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Act13

【決闘】

「双方合意の上,あらかじめ定めた規則・手続のもとに闘争すること。普通1対1で行う。By百科事典マイペディア」

「……別に意味が知りたかったわけじゃないです、凱月さん。っていうか、なんか最近いつも日本にいるんですね……」

「そうなのよ」

 そう言いながら、凱月(カイユエ)はノートPCに走らせていた指を止めた。

 セントラルタワーの十二階。

 凱月さんのオフィスの応接室にいた。

 というか、連行されてきたという方が正しい。

 そしてやっぱり連れてこられたらしいクロが、ソファにふてくされたようにふんぞり返っていた。

 黒江と目が合うと、不機嫌そうにそらされた。

 感じ悪いと思ったら、隣に劉善(リュウシェン)がいて、黒江の背後に立っている。

 縛りあげられていたりはしないようだが、監視されているみたいに見える。

 だからか。

 黒江もいて、凱月と劉善、あとは謎の美少女とその護衛っぽい人たち。

「なんですか、この物々しい雰囲気は?」

「空気を読め、頭の悪い娘だ」

 頭悪いって……、なによ、バカって言う方が、バカなんだからね。

 呆れたように呟く美少女に、そう言ってやりたいのは山々だがこの空気の中で、そこまで言える勇気はない。

「まあまあ、斗娜(ドゥナ)。そう焦らないで、私の方から説明するから」

 なだめるように言って凱月は、こちらに視線を向けた。

「まずは紹介から。彼女は劉斗娜(リュウドゥナ)

 ということは彼女も狼の血を引いていると言うことか。

「劉さんということは、劉善さんの親戚とかにあたるんですか?」

「劉善は劉家の本家の人間で、斗娜は分家のお嬢さん。普段は北米にいるけど、私たちの一族の人間ね」

 のらりくらりと説明している凱月の様子に苛々した様子で、斗娜は突然口を開いた。

「私は黒江の婚約者だ」

 ………………は?

「こら、斗娜。私が説明するっていってるでしょ?」

「凱月の説明は長い。待ってられない」

 そういうと、くるりとこちらを睨みつけた。

 自分よりずっと小さい少女だというのに気圧される。

「諫早結子。黒江はもともと私の婚約者だ。わかったらとっとと身を引くがいい」

「この子が、婚約者……?」

 思わず黒江の方に目を向けると、むすっとした表情のまま

「それはまだ、オレの両親が生きていた頃の話だろうが」とぼそりと呟く。

「だが、正式に婚約は解消されていはいない」

「婚約自体が口約束だっただろう」

「一族の総意であったことに変わりはない」

 いろんな感情がこみあげてくる前に、混乱していて二人のやり取りを思わず呆然と聞いてしまう。

 凱月がうんざりしたように両手を叩く。

「はいはい、そこまで。話が見えなくて結子ちゃんが混乱しているから、二人とも黙って」

「しかし、凱月」

「調停役は私。それは最初に話しあった時に決めたことでしょ。ルールに従うべきだわ」

 やんわりと、だがはっきり斗娜をさえぎると、凱月がため息をついた。

「じゃ、最初から。彼女は一族の娘で、黒江の元婚約者だったの」

「凱月……っ!」

 少女が食い下がろうとすると、凱月が片手をあげてそれを制した。

「もともと一族が近親婚を続けてきた話は、前にしたわよね?ひとつは一族の秘密を守るため。もうひとつは一族の血を薄めない為。

 自然、子供の頃から結構婚約者なんていうのが決まってしまうのだけれど、黒江も例外ではなく斗娜と婚約が決まっていたの。7つも離れているけど、まあなんとなく、年齢的にもちょうどいい子がほかにいなかったっていうのがあってね。でも婚約は解消された。とある事件で、継承権に変動が出たから」

