Act10
成田空港から飛行機で4時間。
降り立ったのは、マカオ国際空港。
「マカオって…中国?」
「正確には特別行政区な」
「なにそれ?」
「本国とは別の行政自治で、独自の法律があったり、香港なんかもそうだけど…結子、お前、本当に現役高校生か?」
「悪かったわね」
そっぽを向くと、大きなため息が聞こえた。
中国行きが決まって以来、ずっとこんな感じだ。
一緒に行動していてもぎくしゃくして、しばらくまともにクロの顔みてない。
ここしばらくのくせで、横からクロの顔を盗み見る。
『今のお前に話しても理解できると思えないし』
……どうせ、バカだもん。
頭悪いし、なんにも知らないよ。
特別行政区も知らないしね!
「…何、睨んでんだよ」
「睨んでない」
売り言葉に買い言葉。
不機嫌を隠そうともしないで言うと、黒江が鼻白んだ顔をした。
「言いたいことがあったら、言えば?」
「だからなんでもないってば。それより迎えの人がいるんじゃなかったっけ?」
そういうと、黒江が周囲に視線を走らせる。
「来るはずなんだけど……、いない。待ってんの面倒だから先に行くか」
タクシー乗り場に行こうとする黒江の腕を引く。
「そんな勝手なことしたら、まずいって」
「知るかよ。だいたいフェリーとタクシーで行けばすぐに着くのに」
「出迎えの車待って、わざわざ遠回りなんてムダだろ」
「でも、それじゃせっかく迎えに来てくれる人に悪いよ。もう、子供みたいなこと言わないで……っ」
「その通りだ。図体のでかいガキか」
横から口を出されて、そちらを向くと劉善が立っていた。
相変わらずかっちりとしたスーツに長髪。切れ長の目は威圧感がある。
「劉善さん」
黒江はあからさまに嫌な顔をしている。
劉善も嫌な顔をしているのでお互い様だけど。
不機嫌な二人に挟まれる形で、黙っているのも気まずくて、劉善に小さく頭を下げた。
「……お久しぶりです」
うわー……、あの追いかけっこ以来、何度かすれ違うくらいに顔を合わせてはいるけど、微妙に気まずい。
黒江は仏頂面のままだ。
「お前かよ」
「お前とはなんだ。年長の者には敬意を払えと、いつも言っているだろう」
「ご託はいいから、さっさと車出せよ。どこのホテル?」
「今回ホテルは取ってない。本家に直行するぞ」
黒江がその言葉に、あからさまに舌打ちする。
劉善は、そんな黒江を横目に歩き出す。
「張大人が来ているぞ」
「……ふうん」
「それだけか?」
「別に。他に何言えばいいんだよ」
その後、二人で早口で話していたけど、聞き取れなかった。どっちにしろ中国語というだけでお手上げなのだけど。
空港からは劉善の運転する車で移動した。
「フェリー使えば20分なのによ」
ぶつぶつと文句を言うのを、あえてスルーする。
機嫌が悪いのはお互い様だった。
車が空港から離れると、そこには予想よりも遥かに綺麗で、外国の匂いのする町並みが広がっていた。
おもいっきり見覚えのある世界遺産を横目に通過する。
カテドラルを横目に通過した後には、アジア風の赤い枠に綺麗な色のお守りみたいな飾りがたくさん飾ってある場所があった。
アジアの色をしているけど、欧州の匂いもする。
不思議に美しい異国の風景に、不機嫌だった気持ちもすっかりどこかにいってしまった。
「…クロは」
「ん?」
窓の外ばかり見ていたし、独り言の様な呟きだった。
なのに、クロから返事があったのが意外だった。
「……小さい頃、ここに住んでたの?」
クロの方を見ないまま聞く。
「いや、オレは香港。ここは本家の、……親戚の爺様たちが住んでるトコ」
「ふーん…」
呟きながら、最後までクロの方を向かなかった。
クロの表情を知るのが、なんとなく怖かった。
***
「どうした?」
「なんか…ホテルみたい」
