Intermission 3
今回は本当に番外編で結子と黒江の話ではなく、劉善と一族の姫巫女の話です。
「劉善さんは彼女とかいないんですか?」
マカオについて2日目の昼食を一緒に取ろうと誘われて、凱月と黒江と3人でホテルのランチをとっていた時のことだ。
すっかり食事を終えて、食後のお茶とデザートのエッグタルトと季節のフルーツとセラデューラが運ばれてきて、給仕の人が下がったのを見計らって口を開いたのだ。
バニラクリームにビスケットを砕いたセラデューラと、香ばしい甘い匂いのするエッグタルトに手を伸ばしていた二人の動きが止まった。
そして、目を丸くして結子を見る。
その二人の視線に気圧されて、思わず結子は口もとを押さえた。
「…あれ、これはあんまり話題にしちゃいけないことだったのですか?」
「いや、そういうわけじゃないけど」
「そうねえ、親しい人間なら知っていることだし、親しくない人間ならまず劉善のそんなことを聞こうとは思わないわね」
二人が頷くのに、こっちが目を丸くする番だった。
「劉善さんって、あんまり友達いないんですか?」
何気ない質問のつもりが、黒江が噴き出した。
「ちょっと、汚い。何?」
「友達って、劉善に友達って…っ」
「?なんかおかしい」
確かにあんまり社交的な印象はないけど、友人くらいいるだろうと思っていたのだけど。
「結子ちゃん、あのね、劉善はもう本当に、小さい頃から筋金入りの黒社会の人間だから、友人とかそういう意識は、あまり持ち合わせていないと思うのよ」
「はあ」
「あいつの頭の中は、同志か一族の人間か、それ以外の分け方しかしてねえよ」
黒江の切って捨てるような言い方に、ちょっといやな気分になる。
「でも、凱月さんとかクロとは、随分仲良いですよね?」
言うと凱月は苦笑いし、黒江は憮然とした表情を作った。
「仲良くねえよ」
「ケンカするほど仲がいいんじゃないの?」
「本当に仲良くないから、ケンカしてるんだ」
嘘つきだなぁ。
本当に気に入らない人間なら、黒江は徹底的に無視するタイプだと思うけど。
「私も親しくはあるけど、仲良しかと言われると難しいわね。仕事上、私は信用も信頼もはしているけど、劉善から信頼はされているとは思えないし」
「はあ…そうなんですか」
思わず溜息のように言ってしまう。
この場にいない劉善の無表情な顔を思い出す。
「じゃあ、劉善さんが一番信頼している人って誰なんでしょう?」
「信頼と言うか、心を許す唯一の人なら、『姫』でしょうね」
「ああ」
何かを思い出したように、黒江も呟く。
「『姫』って?」
「一族の分家に、占いを専門とする連中がいるんだ。そこの血筋の子」
「今はその筋が絶えてしまって、その子だけになってしまったけどね。なにか重要な決定をする時には必ず占って、その結果を長老会に報告するわけ」
「へえ。占いをするお姫様かぁ」
凱月はコーヒーを口にしてから、苦笑いをした。
「まあ、滅多に人前に出ないし、あまり身体の丈夫な子じゃないから」
「そのお姫様と劉善さんって、どんな関係なんですか?」
凱月が一瞬口ごもったが、変わりに黒江がぼそりと答えた。
「婚約者だな」
「え!?」
思わず、声が出てしまった。
「婚約者って、劉善さん婚約していたんですか?」
「ウチの一族はそういうのが普通なんだ。狼の純血種を絶やさないようにって、近親婚をする。だから、親戚とか従妹の誰それと結婚するってのが、小さい頃から言われ続ける」
「最近じゃ、そうでもなくなってきたんだけどね。ま、結子ちゃんも今回の食事会に出て肌で感じたでしょうけど、ちょっと排他的なところがあるの」
ということは、やっぱり自分と黒江との婚約はあまりよく思われていないのだろう。
「じゃあ、クロもそういう婚約者がいたんじゃないの?」
凱月が何か言いかけたのを、さえぎるように黒江が答える。
「オレはいろいろ特別だから、そんなのはいなかった」
「ふーん…」
何か引っかかるところがあったが、でもあんまり聞いても楽しくなさそうなので、深くつっこまないことにした。
それよりも、そのお姫様の方に興味がある。
「劉善さんの婚約者か。いつ結婚するんですか?」
「一族の意向もあるし、何よりお姫様の方の体調の問題もあるし。劉善は一秒でも早くしたいみたいだけど…」
「あの劉善さんが!?」
思わず、大声を出してしまってから、周りを見る。
「お前、大声出すなよ」
呆れたように黒江に言われて、「ごめん」と謝る。
だって意外だったんだもん。
あの劉善さんだよ?
