鳥羽水族館
@
六人は五月の風が穏やかに吹く日を選ぶかのように水族館へと行くこととなった。
それぞれの思いがあった。くっきりと違う色合いを抱く六つのまだ幼いといえるだろう模様が一つの装飾を描き出す。
もちろん共通する思いもあった。それは現状の変化をなにかしら求めていたということだった。
個々が心を染めあげたものによって違いはあれど心に想う人との共通の記憶を作りたい。そう願った。
ずっと先、まだ想像すら出来上がらない大人といわれるぬめりがある生き物へと脱皮していく過程で、あの日、鳥羽に行った。そしてこうだった、あんなことがあったのだと。
年月と共に色褪せていく回想のなかに何かしらを刻みこみたかったのだ。
仲間と一緒にいたあの時をそして恋い焦がれたあの人を忘れないためにも作りあげたかった記憶。
須田樹里が率先して計画していき 日にちもGWの5月3日に決まった。
部活動は彰が陸上で壮太が剣道。 樹里と奈緒子は吹奏楽で俊介は通称でいえば帰宅部だった。 新たなメンバーとなった春日部麗奈はソフトボール部といったようにおのおのであったために 話しあった結果、皆が休めるのはその日だけであった。
鳥羽へ行く二週間ほど前の話しからになる。
そのころはすでに鳥羽水族館という名称が六人の思考にたえず付き従うこととなっていた。
チャイムが鳴り授業が終わると教科書に視線を落としたままの大橋彰が隣りの席にいる須田樹里に聞いた。
もちろん樹里はここにはいなかった。二年生になり別々のクラスになったのだから。
いま隣りには樹理とは違う女子がその席にはいた。
彰はこの隣りに座る女の名前すらまだ覚えてはいなかった。
いまだ見知らぬ女性だった。
樹理。鳥羽水族館てどこにあるんだ?ここから遠いのか?
彰は心のなかで聞いた。
返しは早かった。
彼女はいつも頭の回転が滑らかだ。樹里は眼鏡の奥の瞳を輝かせながら椅子を弾き飛ばすほどに勢いよく立ち上がった。
「とりあえず彰君。私は忠告しちゃうけどいま教科書見てももう遅いわ」
彰の机の上に開かれた数学の教科書を樹里は優しい手捌きでパタリと閉じた。
「あのね」
樹里が片方の手を腰に当てもう片方の手を眼鏡のブリッジに当てた。
いつものシルエット。
閉じられた教科書をぼんやりと見ながら彰が頭をぽりぽりと掻くなか樹里は背筋をぴんと伸ばした。
「まず。中部地方では有名な水族館よ。いえ。全国的に有名ともいえるわね」
「なんで有名なんだ?」
「ジュゴンがいるのよ。あのジュゴンがね。いるのよ」
「ジュ、ジュゴン?なんだそれ」
ジュゴン。
名前から彰にはその生き物の断片の想像すらできないでいた。
ただすごいイメージだけが沸き起こっては消えていく。
「もしかして怪獣なのか?」
樹里はふっと笑う。
「その通りよ正解よ」
「ほ、本気か」
樹里を見つめる彰の大きな瞳がより大きくなった。
「でかいのか?強いのか?」
「ええ。とってもでかい。強さはごめんなさい。わからないけど弱いわけはないわ。なにせ…」
彰が固唾を呑んだ。
「怪獣だからか」
樹里はまたふっと笑って話しを進めていく。
樹里にはわかっている。
彰は海獣ではなく怪獣を想像していることを。
期待は膨らませたままでいいではないか。かいじゅうという言葉に嘘はないのだから。
「とても大きなかいじゅうよ。彰君見たいでしょ」
「見たい」
「話しを進めていいかしら。風光明媚な三重県の鳥羽市にその水族館はあるの。伊勢鳥羽で見られるリアス式の海岸線は美しいよ。夕暮れ時には神聖な場所をイメージさせてくれる、伊勢神宮も近くて観光客も多いの」
彰はそこまで話しを聞いて窓の外に顔を向けた。
鳥羽水族館か。
神がいる場所か。
ジュゴンか。
怪獣だと?