さっき劉善さんがフロントみたいな所に行くと、係の人が全部荷物持ってくれて、今部屋の準備をしているからと言って待たされていた。
はっきりいって誰かの家に来たと言うよりは、ホテルに泊まりに来た感じ。
でもクロは慣れているみたいだった。
「10階より上は居住区というか、ゲストルームとか、大広間とかになっているからな」
「下は?」
「関連会社のオフィスつっても…、ほとんど稼働してんだか、どうだか…」
「それってどういう…」
意味と聞こうとして、
いきなり背後から抱きつかれた。
「結子ちゃん、久しぶりー!」
「うわ!?」
振り返ると、凱月だった。今日はスーツじゃなく、シャツのAラインのスカートだったが、相変わらず10センチはありそうなヒールを履いている。
「元気だった?」
「はい」
1週間くらい前にも会って、元気?ってこともないと思うけど……。
「来るのが遅いから心配しちゃった。さささ、こっちよ」
手をぐいぐいひっぱられて、足をもつれさせながらもついていく。
「どこ、え?どこに行くんですか!?」
「決まってるじゃなーい。今晩のお食事会の為の衣装選び♪」
「ええ?」
「黒江。結子ちゃんの支度してくるから、アンタは適当にやってなさい」
攫われるようにして引っ張られながら、肩越しに振り返ると、クロはやれやれみたいに肩をすくめて、こちらに背中を向けていた。
それからホテルの控室のような部屋に連れて行かれて、大きなワードローブに大量に収まっているドレスを見せられる。
「さあて、結子ちゃん。どんなのが着たいー?今日はそんなに畏まった席じゃないから、 こんなかわいいのとか、どう?」
シフォンの飾りのついた緑の膝丈ドレスをあてがわれて、しどろもどろに答える。
「いえ、あの…」
「あ、あんまり好みじゃなかった?一応いろいろ用意しておいたんだけど……、うーん、それじゃあ、好きな色とかある?」
いつもの通り、マイペースな凱月さんだが、これからのスケジュールもわかっていないのに、ドレスを選べと言われても困る。
「凱月さん」
「なあに?」
「ちょっと、待ってください。私、訳わかんなくて…あの」
自分でも情けない声だと思うが、それしか言葉が出てこなかった。
歴史のありそうな、立派な建物。
私物だというが、ホテルのフロントみたいなフロアがあり、内装もまたゴージャスだ。
揃えられた家具は、素人目にも高級そう。
「ここって…?」
「ん?…ぁあ、まあ、私の書斎というか…プライベート・ルームみたいな。自分の会社の事務所は、また別にあるんだけど」
「…会社?凱月さん、もしかして社長さんとかなんですか!?」
「ん?…うん、まあ平たく言えばそんな感じ」
「…はぁ」
もう常識とかじゃなくて、世界が違う。
この部屋に来るまでに、たくさんの人が働いていて、それがいちいち自分|(というか凱月さんに)に丁寧に頭を下げてくれた。
みんな慣れている。
さっきまで一緒だったクロでさえ、平然としていた。
「なんか、私…」
身の置き場がない。
それをなんと言って伝えればいいのか。
「慣れればなんてことないわよ」
まるで、言葉の先を読まれたように言われて、はじかれたように顔を上げてしまった。
「貴方にとっては、こんな非日常いきなりつきつけられても…、なんて思うかもしれない。でも、そのうち慣れるわ。…いえ、慣れないとね」
きっぱりと言い切られて、思わず視線が下がる。
「貴方は黒江の伴侶になるんだから」
「…ぁ」
「今さらながら実感したって顔してるわね。でも、もう引き返せないよ。あの時、貴方が選んで、貴方が決めたんだから」
確かにそうだ。その通りなんだけど。
自分の知らない世界に、一人だけぽつんと放り出されたようで。
「…いきなり、あの中に放り出されるのは気の毒だと思うから、一応、教えておくわね」
顔を上げると、いつもの強気な笑顔とは違う、気遣う様な表情に、少し驚く。