「べたぼれなのよねぇ」
「ちょっと気持ち悪いくらいな。オレが女なら引くわ」
凱月が微笑ましくいう隣で、黒江が舌を出す。
「なんか意外」
「気持ち悪いだろ?」
「気持ち悪くはないけどさ…、なんかいつも仏頂面でお小言しか言わない劉善さんが、女の人にメロメロとかって、想像できない」
亭主関白なイメージがあったんだけどな。
「むっつりスケベなんだよ、アイツ」
あくまで劉善が嫌いな黒江は、意地悪なことしか言わない。
「でも、ちょっと興味あるな『お姫様』。どんな人なの?クロ会ったことある?」
「ガキの頃、何度か。最近は全然だな」
「凱月さんは?」
「そうねえ、私も忙しいから、そう頻繁には…。劉善は何かにつけて、会いに行っているようだけど。彼女、一族が全員出席するような場にしか出てこないし…あ、でも会いたければ面会できるわよ」
「え?」
「今、このマカオで静養中だから。面会の申し込みをすれば、多分会えるんじゃないかしら?会いたいなら、頼んでみたら?」
気軽に言われて、思わず黒江と視線を合わせた。
***
「お前ってホント、モノ好きだな」
「うん、自分でもそう思う」
でもなんとなく気になるのだ。
「でも、暇なんだもん。ホテルから結局、出られない感じだし」
マカオに来て、多少は観光ができるかと思いきや、実際にはあまりホテルから出ないようにとか、なんだか親戚の誰それとかが来て、クロと一緒に挨拶したり話を聞いたりしなくちゃいけなくて、なんだかんだいってホテルに缶詰めなのだ。
でも、ずっと用事があるわけじゃない。
要するに時間を持て余すことの方が多いのだ。
「隣のホテルのカジノで遊べばいいだろ。お前、好きそうじゃん」
「未成年はダメだって言われたの、聞いてなかったわね?」
言うと、黒江は肩をすくめてみせた。
コイツ、いつもはこっそり遊びに言ってるんだろうな。
フロントで面会の申し入れをすると、すぐに許可が出た。
「お会いになるそうです。ご都合がよろしければ、すぐにでも上がってきていただきたいと」
係の女性に言われて、最上階近くの部屋に案内される。
「美阿様。黒江様と諫早結子様をお連れしました」
ノックして声をかけると、部屋の奥から声が聞こえた。
「どうぞお入りください」
うわお。
思わず心の中で呟く。
鈴を震わす声とはよくいったものだ。
細くて可憐な、綺麗な声。
係の女性が一礼して、去って行くのを見て奥に入って行く。
広々としたアンティークの家具のそろった部屋に、天蓋つきのベッド。
更紗の奥に、小さな人影が見えた。
「美阿。久しぶりだな」
黒江が声をかけると、中の人影が身じろぎしたのがわかった。
「黒江…ああ、久しぶりね。もっと近くに来て頂戴」
声に、黒江と二人でベッドに歩み寄る。
更紗を分けて入って行くと、そこには身体を起こしたお人形さんがいた。
漆黒の髪に青い目。
綺麗…。
思わずため息が漏れる。
「ごめんなさいね。体調は随分といいんだけど、お医者様がまだベッドから出してくれなくて」
「いや、無理に面会を申し込んで悪かったよ」
だって、本当に儚い、『お姫様』なのだ。
「そんな風に言わないで。すごくうれしかったのに。だって私にも、黒江のお嫁さんを紹介してくれるんでしょう?」
そういって、微笑む。
「本当は食事会にも参加したかったのだけど、劉善がダメだって…。だからお嫁さんを見るのは諦めていたのよ。でも、貴方達の方から来てくれるなんて、とっても嬉しい…」
すごい、美少女に微笑みかけられて、こっちが無意味に赤くなってしまう。
「結子?」
隣の黒江に声をかけられて、我に返る。
「あ、はい!…じゃなくて、はじめまして…諫早結子です」
慌てて頭を下げる。
「美阿と申します。仲良くしてくださいね」
それはもう喜んで!と拳をつくって答えたいのを我慢する。
「はい、よろしくお願いします」
「…かわいらしいお嬢さん。よかったわねぇ、黒江」
ふふっと微笑む美阿に、またみとれる。
「まあ…それより、美阿。体調は?」
「最近は随分といいのよ。マカオに来てから、外に出たりもしてるんだけれど」
耳に心地よい鈴を震わすような声を聞きながら、なんとなく劉善がメロメロになる理由もわかった気がした。
***
劉善がやっと仕事にひと段落つけて、美阿の面会を申し入れした。
だが、他の人間が美阿と会っていると聞いて劉善は軽く眉根を寄せる。
「誰が面会を?」
「黒江様と、結子様が…」
そう聞いた時、ますます眉根のしわを深めた。
あの二人、どういうつもりだ?