 とある事件、とは。

 黒江のお母さんが、伯父さん夫婦と、旦那さんであるクロのお父さんを殺してしまった事件のことだろう。

 何者かに身体を乗っ取られて、惨殺に及んだのだと言う。結局、クロのお母さんも、やむなく命を絶たれたのだと。

「継承権から程遠かった黒江が、突如第二位まであがっちゃったから、いろいろ見直されてしまったのね」

 意味がわからなくて、小さく首をかしげると、鋭い声が割って入った。

「半端者では長の妻は務まらないということだ」

「は?ハンパ者」

 繰り返すと斗娜に睨みつけられた。

 困ったように凱月はため息をついて、

「……斗娜は人間とのハーフなの。黒江と同じ。斗娜の場合はお父さんが人間なんだけど。……まあ、長になる可能性がぐっと上がってしまった以上、年が近いからとかそんな単純な理由で、結婚相手を決めるわけにはいかなくなったのね」

「要は、もっとふさわしい家柄の純血種の娘でなければいけなくなったのだ」

 自嘲するように口もとを歪め、斗娜は呟く。

 でも、それじゃ、話がつながらないような……。

「でも、それっておかしくないですか。なら、どうして今回私が婚約者ってことになった時、もっと大騒ぎにならなかったんですか?」

「ん?」

「クロに第二継承権が与えられた時に、そんなに環境が激変したなら、私がその……『婚礼の儀』とかそういうのしちゃったからって、……本当なら簡単には私が婚約者と認めてもらえないんじゃ」

 狼の血をひいているわけでもないし、普通の一般家庭の人間じゃ、斗娜さんよりふさわしくないと騒がれてもおかしくない。もちろん無条件に受け入れてくれる雰囲気じゃなかったけど、表立って反対もされてない。

 凱月さんが苦笑いを浮かべて、うーんと呟く。

「そこが今回のネックでねー。要するに結子ちゃんが思っているより、『婚礼の儀』ってすごいことなのね」

「はあ」

「しかも一族のバックアップなしに、『婚礼の儀』を行えるってもう、たとえて言うなら一族の最大級の試練を乗り越えましたって感じね。

 私たち、狼の一族は人間を遥かに上回る能力を持っている。ただそのポテンシャルを最大にした時に、一番問題になるのは自らを制御する理性が弱くなること。狼としての能力を発揮すればするほど、思考能力や理性が低下していく。でもそれじゃ、いくらすごい能力を持っていても、それじゃ使えないから」

 バーサーカーは強いけど、判断能力のパラメーターが低いから、あんまり使えないってことかな。

 つい、わかりやすくゲームに置き換えてしまう。

「こう見えて黒江は狼としての能力の発現が早かったの。ただ若いうちから狼としての力を得ると、大抵は理性が薄くて獣化しても使いものにならないのね。でも、その黒江が、誰の助けも借りずに、本当に愛する人と『婚礼の儀』を行った。花嫁は傷一つつかずに生きていた。それは我が一族の弱点を、克服したという一種の証明と取られたわけ。簡単に一人前と認められたと思えばいいんだけど」

 そんな大変なことだったとは、これっぽっちも知らなかった。

 だってクロはそんなこと全然言わなかったし。

 そう思って、クロに視線を向けてから、妙に納得してしまった。

 言うわけないか。

 いつもかっこつけてばっかで、なんにも教えてくれない黒江。

 一人で何でも抱え込んで、私には内緒なんだから。

「まあ、そういう事情があるので、黒江が結子ちゃんを連れてきた時に、誰も文句をいえなかった、と」

「だが、それは嘘だ」

 斗娜が短く切りつけるように呟く。

「二人はまだ契っていないのだろう。『婚礼の儀』は嘘っぱちだ」

 咄嗟にクロを見てしまう。

 クロは両手を組んで、ソファに深く腰掛けて何も言わない。

「長老会を謀った罪は重いぞ、黒江。審問にかけられても文句は言えまい」

 斗娜はまるで仇でも見るようにクロを睨みつけて、クロも目を眇めて彼女を見ている。

「ちょっと、待って。それは……」

「言い訳をするか、諫早結子」

 矛先がこっちに向いて、ぎくりとする。

「貴様たちの言い分が正しいというのなら、何か証をたててみるか?何か有効なものであるなら出して見せるのだな」

 嘲るように言われて、一瞬意味がわからずに斗娜をみると

「血のついたシーツなんて古典的な物は無論、意味がない。映像証拠も無意味だぞ。そんなものはいくらでも合成できる。」

 無表情に言われて、やっと意味がわかって頬が熱くなった。

「医者の診断もいまさら意味がない。貴様が処女でないことが証明されたところで、貴様らが『婚礼の儀』を行った証にはならん。相手は黒江とは限らんのだからな」

「な……っ」

「どうしても疑惑を晴らしたいのなら、我らの前で契ってみせるよりほかはない」

 な、なんてこというのよー!?