「え、あの中って?」
「私たちの一族」
そういうと、凱月は声を心持ち低くした。
「黒江の一族の中での立場は、相当微妙なの」
「あの子の出自がね、ちょっと複雑だから。一族の中には、あの子をよく思わない人間もいる。覚えておいて。貴方の行動一つで、黒江の立場はさらに悪くなる可能性もあるの」
「そんな…」
そんなこと言われても。
どうすればいいのかわからない。
「どうすれば…どうしてれば、いいんですか?」
「んー?テンプレートがあるわけじゃないけど、とりあえず好印象をもたれるように努力するのが、無難で賢い選択でしょうね」
「こ、言葉もまだよくわからないのに」
半べそになりかけて言うと、凱月さんは頭を撫でてくれた。
「まあ、そこはそれ。…そうねえ、こういうとき、言葉がわからない方が、かえって得かもね」
「場の雰囲気読んで、にこにこ笑っているか、聞いて納得しているふりするか、どっちかで」
「……難しいです」
もともと何でも顔に出る方なのに。
確実に挙動不審になるのは、目に見えている。
「頑張って。私もできるだけバックアップするから」
苦笑からいつもの微笑みに戻って、凱月さんは再びクローゼットの扉を開け始めた。
「さ、ともかく今夜の衣装選びをやっちゃいましょう。服選んで、靴選んで、髪を整えて、化粧して…時間ないわよ!ほら、急いで、急いで」
「ええええ?!」
身内だけの集まり…っていうのは、ここでは、どうやらそういうものらしい。
***
そういうわけで4時間経過。
凱月さんだけではなく、いろんなスタッフの人達|(まさに『スタッフ』だった)、服だけではなく、髪を結ってもらい、化粧をしてもらい、爪を磨いてネイルアートまでしてもらった。
ネイルアートに関しては付け爪だ。切り過ぎてフォーマルな感じにはできないと、中国語らしき言葉で怒られた。
でも、結局爪も磨いてもらったけど。
「…こんなにきっちり化粧したの、七五三以来かも」
独り言のつもりで呟いたのに、隣にいた凱月さんにきっちり聞かれていた。
「……っ…そう」
身体を二つ折りにして笑い転げる凱月さんに、ちょっと拗ねたような気持になる。
「あの、私そんな面白いこと言いました?」
「いや、面白いというか、…あんまり可愛いいこというから…、今どきの高校生は、化粧して学校行くんじゃないの?」
「誰でもみんな化粧して、学校行くわけじゃないですよ」
そんな時間があったら寝ていた方がいい、という人もいる。
わたしだ。
「あ」
「なに?」
「クロに見られたら…なんか言われそう」
「かわいいとか?」
「違います。褒めてなんてくれないです、多分」
絶対、『馬子にも衣装』的なこと言われて、鼻で笑われるに決まっている。
「そうかなあ」
「そうです」
「じゃ、実際会って確かめてみようか」
いたずらっぽく笑うと、凱月の後に続いて部屋を出た。
***
エレベータを使って移動する。
目的の階に降りると、目の前にフロアが広がり、廊下が三つに分かれている。
「今日は一番奥の、小さい部屋ね」
「っていっても、日本の結婚式場のナントカの間くらいはありそうですよね」
「ん?」
「あ、いえ、なんでも…」
言った時に、廊下の奥に人影が見えた。
「黒江」
あ、クロだ。
思った瞬間に、ちょっと驚いた。
スーツ着ている。
そうだよね、正装しなくちゃいけなんだから、当たり前か
当たり前だけど…。
意外に様になっていて、びっくりした。着慣れている感じがする。
「それじゃ、黒江。あとでね」
「ん」
結子を黒江に引き渡したら、自分の役目は終わったとばかりに凱月はどこかに行ってしまう。
もしかしたら、これから自分の身支度を整えるのだろうか。
だとしたら、自分に時間を使わせて悪いことをしたなと、ちょっと思う。
凱月さんの背中を見送ってから、再びクロを見る。