不快指数が一気に上昇し、美阿の部屋へと足早に急ぐ。
美阿の部屋の扉をノックして、返事と同時に扉を開ける。
「美阿」
「劉善、どうしたのそんなに慌てて…」
入って行くと、美阿のおっとりとした声が出迎えた。
足音も高く入ってくと、黒江と結子がぎょっとした顔を上げる。
バカ二人が。
「お前ら、何をやっている?」
「何って…えーと」
結子が取り繕うように愛想笑いを浮かべるのに、黒江が憮然として答える。
「別に、美阿の見舞いがてら挨拶にきただけだ」
「とっとと帰れ、美阿を疲れさせるな」
低く言うと、黒江が何か言い返そうとしたのを、結子が隣から腕を押さえて止める。
「私たち、これで失礼します」
「まあ、来たばかりなのに」
美阿が本当に残念そうに二人を見て、呟く。
「もっとお話、聞きたかったのに」
美阿の細い指が結子の手をとる。
「ええっと、また来ま…す?」
来てもいいのか?と問うように結子が劉善の方をみたが、無視した。
「きっときっと、また来てくださいね。日本のお話や、学校のお話を聞かせてくださいね」
「そんな話ならいくらでも」
結子がこちらを気にしながらも言うと、美阿が嬉しそうに微笑んだ。
あんなに嬉しそうに笑うのは久しぶりに見たが、ここで甘い顔をしてはバカどもがつけ上げる。何より、美阿の為にならない。
「それじゃ、失礼します。美阿さんお大事にしてくださいね」
「ありがとう結子さん。黒江もまた遊びに来てね。結子さんと一緒に、絶対よ」
「ああ」
黒江と結子がベッドサイドの椅子から立ち上がる。
「どーも、お邪魔様ー」
「早く出ていけ」
ケッと舌打ちするのが聞こえたが、放っておいた。
結子は申し訳なさそうに、ぺこっと小さく頭を下げて脇をすり抜けていく。
二人が出ていくドアの音を聞いて、劉善は深くため息をついた。
***
「…怖かった」
部屋から出てエレベーターに乗った途端に、呟くと黒江が呆れたようにため息をついた。
「だから、言っただろうが。劉善とはち合わせても知らねえぞって」
「本当はすぐに戻るつもりだったんだよー。身体弱いって聞いていたしさ。でも美阿さんすっごい美少女なんだもん!しかも優しいし。滅茶苦茶どうでもいい話でも、喜んでくれるから、つい」
「美阿は外の話はなんでも珍しくて、聞きたがるんだよ」
ゆっくりと降りていくエレベーターの壁に寄りかかって、うつむく。
「いやー、でもなんか…お姫様って皆が呼ぶのわかる気がするな」
「んー?」
「綺麗で優しくて華奢で、守ってあげたくなるのわかる。女の私でもそんな気持ちになるんだから、男の子がみたら、もう絶対、大事にしたくなるよね」
「まあな。でもあれで年齢は凱月よりひとつ上くらいだぞ」
「え?」
どう見ても17、8にしか見えなかった美阿の幼い輪郭を思いだす。
「見えないだろ?そういう体質らしい」
「そうなんだ。身体が弱いせいもあるのかなぁ」
「そういうこともあるんだろうけど…」
黒江の言葉があると同時に、エレベーターが目的階到着の軽い音を鳴らした。
ゆっくりと開く扉から出る。
「美阿さんみたいなお姫様が婚約者なら、きっと自分は中世の騎士みたいな気分になるんだろうな」
「なんだそれ?」
「忠誠と敬愛を捧げってやつだよ。知らないの、クロ?」
言うと黒江は嫌そうに眼を眇めた。
「あいつが騎士だっていうなら、いいところラ・マンチャの男ってやつだ。自分を騎士だと信じて、風車に向かって突っ込んでいく間抜けな男がアイツにはお似合いだよ」
黒江がつまらなそうに言う。
その背中に結子は呆れたようにため息をついた。
「古ぼけた物語の騎士みたいに、お姫様を守るからかっこいいのに」
ともかく今までより劉善のことをちょっと好意的にみられるようになったと、心の中で呟いた。
***
「劉善、ひどいわ。あんな言い方をするなんて」
美阿が呟くのに、ため息をつく。
「あんな連中と長々話してもいいことはない。身体を休めないと、また熱を出します」