 美少女の口から次から次へとはずかしい言葉が飛び出して、こっちの方が顔から火を噴きそうだ。

「やめろ」

 不愉快そうな声が、響いた。

「やめろ、もううんざりだ」

 黒江の声だった。

 一瞬、わからなかった。それくらい冷たい声だ。表情は全く変わってない、でもぞっとするような冷たい雰囲気だった。

「自分が正しいことをひけらかすのが、そんなに楽しいか?」

「負け惜しみだな、黒江。厚顔にもほどがあるぞ、自分の罪を棚に上げて、開き直るか」

「開き直るわけじゃないが、オレの婚約者をこれ以上辱めるような発言は、許さない」

 斗娜の片方の眉が微かにあがる。

 険悪な空気に耐えられなくなって、思わず口を開く。

「あの、ちょっと待って。誤解です……」

「何が誤解だ、諫早結子」

 不愉快そうな斗娜に睨まれたが、負けずに言葉を続ける。

「た、確かに『婚礼の儀』に関しては、その……本当じゃないですけど、別にクロは嘘をつこうとしたわけじゃないんです。単に私が泊りに行っていたのを周りの人が誤解して……、クロは誤解を解こうとしたんです。でもいろいろ事情があって、そのまま……」

 言えば言うほど、斗娜の表情が白けたものに変わっていった。

「バカか……、黒江がどう思っていたとか、誰がどう誤解したかなど、いまさらどうでもいいわ。重要なのは、黒江が事実を隠し、一族を騙したということだ」

「ちょっと待って、それじゃクロが悪いみたいじゃない!」

「だから最初からそう言っている」

「違う、クロは……っ」

「ええい、キャンキャンとうるさい女だ」

 斗娜があからさまに苛立ったように、顔を歪めて手を振り上げた。

 自分より十センチは小さい女の子だが、平手で打たれたら痛いだろう。でも、よける暇もなかった。

 思わず両手を前に出して、目をつぶる。

 だが、いつまでも頬を打つ手はおそってこなかった。

「斗娜様、この場に暴力はふさわしくないかと」

 静かな声が、聞こえておそるおそる目を開くと、背後からお付の人の一人が斗娜の振り上げた手を押さえていた。

「っ、離せ、大知洙(テ ジス)

 斗娜は忌々しそうに手を振り払う。

 手を振りはらわれた人は、黙って一歩退いた。

 よく見ると、すごく若い。

 自分や黒江と二つ三つくらいしか変わらないだろう。だがダークな色のスーツを着て、黙って立っていると、もっとずっと年上に見えた。

 一瞬、視線が合ったような気がしたので小さく頭を下げたが、その人の表情は動かなかった。

「……あのーまったく、話が前に進まないんだけど」

 重苦しい沈黙を破ったのは、うんざりしたように頬杖をついた凱月だった。

「まったく、この話は散々二人でしたじゃないの、『婚礼の儀』に関しては、私たちの勘違いで、黒江や結子ちゃんより、概ね非は我々にあるって。腹の虫がおさまらないのはわかるけど」

 ため息交じりに言うと、斗娜は拗ねたようにふいと顔を横にそらした。

「……。改めて仕切り直すわね。ともかく、元婚約者の斗娜にしたら、この状況は面白くない。もう一度、黒江のお嫁さん探しを仕切り直したい。ということで……最初に戻るわけ」

 最初と言うと……。

「決闘、ですか?」

 聞くと、凱月が頷いた。

「そう、結子ちゃんが婚約者の資格があるなら、自分にも権利があるはずだって……」

「偽りの『婚礼の儀』によって、一族に何の縁もない人間の娘が、長の妻になるなど我慢ならん。他の純血種の娘が花嫁なら、まだ我慢もしようが、貴様のような何のとりえもない人間風情……」