「なに?」
「いや、スーツ着てるなぁって」
「見たまんまだな」
黒江が苦笑いするのを、まじまじと見てしまう。
「うん。…なんかいつもと感じ違う」
「そうか?制服とかわんないだろ」
ブレザーの制服と、ちゃんとしたスーツは違うと思う。
「それを言うなら、お前だろ」
言われて、どきっとする。
何を言われるかと身構えて、先に口を開いてしまう。
「こういう格好慣れないから、ちょっと落ち着かない。正直、似合ってるのかどうかもわかんないし」
黒江の表情が変わらない。なのにやたらとじっと見られている気がする。
「おかしい?」
「いや…」
言葉の続きがあるのかと思って待っていたが、クロはふと広間のほうに視線を移した。
「そろそろ、行くぞ」
軽く背中をおされて、よろけてしまう。
「大丈夫かよ?」
「靴が、ヒールが高くて」
そういうと、あからさまにため息をつかれた。
「……しっかりしろよ」
「だ、大丈夫だよ!」
つま先に力を入れて、できるだけ背筋を伸ばす。
黒江は『やれやれ』とばかりにため息をついたが、そのままかるく腰に手を回された。
びっくりしてまた足を踏み外しそうになったけど、支えてくれていると気がついたので、されるがままになっておく。
恥ずかしいけど、助かる。
「結子」
「なに?」
「そう、長い時間じゃないから……、我慢しろよ」
腰を支えていることかと思ったけど、先ほどの凱月の言葉が思い出されて、もしかして食事会のことかもしれないと、ぼんやりと黒江の顔を見上げた。
***
食事会は、これも予想通りと言うか、食事をしていると言う気はしなかった。
丸テーブルにずらりと、いかにも偉い人っぽいお年寄りやら、壮年の男の人やらが並び、その隣にその奥さんらしき人もちらほらいた。凱月さんや劉善さんもいたが、少し席が離れていた。
「今宵は黒江の婚約者もきておる。みな、言葉のわかる者はなるべく、日本語か或いは英語で話すようにな」
食事会の最初に、一番偉いらしいおじいさんがそう行った時は、本気で心臓が爆発するかと思った。
『針のむしろ』と言う言葉を、実感する日が来ようとは。
でも、こちらの気持ちとは裏腹に、食事会は表面上和やかに進んだ。
いろんな人に些細な、妙に持って回ったような質問をされて|(しかもほとんどの人が、日本語ができるらしく、聞き取れなかったふりもできない)、内心四苦八苦しながら、なんとか答えた。
「そうそう。ねえ、結子さんは、御幾つになられるの?」
「じゅ、17です」
「日本に住んでいるということだったが、誰かの遠縁だったかね?」
「いえ、あの…私は…」
口ごもると、黒江が助け船を出してくれた。
「結子は我らの一族とは、まったく無関係です」
いつもの子供っぽい話し方や雰囲気がなくて、別の人みたいだったし、広間に入ってから全然目を合わせてくれないけど、ちゃんと助けてくれたことに少しホッとする。
「まあ、ならどうやって知り合ったの?」
「私が子供の頃、日本に行った時に偶然に」
「では、彩香さんの血筋と言うわけでもないわけね」
「そうですね」
質問は後から後からされたが、少しずつなんだか胸の奥に何か、重いものがたまっていくようだった。
なんとなく、すごく嫌な感じだ。
『まったくの他人』というのは、それほどにいけないことなのだろうか。
凱月さんや、劉善さんの口にする『一族』と言う言葉が不意に重さを増した。
人狼であるということ。
その秘密の為に、こんなに血族であることにこだわるんだろうか。
場違いなところに来てしまったという恐怖がまた、湧きあがってきた。
「そういえば若いお二人に、ぜひともお聞きしたいと思っていたのだが」
突然、近くから声が聞こえてびっくりした。
見ると、声の主は自分の右隣の人の、さらにその隣に座った三十代半ばくらいの男の人だった。