「つまらないわ、せっかく黒江がお嫁さんを連れてきてくれたのに」
「まだ婚約しただけで、わかりませんよ」
「どうしてそんな意地悪を言うの。あの小さかった黒江が、見つけてきた大事な女の子よ?」
美阿はそう咎めるように言うと、小さくせき込んだ。
「ほら、無理をするから」
小さな背中をそっと撫でると、やがて席は落ち着いた。
美阿は疲れたようにため息をついた。
少し顔色が悪い。
「もう今日は休んだ方がいいでしょう」
「ええ…」
「いま薬を」
そういってベッドサイドの引き出しから薬を出し、水差しを用意する。
差し出された薬を口に含み、水で流しこむ美阿の横顔を眺めながら、劉善は心の中で小さくため息をつく。
また、痩せた気がする。
見るたび儚く陽炎のように消えてしまいそうな風情が増し、それが彼女の美しさを増す。
「ありがとう」
美阿からコップを戻されて、我に返って受け取る。
横になるのを助け、掛布をかけると、美阿は微笑んだ。
「なんですか?」
「劉善も、…私のところになんて来てないで、そろそろ結婚のことを考えた方がいいわね」
細い声に、一瞬手が止まる。
だが、表情には出さず、淡々と答える。
「貴方がいいと言ってくだされば、私の結婚はすぐに決まるのですが」
美阿はその言葉に、微かに哀しそうに眉根を寄せる。
「まだそんなことを…」
「貴方こそ」
「私はこんな風で、いつまで生きられるかわからないし」
「ならなおのこと、早く私の妻になっていただきたい」
劉善が言うのに、美阿はいよいよ哀しそうに顔を歪める。
「もう、何度…貴方とこの話をしたでしょう。そのたびに貴方は頑なに私と結婚をすると言うけれど、長老会の方々にも言われているはずです。私との結婚はあきらめるようにと」
「命令されたわけではありません。いえ、たとえ命令されても、私は妻にするなら貴方以外の人は考えられません」
劉善がきっぱりと言い切ると、美阿は劉善の視線から逃れようとするように、寝返りをうち背中を向けた。
「子供を作れない女と結婚して、どうするんですか…?」
声が少し震えていた。
泣いているのかもしれないと、劉善は細い肩をみて思った。
ただ、頭とは別のことを口では話していた。
「子供が作れないと決まったわけじゃないでしょう」
そういって、ベッドサイドに近寄る。
「劉善…?」
気配に美阿が肩越しに振り返ろうとした時には、劉善はのりあがるように美阿の両脇に手をついて、見下ろしていた。
「貴方の身体は、ちゃんと子供が作れるように機能している。主治医の金は、保証してくれましたよ。出産に関しては貴方の体力次第ですが」
「…っ、それは」
「外見がそうであるだけで、貴方の下肢はきちっと機能していると」
弱々しい抵抗を見せる手をベッドにやすやすと押さえつけて、小さな唇を塞ぐ。
「…ん…っ」
苦しげに漏らされた声に、情欲が刺激され啄むように口づけて、唇を割る。
舌を割り込ませると、美阿はびくりと身体を震わせた。
それでも構わずに口腔を蹂躙し、舌を絡めて吸うと、小さく喘ぐ声が漏れた。
キスしながら、劉善の手が美阿の身体をなぞり、掛布をまくりあげた。
柔らかな胸から、腰に。そして、下肢にたどりつく。
「…んん…ゃ!」
今度こそ美阿は涙声を上げた。
「いや!」
はっきりとした悲鳴。
劉善は身体を起こした。
「いや、劉善、離して…っ、こんな…」
掛布をまくりあげ、夜着が膝までまくりあがっていた。
そこにはおよそ可憐な美しい女性の足とは思えない物がのぞいていた。
獣化した狼の足。
彼女の下肢は、二度と人間のものには戻らない。
そういう病。
「こんな姿…見ないで…ゃ」
ほとんど子どもほどの力もない、ほそい腕が必死で劉善を押しのけようとしてもがいている。
ねじ伏せるのは簡単だった。
だが、劉善は胸の奥からせり上がってくる苦いものを飲み下して、必死に押しのけようとする美阿の手をとり、口づけた。
「すみません」
低く呟く。