 斗娜が憎々しげに吐き捨てるのに、凱月が頭を抱えた。

「斗娜!……黙りなさい。いい加減にしないと怒るわよ」

 疲れたように言うのに、斗娜は黙ったが睨みつける目はそのままだった。

「あー……、いろいろ諸事情ははしょるけど、ともかく、結子ちゃん。斗娜と決闘して頂戴」

「は?」

「で、勝った方が黒江の婚約者ってことで」

「ええええええ?!」

「場所と方法は後日伝えます。以上、今日はもう解散」

 言いたいことはたくさんあったが、凱月はもう、話はここでおしまいとばかりに打ち切ってしまった。

 苦情の持っていきようがない。

「凱月、それでは我らはホテルに戻るが、約束は……」

「わかってるわよ。黒江はこっちで預かります。決闘の日までちゃんと監視するから。結子ちゃんの監視も、そちらの部下から選んで張りつかせたらいいわ」

 面倒くさそうに言うと、それでも斗娜は満足したように踵を返した。

「では、失礼する」

 たくさんの警護らしき人をつれて部屋を出ていく。

 完全に廊下を遠のいて、気配が消えるのを待って、凱月ががっくりと机に突っ伏した。

「あー、やっと帰った」

 心の底から疲れたと言う風の凱月には申し訳なかったが、それでも詰め寄らずにはいられなかった。

「凱月さん、どうなっちゃってんですか?」

「悪いわね、結子ちゃん。でもこうするしか方法がなかったの」

 顔をあげて、凱月がため息をつく。

「アンタたちのこと、長老会の一部にバレちゃってさー」

「え?」

「ま、穏健派の本当に一部だから、なんとかごまかせたんだけど、人の口に戸は立てられないわね。耳ざとく聞きつけてきたのが、あの斗娜」

 黒江の、元婚約者。

「クロ」

「なんだよ?」

「前に、自分には婚約者なんていないって言ってなかったっけ?」

 一族の人たちが近親婚であること。随分と小さい頃から婚約者を決められてしまうことを聞いたときに、黒江は言ったのだ。

『オレは特別だったから、婚約者なんていなかった』と。

「斗娜とは正式に婚約していたわけじゃない」

 さっきと同じことを表情も変えずに呟くのに、カチンときた。

「でも、全然そんなものはいませんでしたっていうのは、嘘じゃないの?」

「お前、いまさらそんなこと騒いで、どうしたいんだよ?オレに土下座でもして欲しいのかよ?」

「なによ、その言い方。そんなこと言ってないでしょ?」

「あーもう!いい加減にして!!」

 凱月さんが、怒鳴りながら机を拳で叩いた。

「……まったく、ただでさえ決算を控えて忙しい時に、こんな問題ぶちあげて……クソガキどもが……せめてもうちょっと暇な時期にしなさいよ、そうすりゃ多少楽しめたのに……っ」

 俯いたまま表情が見えない分、低い呟きが怖かった。

「凱月、苛立ってもしょうがない」

 黒江と二人で声もなく固まっていると、劉善が呆れたように呟いた。

「劉斗娜は、北米支部をまとめている男の一人娘だ。あの娘の気性を考えると、下手したら、すぐにでも長老会に訴え出るだろう」

「それされるとまずいのよねぇ……」

 大分苛々しているのか、凱月さんが爪を噛む。

 そんな姿、初めて見たので思わずマジマジと眺めてしまっていたが

「最悪、黒江の継承権がはく奪される」

 ぼそりと劉善が呟く声に、慌ててそちらを振り返った。

「え?」

「一族を謀った罪は重い。それに、もちろん結子との婚約は解消になる。黒江は香港に強制送還されて……いろいろ目こぼしされても、身柄は長老会預かりが妥当だろう」

 凱月は劉善の言葉を聞きながら頬杖をついて、面白くなさそうに手元の書類を弄んでいる。

「あの、それってもしかすると……」

「もしかしなくても、結子ちゃんの記憶は消させてもらうわよ。狼の一族の記憶まるごとね」

 凱月がふてくされたように言うのに、言葉を失う。

「痴話ゲンカしている場合じゃないわよ、二人とも。今度ばかりは私もかばいきれないし」

 そういうと、凱月が顔をあげた。

 真剣な表情でみすえられて、背筋が伸びる。

「決闘、受けて立つしかないわ。結子ちゃん」

「でも……」

「斗娜の実家はいまヤバいのよ。表の仕事で焦げ付きだしていて、裏の方もいまいち。このままいったら、北米支部の仕切りを下ろされかねない。だから第二継承権を持つ黒江の婚約者になりたいの。すぐに長老会に訴え出なかったのはそのせいよ」