堂々とした如何にも仕事ができそうな『実業家です』と、看板でも背負って歩いているような、それくらいの分かりやすさ。
その人が黒江と結子を交互に見て、
「答えていただけようか?」
まるで芝居のセリフの様に言った。
どうしていいのかわからずに、クロに視線を移すと、伏し目がちなクロが、静かに答えた。
「私でわかることでしたら……、張大人」
一拍置いた返事に、なんだか胸の奥がざわつく。
空港で聞いた名前だ。
「お二人は確か三か月前に、誰の助けも借りずに、婚約の儀式を済まされたそうだが」
「はい」
「その勇気は愛情に裏付けされてのものということか、それとも若さゆえの無謀…いや、思い切りの良さというべきかな」
響き渡る声に、意味は分からなくてもいやらしさを感じた。
「無謀と断じられても、まだ若輩の私には返す言葉もありませんが」
いつもなら考えられないような、クロの淡々とした口調に漠然と不安になる。
「若輩といえど、長老会でも認められた第二継承者。謙遜はかえって嫌味になるぞ。ここは勇気と強い精神力……、それに何より愛情に基づいてと、声高に言ったらどうかね?」
…なにそれ、感じ悪い。
クロが『若輩』ってところ、否定もしないし。
心の中で、むっとしながら呟いた途端に、いきなりこっちを向いた張大人と目があった。
「…っ…」
値踏みするような視線に、ぞっとする。
「なあ、見たまえ、諸君。あの花嫁の初々しくも、美しい肌を……柔肌に食い込む爪の跡どころか、こうして見る限り傷一つない」
けしかける言葉に、その場に居合わせた人間のほとんどの視線が、一斉に自分に集中した。
無意識に、びくりと身体を震わせる。
「婚礼の夜、あの可憐な花嫁と徒人のごとくただ睦み合うだけで済ますなど、人狼の我々にとってはどれだけの苦痛か」
「確かに、強靭な自制心ですな」
「まったく。黒江も大したものだ、柔肉に牙を立てる誘惑に打ち勝ったのですからな」
浴びせられる言葉の気持ち悪さに、唇を引き結ぶ。
自分に向けられる視線のどれもが、どこか粘つくような嘲笑と好奇心に満ちてる。
明朗な口調の張大人も、どこか侮蔑が混じった嘲弄するような目を向けているのがわかる。
なんなのよ、この人たち。
辱められたなんて、そんな大げさにいうつもりもないけど、イヤラシイ目でじろじろ見られるのは、電車で痴漢にあっている程度にはムカついた。
悔しくて頭にきて、思わずクロの方を見る。
ちょっとアンタの親戚どうなってんのよ!?
睨みつけて、心の中でそう怒鳴ってやるつもりだった。
……そのつもりだったけど。
一瞬だけ目が合った。その瞬間、胸の奥に渦巻いていた怒りがしぼんでしまった。
それまで無表情だったクロの目が、
一瞬だけ、すごく困ったように眇められた。
「……。」
ほんのちょっと前、凱月さんが言っていたことの意味が、今になって本当にわかった。
我慢、しなくちゃいけないんだ。
なんだか丸裸で座らせられている気持ちになったって、
ふざけるな、セクハラジジイって席を立ちたくったって。
我慢するしかなかった。
だってクロも、本当はすごく我慢してるんだ。
どんな事情があって、どんな気持ちを押さえているのかわからないけど、でもそれはすごくわかった。
それくらいわかるから、私だってこれくらい耐えられなくちゃダメなんだ。
「張大人」
そのまとわりつくような、時に刺すような周囲の視線を、さえぎるような声が響く。
「猥談なら後で、男性同士でなさったら?ご婦人も同席していましてよ」
口もとは微笑み、声も穏やかだが、凱月さんの視線は鋭かった。その声に、周囲の人間も気まずそうに視線もそらされた。
でも、張大人だけはひるむこともない。
「いやいや、私としたことが。そういう意味で言ったつもりはないだが」
じゃあ、どういう意味よ?
