった。ようやく異世界での常識が、現実世界では異常であることが、多くの人々に認知されたのだ。


 しかし、騒動は治まったものの、新たな問題が生じた。

 国内のハードの所有人口や、ゲームのプレイ人口が、目に見えて著しく減少したのである。それは騒動以降のハードの売り上げや、タイトルのDL(ダウンロード)数が、その事実を残酷に物語っている。


 人口減少の、もっとも有力視されている原因は、FVRレイティング騒動が起こったからである――という認識が、ユーザーやゲームに触れていない世間の間では浸透している。だが、騒動から数年の間は、プレイ人口が減った原因に対しての見解が大量に(あふ)れかえっていた。その中でも、統合と考察を繰り返し、無駄を削ぎ落とした四つの説が、現在でも力を持っていた。


 その説とは、一つは『FPSに対して馴染みが薄いことによる弊害(へいがい)』。

 次に『FVRを(こころよ)く思っていない者達によるネガティブ・キャンペーン』。

 三つ目は、『特定のジャンルへの集中化』。

 そして最後は、『現実の常識と仮想世界の常識の混同と混乱』である。


 最初の説である、FPSが日本であまり浸透していないというのは、日本のゲーム事情を(かんが)みれば、大きく(うなず)けるものがあった。名前を出しても大半は首を傾げ、どのようなジャンルであるかを説明すれば、洋ゲーかという答えが返ってくるからだ。そしてその言葉通り、FPSは大衆から、海外のゲームで多用されているジャンルという印象を持たれていた。それは、日本のゲームの大半がTPS――Third(サード)-Person Shooter――視点だからである。

 FPSとTPSの違いについて簡単に説明すると、前者は現実世界と同様の視点で冒険するか、後者はPCプレイヤーキャラクターから一歩引いた客観的な視点で冒険するかという、視点の違いである。

 たとえば、FPS視点のゲームをプレイすると、画面の右下には銃を握った手だけが映り、移動すると、目の前の視点が前後左右と、指定した方向に動く。これをTPS視点にすると、銃を持ったキャラクターの全体像が映り、移動するとキャラクターが足を動かし、周囲の風景もそれに合わせて変化する。日本ではPCの姿が見える後者が人気であり、前者視点の国産ゲームはごく少数で、ほとんどが海外産だった。

 FVRは、ユーザーが直接PCとして活動するというシステム上、必然的に視点はFPSのそれが採用される。これにより、TPSのようにキャラクターの姿が見れなくなった。外装を変更するという仕様は、FVRゲーム内にも存在するが、ドレスアップした自分の姿を確認するには、ステータスウィンドウを開くか、鏡面反射をするオブジェクトが必要だった。そういった仕様が日本人の肌に合わず、衰退(すいたい)したのではないか――というのが、第一の説の内容だった。

 この説は、数多(あまた)のそれらの中では力を持っている方だが、上記の四つの中では一番弱い説だった。FPS視点が定着して人気を得たジャンルもある、システム上そうなることはプレイヤーも理解しているはず、そうであればもっと早く衰退していた、という反論が多く存在するからである。


 二つ目の説は、第一の説よりも、遥かに有力で信憑(しんぴょう)性も高いが、一部の人間を非難する内容であるため、積極的に支持する者はあまりいなかった。原因の一つを作った人間なのだから(けな)して――あるいは貶されて――当然だ、といった意見も存在するが、多くの説を統合して誕生したという経緯から、無闇な攻撃は避けるべきだと言われている。

 FVRが台頭した当時、この世紀の大発明を評価する声が多数存在したが、中にはFVRを快く思わない人間も、相当数存在した。これはゲームとして認められない、というのが彼らの主張だった。最初はそれらの言い分に反感を覚える人間が多かったが、普及(ふきゅう)率が高まるにつれて、彼らの主張の真意を理解し、徐々に同調する者が増えた。感想はまちまちだったが、意見を全てまとめると、『ゲームをプレイしているという実感や感覚が湧かない』といった内容で共通していた。

 家庭用ゲームは基本的に、据置(すえおき)ゲームならコントローラーが、携帯ゲームならキーが存在している。スティックやボタンを押せば、キャラクターは動き、アクションを起こす。『ゲームとは遊ぶだけでなく、コントローラーやキー、そしてそれらに触れる行為も含めてゲームだ』という観念を持つ者が、確かに存在した。FVRに反感を抱いたユーザーは、己の半身や長年の相棒とでも言うべき存在を手放すことに、大きな抵抗を抱いていたのである。

 FVRに反感を抱く者達が、かのレイティング騒動によって、この機を逃すまいと言わんばかりに、ハードを徹底的に中傷(ちゅうしょう)した。その結果、ハードに対する印象と売上を大幅に下げた――これが第二の説の内容だった。証拠を裏付けるBBS(電子掲示板)サイトの書き込みが現存しており、FVRハードに好印象を抱いていない人間の発言が、現在でも見受けられるため、とても有力な説とされていた。

 だが、この説は『FVRの使用に対する不満の爆発』、『家庭用ゲームの定義の齟齬(そご)』といった、他の説の内容も統合されているため、一概に反感を抱いているユーザーだけが絶対悪だと言えない側面がある。また、説とは関係なく、彼らの意見には半ば納得できる、というFVR愛好家も多数いる。そのため、頭ごなしに責める者は一部だけだった。有力でありながら支持が少数なのは、反感する者にシンパシーを抱く者が確かに存在するからである。


 三つ目の説は、語るに足らないものと見なされているため、積極的に議論されることは少なかった。にも関わらず、有力な説の候補の座に居座っている理由は、騒動後のFVRの現状が、ジャンルの一極集中化の欠点が直撃したかのような有様であり、『取るに足らないが無視できない』という空気を多分に含んでいるからである。