「確かに第一継承権を持つ凱豊(カイファン)がいない今の状況なら、最優良候補の婚約者ということになる。その実家のことは、一族の人間も無碍にはできない」

 二人に詰め寄られて、無意識に一歩後ずさる。

「これはチャンスなの。もし決闘に勝てば斗娜は、黙って引き下がるって言っているの。秘密も誰にも話さないって」

「でも、そんなこと言われても……」

「他に方法はないぞ」

 劉善の声に、肩が落ちる。

 どうしよう。

 だって決闘とか言われても、何するのかもわからないし、もし負けちゃったらクロと別れなくちゃいけないし、それも嫌だけど、黒江が罪に問われるなんて思ってなかった。

 いまさらだけど、私たちはとんでもない嘘をついてしまった。

 しかもついてきた嘘のツケは、今や自分に全部降りかかっていた。

 背中に嫌な汗が流れる。

 やっぱり私、バカだ。

 頭悪いって言われてもしょうがない。だって今頃になって大変なことをしたって、気付かされている。

 しかも、どうしていいかわからなくて、言葉も出なくて立ちすくむしかないんだ。

 責任の重さに泣きそうになる。

 泣いてもどうしようもないのに。

「くだらねえ」

 不意に、呆れたような黒江の声が、応接室に響いた。

「え……?」

「騒ぎ過ぎだ。決闘なんてすることない。……こいよ、結子」

 ソファから立ち上がった黒江に、手首をとられて引き寄せられる。

「え、え?」

「凱月、隣の部屋貸して。ソファとかあったよな?」

「は?……ちょっとアンタ何するつもり……?」

 目を眇めて言う凱月さんを、肩越しに振り返って言う。

「要はオレたちに既成事実がないのがいけないんだろ。だったら、いますぐに作ればいい」

 そういって、ぐいぐい腕を引っ張られて隣の部屋に連れ込まれそうになる。

「おい、黒江」

 劉善さんの声も完全に呆れていた。

 黒江が何をするつもりなのか、いまいち理解できずにただ、三人の顔を順番に見た。

 劉善と凱月は完全に呆れた、というよりちょっと怒っているみたい。

 黒江は不機嫌そうだけど、あんまり表情はない。

「く、クロ?」

「しょうがないよな、結子。こんなところで初めてでも」

「は、……初めてって……ええ!?」

 まさか。

 瞬間、頭に昇った血が、全部顔に集中したかと思った。

 黒江が何をしようとしているのか理解した瞬間、恥ずかしさと怒りでわけがわからなくなった。

 身体が勝手に動いて、黒江の手を振り払っていた。

 そして渾身の力で、本当に力任せに黒江の頬を張り飛ばした。

 頬を張る音が部屋に鳴り響いたと言うに、殴られた黒江より自分がよろけた。

 悔しい。

 こっちは殴った掌が熱いみたいな痛みで、ジンジンしているのに、微動だにしない。

「結子」

「信じられない……ふざけないでよ……っ」

 こんな、こんな状況でよくも、そんなことが思いつくわね。

 そう言ってやりたかったが、言えなかった。

 我慢していた涙が溢れて、止まらなくなっていた。

「……っ……、サイテー……」

 ちゃんと罵ってやりたいのに、嗚咽でちゃんとしゃべれない。

 悔しくて手の甲で乱暴に涙をぬぐって、睨み上げる。

 黒江は表情すら変えない。

「じゃ、お前、他に何かいい方法あるのか?」

「……っ……ふ」

「我慢してここで既成事実作って、連中追い返した方がいいんじゃないのか?この二人と、斗娜の部下とかまだ残ってんだろ?結子の監視につくとか言ってたから、そいつら呼んで証人にすれば、文句もないだろ」

