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Act18

「わ~、間一髪ね、結子ちゃん。それにしても、いい足してるわ」

 モニタを見ながら、せんべいを齧りつつ感心したように呟く凱月。

 完全にスポーツ観戦か、自宅でバラエティでも見ている態だ。

 その横で、黒江もやはり画面を見ていた。

 劉善が横に立っているのという監視つきだが。

「今のところ二人とも捕まらないわね……というか、意外に斗娜にやられる連中が少ないわ」

「避けて通ってるんだろ」

 のされることがわかっていて、近づくやつはいない。

 始まってすぐに斗娜が言ったとおり、結子を捕まえたほうが、この馬鹿馬鹿しいイベントが早く終わると踏んで、できるだけそちらに向かっているんだろう。

 結子は、何度も捕まりそうになりながら、それでも逃げ切っている。

「ふうん、それにしても結子ちゃんは謎の行動が多いわね。人込みに隠れようとするか、あるいは慣れた場所に行こうとすると思って鬼チーム配置しているのに、ひっかからないし、それにあの同級生の子と接触したのって、なんだったのかしら?」

「……さあな」

 そういって立ち上がる。

「黒江?何処行くの?」

「だから便所だって」

「何よ、さっきから何度も。お腹でも壊してんの?」

「今朝食った焼うどんが腐ってたのかもな」

 そういって出ていく背中に、劉善の

「冷凍食品が腐るか」という不満そうな声が聞こえたが無視した。

 誰もいない廊下に出てポケットに手を突っ込む。

 一応、周囲を確認して取り出す。

 スマホを取り出してメール画面を開いて、新規作成する。

「黒江様」

 背後から声がして、肩越しに振り返る。

 大知洙が立っていた。

「何をしておられるのですか?」

「見ての通りだけど」

 口の端をあげて答えると、大知洙はわずかに眉根を寄せた。

「貴方は通信機器を取りあげられているはずです。誰のものですか?」

「誰のでもいいだろ。お前には関係ない……ってわけにはいかなそうだな。しょうがない」

 そういって、スマホを大知洙に向けて投げる。

「劉善のだよ。以前アイツに同じ手ですり取られたから、意趣返し」

 スマホを受け取った大知洙は、苦々しく呟く。

「誰と連絡をとっていたのです?諫早様ですか?」

「気になるなら確かめてみれば?んで、凱月に報告するといい。もしかしたら斗娜に褒めてもらえるかもしれないぜ。ルール違反発覚で不戦勝……」

 言うと、我慢できないという風につかつかと歩み寄り、黒江の胸倉をつかんだ。

「こんな小手先の手助けでどうにかなる勝負じゃない。貴方は、諫早様がどんな気持ちでこの決闘に挑んでいるか……っ、彼女の気持ちがどうしてわからないんですか!?」

 胸倉を掴まれたまま、睨みつける。

「オレは結子じゃないからな。あいつの気持ちはわかんねえよ……、ただ、てめえはむかつくぜ。問答無用でぶん殴りたくなるわ」

 いうが早いか、もう手が出ていた。