「許して下さい。乱暴をするつもりはなかったんです。美阿」
何でも、細い指に、小さな爪に口づけて許しを乞う。
小さくしゃくりあげていた美阿の声が、やがて小さく細くなると、劉善の手の中から指がすり抜けていった。
自らで必死にめくれた夜着をなおし、劉善の目から隠そうとしている。
その上から、劉善は掛布を再びかけ直した。
「ひどい…劉善」
消え入りそうな声で叱責されて、劉善は打たれたように頭を垂れた。
「すみません」
もう一度呟く。
だが、美阿は背中を向けたまま動かなかった。
「また、来ます」
「…もう、来ないで」
美阿の震える声に、劉善は答えなかった。
「美阿、私は貴方の婚約者で賛美者で、奴隷です。貴方の望みならなんでも叶える。ですが、貴方の前から消えろと言う望みにだけは従えません」
美阿の答えはなかった。
「また来ます」
もう一度そう告げて、部屋を出る。
重い扉を閉じて、ため息をつく。
あんなことをするつもりはなかった。
ただ美阿があんなことをいうから。
あのバカ二人が来なければ、美阿だってあんなことを言いださなかった。
そこまで思って、うんざりする。
そんなことはない。
あの二人のせいにするのは間違いだ。もうずっと以前から、美阿は何かにつけて劉善を遠ざけたがっていた。
『もう以前の私ではないのです』
哀しそうに告げる美阿。
ある事故をきっかけに身体が極端に弱くなり、獣化した下肢は元に戻らなくなった。
それでも劉善のたったひとりの人に変わりはないと、あれほど言っているのに美阿は頑なに劉善を拒んだ。
『貴方に、こんな姿を見られるのは耐えられない』
何百回と告げられたが、納得できなかった。
美阿は思い違いをしている。
美しい容姿に魅かれたのは否定しない。だがそれだけではないのだ。
小さな頃、この少女と自分は結婚できるのだと告げられた時、どれだけ嬉しく誇らしかったか。
一族が誇る巫女姫。
美しく慈愛に満ちた少女。
どんな偏屈な人間でも、彼女に心を溶かされない者はいなかった。
だが、彼女に降りかかった不幸な交通事故が彼女を変えてしまった。
優しく慈愛に満ちた心は変わらなかったが、一人の女性として劉善の愛に応えてはくれなくなった。
どれほど希っても、劉善を受け入れてはくれない。
それでも諦めきれない。
階下のオフィスでは、まだ仕事が山積みに残っている。
仕事に戻らないと。
そう思ってエレベーターに乗り込んだ。壁に設置されている鏡の自分と目が合って、自嘲した。
ひどい顔だ。
それでも休むことはできない。
オフィスに顔を出すと、机の上に乗っていた書類をひとまとめに、奥の凱月の部屋をノックする。
「失礼します」
「どーぞー」
明らかに飽きているという声の凱月の返事を合図に、扉を開けて入って行く。
「失礼します。昨日までに来ていた文書で目を通してもらいたいものと、承認をいただきたい書類です。ご確認を」
「はーい。…調子どう?」
「は?」
「お姫様」
頬杖をついたまま、書類に視線を落とした凱月の言葉に、応える。
「黒江たちがきて少しはしゃぎすぎて疲れたんでしょう。すぐに横になって休むと」
「そう」
そういって、書類を机の上に置く。
「アンタも少し休んだら?」
「いえ、私は…」
「お姫様を守る騎士が、そんな顔色じゃ頼りなく見えるわよ」
そう言って、両手をあげて背筋を伸ばす凱月に、劉善は苦く微笑んだ。
「騎士なんて、立派なもんじゃありませんよ、私はただの奴隷です」
珍しく無駄口を叩いたせいか、凱月が意外そうな顔をした。
「なんですか?」
「いや、自覚あったんだなって」
「は?」
「関白っぽいけど、あんたって実はドMよね」
「……。凱月、実はこちらにも承認していただきたい書類の山が…」
「ちょっと、そういうのヤツ当たりっていうのよ!?」
凱月が余計なことをいうんじゃなかったとぶつぶつ言いながら、書類の山をより分けている横で、劉善は深くため息をついた。