 羞恥とショックで、言葉も出てこない。

「お前は何もしなくていいよ、結子。ただ、ちょっと目をつぶって、いろんなことを我慢してれば。……すぐに済ませてやるよ」

 本当に、本気でそんなことを言っているのだとしたら、神経を疑う。

「そんなの……できるわけな……っ」

「じゃあ、凱月たちの言うように、決闘を受けて立つのか?何やらされるかもわかってなんだろ?お前勝てる自信あるのか?」

「わかんない……けど……っ」

「オレと別れることになってもいいのか?」

 ずるい。

 そんな言い方、ひどい。

「やだ」

「だったら……」

「ヤダけど……、今ここで、するのはもっとイヤ!」

 そう言って、もう一度涙をぬぐってクロを睨み上げる。

「決闘する。今ここで……みんなが見てる中で、クロとするより百倍マシ」

 怒鳴ると黒江がバカにしたように笑った。

「お前、何するかわかってんのか?」

「知らないわよ。でも、元はといえば……私たちが悪いんだもん」

 嘘をつく気はなかった。

 でも、私はクロと離れたくなくて、みんなは勘違いを訂正するのが面倒で、嘘をついた。

 今ならわかる。

 一番嘘ついちゃいけないところで、私たちは嘘をついてしまった。

 これ以上、嘘つきたくない。

 言い訳するみたいに、衆人環視の中、黒江と抱き合うのもご免だ。

「決闘すればいいんでしょ!やってやるわよ!勝てばいいんだもん!」

 怒鳴りつける。

 斗娜さんじゃなくて、黒江に宣戦布告するみたいに。

「お前ホントに……バカだな」

「バカでもいいよ、クロの臆病者」

 言い捨てて踵を返す。

 ソファに置いておいた荷物を持って、凱月に声をかける。

「今日はもう、帰ってもいいですか?」

「え?……ああ、いいわよ。多分、エントランスに貴方の監視がいると思うけど」

「……わかりました」

「後でまた連絡するから」

「はい、失礼します」

 言って、応接室の扉に手をかける。

「結子」

 これに振り返ると、黒江がバカにしたような笑いを浮かべていった。

「もうひとついい方法がある」

「……なによ?」

「いますぐ婚約解消して、オレの記憶を根こそぎ消してもらえ。どうせ、早いか遅いかだ」

 脳味噌が沸騰するかと思った。

 悔しくてまた涙が出そうになるのをかろうじて押さえた。

「クロの臆病者のサイテー野郎!ばか死ね!」

 ほとんど叫ぶようにして、ドアを後ろ手に叩きつけた。


***


結子が出て行ってから、白けた空気が流れた。

「痛っ」

 なにか軽い物が頭にあたり、別に痛くもないが反射的に言う。

 足元に落ちたものを見ると、丸めた紙だった。

 凱月が丸めて放ったらしい。

「何すんだよ、ゴミはゴミ箱に捨てろ」

「そっちこそ、女の子虐めるんじゃないわよ、後味悪いわね」

「しょうがないだろ」

 それに後味が悪いのは、何を選んでも同じだ。

「あーあ、まったく嫌な展開。劉善、黒江をマンションに連れて帰って。あんたしばらくその子と行動を共にしてもらうから」

「まさかオレが監視に着くのか?」

「何かあった時、この子止められるのは、私かアンタくらいでしょうが。どうせそう長くはないわよ」

 投げやりに言うのに、劉善はため息をつく。

「いくぞ、黒江」

「へいへい」

 ぐだぐだと黒江が、劉善の後に続く。

 劉善の後に続きながら、一瞬泣いていた結子の顔を思い出す。

 胸が痛まないわけがなかった。

「黒江」

「なんだよ」

「意外と確信をつくな、アレは」

 アレが結子を指していることに気がつくのに数秒かかった。

「最低の臆病者。まったくその通りだ」

「むっつりスケベで、ドMのお前に言われたくねえよ」

「凶暴で短気なあの娘にあんなこといったら、どうなるか想像できないわけじゃないだろう」

 結子に対する評価に多少文句がなくもなかったが、そこはスルーすることにした。

「いいんだよ。あいつは普通の人間だから。あれで愛想尽かされても、しょうがねえし」

 微かに劉善の肩が動いた気がした。