 容赦なく大知洙の横面を拳で殴った。

 少なくとも三メートルは吹っ飛んだのをみて、多少胸がすく。

 ここしばらく大人しくしてたんで、余計に爽快だ。

 どうせなら、結子の手を握っていた指、全部折ってやろうか。

 そう思って見降ろしていると、口もとに血をなじませ、それを乱暴に手の甲で拭いながらこちらを睨み返してくる。

 無害そうな顔をして、結子の隣にいた時より、好感が持てる悪役面だ。

「おい、何を騒いでいる……」

 さすがに騒ぎを聞きつけて劉善が顔を出したが、口と鼻から血を流している大知洙と、自分のスマホが廊下に落ちているのをみて、みるみる剣呑な表情になっていく。

「黒江、貴様なにをしている?」

 低く唸るような声に、おどけて肩をすくめてみせる。

「見りゃだいたいわかるんじゃないの」

 舐め切った口調に、劉善の眉間のしわが深くなった。

 その背後から、今度は凱月が顔を出す。

「あらあら、大変。何やってんのよ、勝利者の景品が」

「……それってオレのことじゃないよな?」

 思わず凱月の言いように、脱力する。

「まったくもう、少しは大人しくしてなさいよ。今ちょうど面白いところなんだから」

 未だせんべいを齧っている凱月が、ふふっと笑って首をひっこめた。

 全員が空気の変化を感じて、VIP室に戻る。

「何が……?」

「ちょうど定刻30分になったからね、例の勝利条件を提示したの」

 楽しそうにいって、備え付けのPCを操作する。

 競技場の電子パネルに、指示内容が表示された。

「……誰もいないのに、意味あんのかよ」

「なによ、せっかく競技場借りたんだから、施設にあるものは使わなくちゃ」

 軽口はそこまでだった。

『勝利条件追加:相手のスマホを奪取せよ』

「そんな……」

 黒江の隣で大知洙が絶望的な声をあげる。

 確かに結子がまともにやりあったら、絶対に無理な条件だ。

「凱月、お前、人には女の子虐めるなとか言っておいて、自分が一番過酷だろうが。えげつない」

「ふふ。しょうがないわねえ、これも一族の倣いだから」

 そういってにこにことモニタを見つつ、せんべいを齧る。

「この程度の試練、乗り越えてもらわないと、とてもじゃないけど人間の身で、我が一族の一員にはなれないわよ。しかも後継者候補の花嫁なんだから」

 そう言って、ニイっと口の端をあげて笑う。

 もう、まんま魔女だろ、それ。

「凱月様、もうやめてください。こんな条件を出されたら、斗娜様に諫早様を弄り殺しにする許可を与えたようなものです。何のために平和的な決闘方法を選んだのか、わかりません!」

 大知洙が顔色を変えて叫ぶのに、凱月が頭をかきながら答える。

「えー?私は結子ちゃんの為に、平和的な決闘方法を選んだ覚えはないけど?」

「凱月様?!」

「鬼ごっこを選んだのは、斗娜に妙な銃火器振り回して暴れてもらわない為よ。人死に程度ならともかく、ここは銃刀法違反なんて面倒くさい法律がある国でしょ。そういうの厳しいのよ」