 とあるネットユーザーがまとめた、FVRのタイトルの売上をジャンル別に分けたグラフを見れば一目瞭然であるが、当時、様々なタイトルの中でもっとも売れていたジャンルは、RPGやFPS、そしてアクションだった。その他にレーシングやスポーツ、恋愛ゲームなど、多彩なジャンルが発売されていたが、先の三つの売上には及ばなかった。比率で表すと、前者が八割で後者は二割だった。

 このデータから判明したことは、『仮想空間内を自由に活動できないジャンルは売れない』という事実だった。レーシングゲームは、PCがパイロットとして搭乗(とうじょう)する仕様上、操縦席という閉鎖空間に閉じ込められる。スポーツゲームも競技種目によっては、狭いフィールドやグラウンドの中で行うものが、いくつか存在する。中でもスポーツは、数多のジャンルの中でも不人気だった。プレイできるスポーツがメジャーな競技ばかりだったため、滅多に操縦できることのない乗り物――F1カーや飛行機など――に乗れるレーシング以上に、FVRとしての面白みに欠けていた。ゲームの中でも運動しなければならないのか、という声が出たのは勿論(もちろん)のこと、仮想空間内で運動する(ゆえ)、当然、エネルギーの消費が肉体に反映されることはなかった。

 一見、例外のオーラを(まと)ったように見える、成人向けや恋愛ゲームも例外ではなかった。購入する以前に、年齢制限やペアレンタルコントロールという見えざる障壁がプレイヤーの前に立ちはだかり、その存在だけで対象外の者を駆逐(くちく)していた。またFVRの中でも、運動性ではなく、感受性を主眼に置いたシステムを採用していたため、様々は場所でデートを楽しむことはできても、RPGのように、NPCノンプレイヤーキャラクターである『彼女』の手をとって、自由に動き回ることは不可能だった。『感じる』ことに関しては、他のジャンルと比較しても最上級のものではあったが。

 大半のユーザーは何より、異世界を自由に冒険することを望んだ。そして、世界の中の戦士として、戦うことを望んだ。その結果が特定のジャンルへの傾倒(けいとう)だった。二つの望みを叶えないジャンルのゲームには、積極的に近づこうとはしなかった。

 それはレイティング騒動が勃発した後も同じだった。事件が起こり、仮想世界内の異様さと恐怖が認知された後でも、他のジャンルに移行した者は少なかった。移行せずに、FVRの世界から引退する人間がほとんどだった。興味のないジャンルを選んでまで、プレイしたくはない。そう思った人間が多くいたため、人口が著しく減少した。そしてシェアの八割が消失し、売上も大きく減った――というのが、三番目の説の概要である。端的に言えば、『騒動によって、特定のジャンルから興味関心が離れた人間が続出したため、一気にハードのプレイ人口が減少した』というものだった。


 最後の説の内容は、レイティング騒動が起こった原因と同一である。これは四つの説の中でも、一番有力視されており、ユーザー間でも支持が高い。

 先述の騒動は、某FVRRPG内において、二つの陣営の衝突が激化したことにより、多くの人々に情報が拡散されて炎上した。その争いのきっかけは、ゲーム内の世界の全てをリアルに寄せたため、FVRに対する認識が大きく揺らいだことが原因だった。血を流すモンスターを倒すことに躊躇(ちゅうちょ)を覚えた者と、ゲームだから問題ないと容赦(ようしゃ)なくモンスターを倒す者。彼らが争いを繰り広げた結果、大衆が眉をひそめ、ゲーム業界がFVRの規定を大幅に改定するほどの大ごとに発展した。

 これら一連の騒動の、もっとも面倒でややこしい点は、双方の主張がどちらも正しいということである。動物をいたぶり惨殺(ざんさつ)する行為が非道なのは正しい。ゲームでモンスターをどれほど倒そうが問題ないというのも正しい。しかし、二つの正論が通用する世界が大きく異なるのが、この場合は問題だった。前者は、失われた生命が二度と戻らない現実世界で、後者は、多くの生命が勝手に現れては消えるゲームの世界で通じる。今回は、仮想『現実』内にダイブできる『ゲーム』内で、正論同士が衝突事故を起こしたため、それが悪い方向に作用してしまった。

 FVRの発達によって、ゲームと現実の一線を、ゲーム側が自ら乗り越えてきた。仮想世界の中へとダイブし、その中を自由自在に移動できるだけでなく、痛みも匂いも、そして味も、五感全てでデータの世界を存分に堪能(たんのう)できる。プレイヤーも「現実と何ら変わらない」と、異口同音の感想を言った。

 これは、FVR技術の発展による賜物(たまもの)ではあるのだが、同時に争いの根源となって、プレイヤー達の闘争心を無意識にかき立てた。FVRが、ゲームと現実のあらゆる境界線を完全に同一化させていたため、違う世界の常識が混ざり合い、プレイヤー達を混沌(こんとん)と争乱の渦に叩き落とした――これが最後の説である。


 余談だが、この騒動によって、FVR愛好家を含めたゲーム愛好家は、当然、肩身の狭い思いをせざるを得なかった。多少の苦言や誹謗(ひぼう)なら、まだ反論もできたが、何よりも辛かったのは、『ゲームと現実の区別がつかない』という、彼らにとって好ましくなく、そして耳の痛い事象が誕生してしまったことだった。これが画面越し、液晶越しであれば、抗言できる余地はいくらでもあるのだが、FVRの特性上、その材料も完膚(かんぷ)なきまでに封殺された。彼らは世間の冷たく強い風当たりに耐えねばならなかった。


 数年が経過した今でも、FVRは騒動の傷による疼痛(とうつう)に苦しめられていた。

 ハードの売り上げが、年を追うごとに緩やかに低下していたからである。

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