「オレといたら、ずっと同じようなことが起こる。何度でもな。そしたら、あいつはいつも泣いてなきゃいけなくなるんだ。そんなの見ている方がキツイ」

「だから悪者になって、相手を傷つけて離れるように仕向けたと」

 言うと、突然劉善が振り返った。

「あぁ?なんだ……」

 拳骨で頭を殴られた。

 子供を叱るように。

「……痛ぇ!てめえ、何すんだ!」

「本当にお前は救いようもない」

 劉善の見下すような視線に、睨み返す。

「てめえ、偉そうに……っ」

「いまさらそんなことを言うくらいなら、どうして結子にすべてがバレた時に、その覚悟ができなかった?」

 それは

 あの時は、結子が―。

「何の覚悟もない今のお前は、人間の結子にも劣る。狼の一族として恥を知れ」

 憎らしい、正論を吐く劉善に何か言ってやりたかったが、言うべき言葉がなかった。

「でも、じゃあ、どうすればよかったんだよ」

「そんなこと自分で考えろ」

 劉善の回答は、当たり前のものだった。

 自分が同じ立場でもそういうだろう。


    ***


 エントランスに着くと、スーツの人が歩み寄ってきた。

「諫早結子様、お送りいたします」

 顔をあげると、見覚えがあった。

 斗娜が殴りかかろうとした時に、止めてくれた人だった。

「…………監視の人ですか?」

「窮屈かと思われますが、これもルールの内としてご容赦を」

 応えずに頷いた。

 泣きすぎて、声を出すのも億劫だ。

 エントランスを出ると、目の前の駐車スペースに黒塗りの車が止めてある。後部座席のドアを開かれて、乗るように促される。

 されるがままに車に乗り込むと、ドアが閉じられた。

 運転席に回ったところを見ると、どうやら張り付くのもこの人一人らしい。

 街灯が流れていくのを見ながら、また勝手に涙が出てきた。

 あーもう、本当に悔しい。

 クロのばかばかばかばかばか……っ。

 いくらなんでも、今日の数々の暴言は我慢できなかった。

 何考えてんだろ、あんなこと言いだすなんて。

 信じらんない。

 胸の奥がむかむかして、もっと殴ってやればよかったと歯ぎしりする。

 赤信号で車がゆっくりと止まる。

 カバンの中からハンカチを取り出そうとしていた時、不意に運転席から声をかけられた。

「よろしければ、どうぞ」

 低い穏やかな声。

 後ろ手に差し出されたハンカチをまじまじと見てしまった。

 信号が青に変わり、慌ててハンカチを受け取る。

「……どうも」

 別に借りるつもりはなかったが、運転手に差し出したままの姿勢をさせておくわけにはいかないと思って咄嗟に受け取ってしまった。

 良く考えたら、敵に同情された?

 そんなにひどい顔だろうか。

 ……ひどいんだろうな。

 まあ、借りてしまったからには使ってやれと半ばやけになって、涙をぬぐう。ふっとハンカチからいい匂いがした。

 男性用のコロンとかそういうの。

「直接、ご自宅に戻ってよろしいですか?」

「…………はい」

 監視と言うより、まるで本当に運転手のように聞かれて答えると、車はすべるように住宅地に向かった。

 それからは一切言葉を交わすこともなく、自宅の前まで送ってもらった。

 良く考えたら、こんな車まで送ってもらったのを、ご近所にでも見られたらえらいことなんだけど、ぼうっとしててそれどころじゃなかった。

「ありがとうございました。……ハンカチ洗って返します」

 ぼうっとした頭でそれだけ言うと、車を降りた。

 誰にも顔を見られたくなくて、玄関で「ただいま」と叫んで、自室に引きこもった。

「ちょっと、結子どうしたの?」

 心配した母親が部屋の前で声をかけたが、

「疲れただけ、もう寝る」と答えて、本当にベッドに入って泣き寝入りした。

 毛布をかぶりながら、また憎たらしいクロのことを考えていた。

 こんなにムカつくのに、腹立つのに、まだ好きだと思うと、いくらでも泣けた。

 そんなことを考えて泣いている自分は、本当に救いようがない間抜けだった。

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