 軽々と言う凱月。

 そういう女だよ、お前は。

 モニタから離れてVIP室から出ようとする。その背中に凱月の声がかかった。

「黒江、またトイレ?」

「いいや」

 ふざけた口調に振り返って答える。

「そろそろ、いい頃合いかと思ってさ。大人しくしているのも飽きた」

「……何にするつもり?」

 すうっと凱月の目が細くなった。

「結子を助けに行かないとな」

「景品の分際で?」

「ああ」

 凱月が子供のように口をとがらせる。

「何よー、あの時は婚約解消するのが結子ちゃんの為みたいな、悟り澄ましたこと言っておいて、結局ソレ?」

 ホント、その通り。

 我ながら間抜けだと思うけど、間に合わないよりマシだ。

 結子を他の男に渡すのは我慢できないし、こんな目に合っているのに放っておけない。

 せいぜい開き直って、挑戦的な笑みを浮かべて言ってやる。

「止めてみるか?調停役なんだろ、凱月」

「それは私の役目じゃないわね」

 凱月はモニタに視線を戻した。

「あくまで私は調停役。ルール違反の是正は他の人の役目よ」

 劉善を見ると、呆れたように腕を組んでこちらを見もしない。

「お前と殴り合いなんぞバカらしい」

 大知洙に関しては……むしろとっとと結子を助けに行けって顔だ。

 こいつ斗娜の部下のくせして、結子に妙に肩入れしやがって、むかつく。

「本当なら一番殴ってボコボコにしたいんだけどな」

 さっき一発殴ったことで、我慢するしかないようだ。

「この競技場に残った斗娜の部下と、私が鬼ごっこ用に連れてきた予備人員。合わせて五十人くらい?半分は普通の人間よ」

「楽勝だな」

「ま、週刊で売っている少年漫画雑誌の主人公みたいよ。せいぜいがんばって楽しませてね」

 からかう声に中指を立てて、舌を出して見せる。

 けらけらと笑う声を扉でさえぎって、廊下に出ると腕を軽く回した。

「凱月を楽しませるつもりは毛頭ないけど」

 わらわらと警備と黒服たちが現れ始める。

 時間はあんまりない。

 それこそアクションバトル漫画の主人公並みに、蹴散らしていくしかなさそうだった。


***


 休みの学校に忍び込むと言うのは、なんとも気が引けるものだ。

 ついあまり考えずに逃げ回っているうちに、メールに導かれるままに学校に着いてしまった。

 そして学校に着いたのはいいけど

「それ以前に、この惨状は……」

 ところどころに黒服の人たちが倒れている。

 間違いなく、疑いようもなく、他に考えようもなく。

 劉斗娜。

 彼女の仕業だろう。

 こそこそと廊下を注意しながら歩き、スマホをチェックする。45分経過分の鬼のスタート位置は、学校から随分離れたオフィスビルだった。

 これはあんまり気にしなくていいだろう。

 どちらかというと学校近くに徘徊して、侵入してくる鬼の黒服さんと、何より斗娜との遭遇に気を配るべきだろう。

 そっと廊下の壁に背中をつけて、曲がり角の向こうをのぞいた瞬間

「諫早結子」背後から、しかもかなり直近から声をかけられた。

「きゃああああ!?」

 思わず悲鳴をあげて飛び退ってから、急いで口を閉じる。

 そこに、斗娜が腕を組んで立っていた。

「い、いつの間に……?」

「いつの間にだと?本当に貴様は間の抜けたヤツだな」

 そういってバカにしたように鼻で笑う。

「気配など消さんでも、ド素人に近づくなど容易いこと。だいたい私が何者なのか忘れたわけではあるまい。その気になればお前の気配など1キロ離れていても気付くし、匂いでたどれる」

 狼の特性……そういえば、クロに聞いたことあったっけ。

 すっかり忘れていた。

 でも、それでわかった。道理で巻いても巻いても追いかけてくるわけだよ。鬼さんたち……。

 かなりトホホな、自らの記憶力に打ちひしがれている場合じゃなかった。

「人はこういう時、慣れ親しんだ場所に隠れたがるかと思って、お前の家の近所や学校をうろついているかと思ったが、随分とうまく逃げ回っていたみたいだな。お陰でこっちはとんだ時間の無駄だ」

 斗娜がずいっと一歩前に出た。

「さあ、出せ」

 思わず後ずさる。

「現在経過時間は45分を過ぎた。人間にしては頑張った方だと認めてやろう。ことここに至っては、無様にあがくのをやめて素直にスマホを差し出せ。そうすれば無駄な怪我をせずに済む」