と心の中でだけ、つっこんでおく。
それにしても凱月さんには感謝。
バックアップするという言葉は嘘じゃなかった。
「……本当に今日は珍しいこと。狡兎三窟……いえ、深慮遠謀の張大人ともあろう御方が、随分と軽薄な発言をされること」
「せっかく言いなおしてもらったが、深慮遠謀もあまり褒め言葉とはいえないと思うが」
「あら、私としましては、褒め言葉のつもりだったのですが。思慮深く、何事にも慎重であると」
「若い方たちを前に気持ちが浮き立つのはわかりますけど、あまりしつこく絡むと嫌われてしまいましてよ」
見えない火花が散りそうな言葉の応酬。まさに腹芸という感じだった。
凱月がけろっとして言うのに、張大人はこめかみに血管を浮かべた……ように見えた。
でも表面はあくまで笑みのままだ。
「……確かに、凱月が言うように、若い二人に対して、少し軽率な物言いではあったな」
張大人の声が、少し低くなったような気がした。
「だが、生粋の人間でありながら、我らの血の性の犠牲にならなかったという女性と聞くと、どうしても思いだしてしまいましてね」
ぞわりと、肌が粟立った。
張大人の一言で空気が変わった。
「しかも、その花嫁を連れてきたのは、黒江だという。これで何も感じない方がおかしいと思うが…皆さまもそうではありませんか?」
不穏な雰囲気に、周囲がざわつく。
私だけが、この人の言いたいことがわからない。いやな空気だけが、伝わってくる。
「一族の歴史において、五指に入る惨劇にして悲劇。その被害者のひとりとなった男の息子が、その時と酷似した状況に立っているというのは…」
その言葉に、場の空気が一瞬にして凍りつく。
周囲の空気が一変したのは一目瞭然だった。
「…っ…ちょっと!アンタそんなこと、この場で言う様なことじゃ…」
凱月ですら、顔色を変えていた。
騒然とする中、クロが目をつりあげて腰を浮かせたのが見えた。
怒ってるな、あれはかなり。
でも……多分。
私のほうが早い。
グラスを手に立ち上がって、張大人の澄ましたドヤ顔に浴びせかける。
「な…」
「…え?」
一瞬、全員がぽかんと口をあけて自分を見ていた。
それがわかっていたけど、そんなことはもうどうでもよかった。
顔や服から水を滴らせた張大人から視線をそらさずに、空になったグラスをテーブルに置く。
「…すみません」
「……なに?」
「だから、すみませんでした」
ぺこりと腰を折って深々と頭を下げる。
「つい、手が先に出てしまいました」
「……結子ちゃん?」
半ば呆れたような声には答えずに、顔をあげる。
「私は……何も知りませんし、貴方が何をいっているのか、よくわからなかったんですけど、でも、私の婚約者がひどいことを言われているのは、なんとなくわかりました。クロに…っん…!?」
背後から突然まわされた手に、口を塞がれる。
驚いて視線だけで背後を確認すると、劉善だった。
「この、馬鹿娘がっ。…黒江!」
そう言って耳元で叱責され、肩越しに黒江を呼ぶ。
呆然としていた黒江が、我に返ったように小さく頷いた。
周囲がざわめく中、劉善に背後から口を押さえられたまま、退場するしかなかった。