樹里が身振り手振りで話す言葉を彰は雲の上に乗せていった。
違う教室では同じく樹里が窓から見える雲を見つめていた。
大きな雲がゆっくりと西から東へ移動していく。
樹理はすぐに彰を思い浮かべた。そして想う。あの人もいま空を見上げているのかな。と。
樹理はすぐ隣りにいる名前も知らない男子を彰へと投影させた。
行こうね彰君。
鳥羽水族館にはかいじゅうがいるのよ。
@
その日の帰り道。
彰が自宅マンションの前まで来ると
駐車場の前で壮太と奈緒子が話しをしていた
二人にも彰が近づいてくるのがわかった。
「おお。彰」
「彰くん。おかえりなさい」
「ああ」
「いま奈緒ちゃんと水族館のことを話してたんだ」
顔が真っ赤になっている壮太がいた。
二人きりで話すことによほど緊張したのだろう。
「奈緒ちゃんも5月3日は大丈夫だってよ」
「はい。大丈夫です。彰くんもよろしくね」
彰は奈緒子に見つめられてどきっとする。
この気持ち…
苦しい…
「ああ。奈緒ちゃんよろしくね」
彰は表情をあまり変えずに奈緒子から目を離した。
「あと。もう私は大丈夫だから…。朝もほんとに…。ありがとう。もう一人で行けるよ」
急に奈緒子は泣き声になっていた
「彰くんと壮太くんにはほんとに感謝してます…。もう私は大丈夫。戦うこと…教えてもら…った…から」
彰が話を遮る
「いいよ。気にしないで奈緒ちゃん。俺らはただ守りたかったから…な?壮太」
「あ?お、おう!マジで守りたかっただけだ。気にしないでくれ奈緒ちゃん。それに二年生達は意外に弱かったしな」
「…私なんかを守ってくれて…ありがとう…ほんとに。……うん。でも、もう大丈夫。もう…大丈夫」
「奈緒ちゃん。私なんか、なんて言ったらダメだぜ。俺らは小さいころかの…」
壮太がいう。
「小さいころからの親友だ。ずっと守りあい助けあうもんだ」
「うん…。ありがとう。ほんとにありがとう」
奈緒子はじゃあねと手を小さく振りながらマンションへと歩きだした。
長い黒髪が春の風で揺れていた。
髪の香りだろうか、微香を漂わしながらまだ彰の眼前に残ったままだった。
「用心棒も終わりか。さて俺達も行こうか。彰は今日空手行くか?」
奈緒子が消えていった建物のなかに二人も入っていく。
「今日は行くよ」
毎日の登下校。彰と壮太は交代で奈緒子の用心棒みたいなことをしてきた。
いまはやめたくない気持ちがあった。
奈緒子の後ろ姿を見ていたい。
できなくなることは辛いことだった。
「なあ彰」
「ん?」
「楽しみだな水族館」
「ああ」
階段に足をかけた壮太が振り向いて聞いた。彰は一階の共用廊下を進もうとしているところだった。
「水族館行くの奈緒ちゃんすげー喜んでたぜ」
「そっか」
彰がニコッと笑う。
「お、笑った。お前は全然楽しそうにしないから樹里は心配してたんだぞ。彰は水族館に行くの嫌なのかなーって。もっとその笑顔を出してやれよ」
階段にかけた足を戻して彰に近づくと肩を軽く叩いてから掴んだ。優しい手使いだった。
「お前は昔はもっと笑ってたぞ」
彰は思い出したかのように満面の笑顔になった。
「アハハ。だな。だがシュンはもっと嫌々っぽい」
「俺は彰の笑顔好きだぞ」
そう言うとニヒッと笑った
「壮太何言ってんだ。気持ち悪い」
彰が壮太の手を払って走りだす。
「あ!こら!彰!勘違いすんなよ。お前はただ他の奴らには笑わないから、言っただけだ!」
「うわー」
彰は笑いながら走りだした。
「彰!勘違いすんな。お前の笑顔は友達として好きなんだぞ」
「あはは」
四階の玄関まえでその笑い声を聞いた奈緒子は足を止めた。
「彰くんの声はよく通るなぁ」
赤面している自分がいた。
昔へと記憶は飛ぶ。
美椙がいたあのころへと。
「奈緒ちゃん!美椙ちゃん!追いついて横を歩きたいよ待ってよ」
手を繋いで走る奈緒子と美椙を必死に追いかける彰。
「きゃーっ鬼だぁ」
美椙の笑顔。
奈緒子の心に残る温もりが身体を包みこんでいった。
彰がいつも奈緒子を包みこんだ。
いつも。
奈緒子は赤く染め上げたままの頬に触れて噛み締めるようにまた微笑でみせてから鞄から鍵を取り出した。
彰と別れ3階に上がりはじめた壮太からは笑顔が消え失せていた。固く結ばれた口元と細い目許は何かと対峙しているように険しかった。
3階へと上ってから左に折れる通路を機械仕掛けのようにスタスタと歩いていく。
奈緒子と長く見つめ合ったら僕の心臓は爆発しないで耐えれるのだろうか。
壮太は左胸をドンと叩いてみた。
もっともっと奈緒子を落としておいたほうのがよかったのだろうか。
もう一度壮太は歩きながら左胸を叩いた。先程のより強く。
奈緒子を助けたのは彰ではない。
この僕だ。
あの妹が死んだあとからの奈緒子は僕が一人で守っている。
一人でだ。
追い詰めたからこそ奈緒子はいまも生きている。
壮太の耳元には彰の笑い声が残ったまま。
嫌な笑い声だ。
壮太は303号室のまえに足を止めて首を左右に曲げた。こきこきと鳴る。
彰から奈緒子を奪うには。
奈緒子から希望を消し去るには。
壮太の顔はゆっくり笑顔へと変わっていく。
もう一度落とすか。
はぁ。
もう登下校は一緒じゃないのか。
前を見れば 奈緒子が歩いている。そんな幸福な光景が明日から無くなってしまうのか。
たまに奈緒子は歩きながら上半身を捻って僕を見てくれた。
奈緒子の優しい眼差しが僕を見る。
僕も優しい眼差しを送る。
堪えられない…
僕の鼓動は 早くなるばかりだ …
爆発しそう…だ
……。
奈緒子は。
おれの女。
@
二週間が経ち
5月3日になった。