 かなり上からの物言いだったが、彼女の言い分は半分あっている。

 あがいても、多分無駄な怪我をするだけなんだろう。

 それでも素直にスマホを渡す気はこれっぽっちもなかった。

 じりじりと後ずさるのを見て、疲れたように斗娜はため息をついた。

「……なぜ無駄な抵抗をする?」

 スタスタと間合いを詰めてくる。

「負けを認めろ。人間」

「絶対にイヤ」

 言った途端に、吹っ飛ばされた。

 正確には、右の頬を裏拳で張り飛ばされた。

 早すぎて、最初自分に何が起こったのかわからなかった。

 わかったのは、自分が壁に叩きつけられて、口の中に血の味が広がってからだ。

「……っ……」

 頭がくらくらする。

 本当のことを言うと、こんなにひどく殴られたのは初めてだった。

 当たり前だ。漫画やドラマじゃないんだから、身体が飛ぶほど殴られることなんてめったにない。

「諫早結子、正直にいえば私とて虫けらを無意味に踏み潰すのに、良心が痛まないわけじゃないんだよ」

 一発殴られただけで、壁に叩きつけられた身体のいたるところが痛む。少し動くだけで激痛が走った。

 ゆっくりと近寄ってくる少女の、どこにどんな力があるのか。

「必死に這いつくばって生きている虫けらの姿に、哀れさを感じることもあるからな」

 身体を起こそうとして、顔をあげた先に斗娜の足が見えた。

軽く爪先をあげたように見えた、だが腹に爪先が触れた瞬間、鉄球ででも殴られたかのような衝撃が来た。

 のたうち回るほどの痛みと、吐き気。

 何度もむせて、文字通り這いつくばる。

「……っ、うぇ……」

 かっこ悪いとか、そういうことを考える余裕もなかった。

 口の端から血の混じった唾液がこぼれる。

 お腹を押さえて、くの字に曲がる身体を、髪を掴んで引き起こされる。

「……痛……っ!」

「スマホを出せ。私がお前に致命傷を与えないうちに」

 こちらが散々な有様だと言うのに、斗娜は表情すら変えない。まるで道端の石ころでも見るような目だ。

『強くて容赦がない』

 大知洙の言っていた言葉を思い出す。

 競技場や学校で鬼が倒されたのを、改めて思いだすまでもなかった。

 身にしみた。

 確かにこれは、容赦なんてしてくれそうもない。

 でもだからって、ここで降参なんて死んでもご免だ。

「……っ……ぃ」

「ん?」

「絶対に嫌だって……いってる……でしょ」

「まだ逆らうか」

 その幼い顔とは不釣り合いに、忌々しげに舌打ちする。

 さらに髪を強く引かれて、悲鳴を噛み殺す。

 きつく閉じていた目を開いて、斗娜を睨みつける。たった11歳の少女に完全に迫力負けしているけど、それでも強く彼女を見る。

「…………アンタなんか、クロのこと好きでもない癖に」

「なに?」

 いぶかしげに表情を歪める斗娜を睨みつける。

「クロのこと好きでもない人に、譲らないって言ってんの!……本気で好きだって言っても譲りたくないけど」

 痛む身体を無理やり動かして、なんとか髪を掴んでいる斗娜の手を振り払う。払った勢いで状態がふらついたが、なんとか持ちこたえる。

「好いたはれたと、ここまできてまだそんな浮ついたことを言うか。つくづく呆れた女だ」

 斗娜は、相手の物わかりの悪さにかなり苛立っている感じだった。

 睨み殺されそうだ。

 でも怖さよりも怒りが先に立つ。

「浮ついていて何が悪いのよ!アンタたちの事情なんて知らないよ!私は普通の女子高生で、普通に、クロのこと好きになっただけだもん!なのに、どうしてみんな脇からごちゃごちゃいうのよ!」

「物わかりの悪い。バカはこれだから困る。いいか?我々が脇からごちゃごちゃ言っているのではない。貴様が横やりを入れているのだ。貴様と言う存在が、我らの世界を乱しているだよ。黒江や我々と貴様とは世界が違うのだ。どうして理解できん?」

 怒りと憐れみが混じった声で言われ、胸倉を掴まれる。

 息がつまって、顔ゆがめる。

「……違わない」

「なに?」

「クロと私の世界は違わないよ!だっていつも隣にいたもん」

「それは黒江が貴様に見せた錯覚だろう」

「違う!確かに幼馴染じゃないけど、でもちゃんと私の隣にいた」

 作られた記憶の中だけじゃない。

 本当に隣にいて、一緒だった思い出だってある。

 それは誰にも否定できない事実だ。

「大体さっきから、世界が違うとか、バカだとか人のこと言ってるけど、そっちの方がよっぽど馬鹿じゃない」

 肩で息をしながら叫ぶ。

「頭いいくせに、援助してもらうために、好きでもない人と結婚するなんて、そんな方法しか思いつかないの?どうせなら、もっといい方法考えなさいよ!……人にさんざん偉そうなこと言うなら、クロの婚約者なんて地位に頼らないで、自分でなんとかすればいいのよ!人の恋路を邪魔するアンタなんか、馬に蹴られちゃえ!」

「言わせておけば、べらべらと……!」

 本当はもっといろいろ言ってやりたかったが、斗娜の振り上げられた手に、反射的にきつく眼を閉じる。

 でも、胸倉を掴まれて引き起こされたまま、平手はいつまでもおそってこなかった。

「……?」

 斗娜の表情が一点を見つめてかたまっている。

 その表情は引きつっている。

「ちょっと……」

 身じろぎをした瞬間、突き飛ばされた。

「うわああああああ!」

「……は?」

 初めて聞いた斗娜の悲鳴に、こっちがポカンとする。

「なに?」

 腰を抜かしている斗娜が、憎々しげに顔を背けて怒鳴る。

「き、貴様、懐に何を仕込んでいる!?」

「ふところ?」

 パーカーの襟元からのぞいているのは、全長20センチもない、ぬいぐるみだった。

 世界的に有名な口がバッテンのウサギ。

「えっと、これのこと?」

 言いながら取り出すと、「取り出すな!それをこちらに向けるな!!」と悲鳴をあげた。

「……?どうなってんの」

 自分の方に向ける。

 何の変哲もないミッフィー。

 月子と合流して渡されたものの、どうしていいかわからず、ともかくつきかえすのも悪いからと、しょうがないからパーカーのチャックを閉めてお腹に入れておいたのだった。

 先ほどの尊大な態度はどこへやら、斗娜は頭を抱えて震えている有様だ。

「もしかすると、これ……」

「こちらに向けるな。みせるな、その虚ろの目を!訳のわからんバッテンの口を!!」

 正直、わけのわからんのは貴方の反応です。

 どうやら、ぬいぐるみがすごく苦手……というか、恐怖を覚えているみたいだった。

「かわいいのに」

 思わず呟いて、近寄る。

「貴様、ち、近寄るな!」

 本気で怯えている風の斗娜に、しみじみ思う。

 人の感性って本当にいろいろだな。

 でもこれはチャンスかもしれない。

 うまくいけば、こっちがスマホを奪えるかも……。

 一瞬、甘い希望を持った時

「いい加減にしろ、ふざけるなあああ!」

 悲鳴のような雄叫びの様な声と共に、一瞬のすきをついてミッフィーが叩き落とされた。

 そのまま、足元に落ちたウサギは、憐れ遠くに蹴り飛ばされる。

「ああ!」

 はるか遠くに飛ばされたミッフィーを未練がましく視線で追っているのも束の間、

「良くも……やってくれたな、貴様」と少女の、息切れ交じりの声が聞こえた。

「舐めた真似を」

「…………ちょっと待って、あれは別にわざとじゃ」

「殺すまでもないと思っていたが……気が変わった。たった今、貴様は死刑に決定した!」

「ええ!ちょっと待って」

「問答無用」

 斗娜の右手の爪が突如鋭く、まるで刃物の様に伸びた。

 人間にはありえない変化。

 以前、劉善さんも手だけ獣化して見せたことがあったが、あれのようなものだろう。だが斗娜は爪のみだ。

 するどくいかにも獰猛な爪は、ひっかけられただけでもひとたまりもなさそうだ。

 斗娜の腕が振り上げられた瞬間。

 その角度から、頸動脈を切断されると思った。

 恐怖で足がすくんで動けない。

 本当にここまでだと、観念して振り下ろされる刃の様な爪を見ていた。

「……!」

 不意に身体が背後から身体が攫われて浮いた。

 斗娜の爪が空振りして、廊下を引き裂く。

「あぶねえ」

 耳元で声がして、一瞬、身体が固まった。

 腰に回る腕に、はじかれたように顔をあげた。

「クロ!」

「悪い、ちょっと思ったより時間かかった。競技場からここまでこんなにかかると思わなかった」

 そう言って苦笑いする顔を呆然と見上げる。

「大丈夫か?……あ、怪我してんじゃねえか、口の中切ったのか?かわいそうに」

 顎をとられて親指で口もとの血を拭われる。

 随分と久しぶりな気がする。

 強い腕に抱かれて呆然と黒江を見る。

 いつもの飄々とした表情。薄茶の目に自分が映る。

「クロ……」

「ん?」

「……クロぉ……っ」

「なんだよ?」

 緊張が一気にほどけた。

 クロの声と腕と、ともかく久しぶりすぎて泣けてきた。

「……、……ぇ」

 我慢できなくて、黒江の首に抱きついた。

 逃げたくないって意地を張ったのも、皆が勝手なことを言うのに腹が立っていたのも、嘘じゃない。

 絶対に負けないと思って、頑張っていたのだって本当だ。

 でも、心の奥の方でずっと不安だった。

 だって、ルールだってわかっていても、メールが返ってこないのは不安だった。

 マンションの前で背中を向けられた時は、寂しかった。

 切なくて死ぬかと思った。

「よしよし、泣くな、結子。もう大丈夫だ」

「ばかっ、なにいって……っ、も……とは、全部……」

 元はと言えば、全部アンタのせいでしょうが!といって罵ってやろうと思ったのに、また涙が出るのに邪魔された。

 最近、涙腺が壊れているんじゃないかと本気で疑ってる。

 我ながら恥ずかしくなるほど、勝手に涙が出るのだ。

 子供がされるように頭を撫でられ、額と瞼にキスされて涙を舐めとられる。ついでとでもいうように口の端の傷も舐められた。

 クロに触れられて、こんなにホッとするとは思わなかった。

「貴様ら、公衆の面前でべたべたと……恥を知れ!」

 怒鳴られて、びくりとする。

 斗娜のことを別に忘れていたわけじゃない。

 だというのに、わざとのように黒江が斗娜をみて、平然と言い放った。

「あ、結子に会うのも触るのも久しぶりで、つい、お前のこと忘れていたわ」

 変に挑発しないでよ。

 そういうつもりで、服をひっぱったがスルーされた。

 それどころか、……さりげなく人の腰を撫でるな、腰を!

 斗娜の怒声で衆目を思い出して、さりげなさを装って身体を離すと、黒江は不満そうにしたが、それも一瞬だった。

「どこまでも人を馬鹿にしおって、黒江!貴様どういうつもりだ、こんなところまで出しゃばってくるとは」

 いきり立つ斗娜を前にしても、黒江は平気なものだった。

「ルール違反だって?まあ、そうかもしれないけど、でもこの決闘自体、間違っていたんだから今さらだろう」

「なに?」

「……クロ?」

 何を言い出したのか、意味がわからず黒江の横顔を見る。

「お前らが乗り込んできた時に、ちょっとオレもいろいろ思い悩むことがあって、頭がついていってなかったんだよな。つい勢いのあるお前らの言い分の流れに乗っちまったけど、どう考えたってこの流れはおかしいだろ?」

「何がおかしい。婚約者の座を争って決闘することは、おかしくはない」

「本当にオレの婚約者の座を奪いあいたいならな。でも違うだろ、お前はオレの婚約者になりたいわけじゃなくて、婚約者が当然受ける恩恵をねらっているわけだ」

 クロに言われても、斗娜は否定もしなければ怒りもしない。

 いぶかしそうにクロを見る。

「……なにが言いたい?」

「それなら、そんな面倒なことをしないで、秘密をばらされたくなければ援助しろと言えばよかった。その方が話は簡単だったんだよ」

 黒江が言うと、斗娜は怒りで目をぎらぎらとさせて唸るようにいった。

「人をケチなゆすりたかりの様に言うな」

「似たようなもんだろう。……ともかくお前たちの目的がオレ自身でない以上、こんな決闘は無意味だ。結子とお前の決闘なんて、馬鹿馬鹿しいだけの茶番だ」

「なら、お前はどうするのが正しいと言うのだ。お前たちの不正を長老会に申し立てろと?」

 バカにしたように言われても、黒江は少しも動揺しない。

「ま、そりゃちょっと困るかな。……でも、それじゃお前たちにもうまみはなくなるだろ?」

 確かに普通に黒江が罰を受けても、斗娜たちには何の得もない。

「なら、どうしろと?」

「簡単だ。少なくとも交渉先は合っているんだから、あとは交渉の方法を正すだけだ」

 いって、黒江は笑う。

「『秘密をバラされたくなかったら、決闘をしろ。その結果、我々が勝ったら、なんでもいうことを聞いてもらう』そういって、オレとお前が最初から決闘すれば、簡単なことだったんだよ」

 斗娜が眦をつりあげた。

「黒江!貴様どこまで私を愚弄する気だ!?」

「そんなことしてないよ。これはお前が最初に申し出た婚約者の座をかけた決闘より、ずっと一族の信条に合っている方法だと思うけど」

「なにを……!」

「この世に信奉すべきは力のみ。唯一にして絶対の戒律。政略結婚で利益を得ようなんてお上品ぶった小賢しい真似より、ずっと一族の掟に沿っている。それとも、オレとやるのが怖いか?」

 明らかに挑発だった。

 理論の破綻を隠すための、挑発。

 それは黒江も気がついていて、つい第3者みたいに見てしまっている自分も気がついていて、唯一、ただ斗娜だけが沸騰した頭で勢いに流されようとしていた。

「だれが貴様なんぞ恐れるか」

「そうか?たかだか序列5位のお前じゃ、オレと決闘は腰が引けるだろ」

 完全に子供扱いされて、とうとう斗娜は冷静さを完全に失い、黒江のしかけた罠にかかった。

「……面白い。耄碌(もうろく)ジジイどもの決めた序列何ぞ、無意味だ。この3年近く、日本でぬるま湯のような生活を送っていた貴様なんぞに、この私が負けるか!」

「なら、いいな?お前とオレとの勝負で決着をつける」

「望むところだ!」

 そういって、まるで毛を逆立てた猫(いや、本当は狼なのだが)のようになった斗娜は声高に叫んだ。

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