Act1
ずっと昔。
狼を見たことがある。
金色の瞳。
大きくてしなやかな身体。
動物図鑑でみた姿にそっくりだったし、間違いないと思った。
でも、今となってはそれが本当のことなのか自信がない。
だってその子を見たのはいつもの公園だった。
住宅地の中にあるような、対して広くもない、遊具だって充実してない。
いくらそれが狼に似ていたとしても、それはきっと大きな犬というのが真相なのだと思う。
そうじゃなかったら夢でも見たのかもしれない。
***
「結子!起きなさい、遅刻するから!」
「……はーい」
1階から聞こえてくる、母親の怒鳴り声に返事をしてのろのろと起き上がる。
わりと最悪な目覚めだった。
スマホのアラームは無意識に消していたらしい。
確かに急がないと遅刻だ。
「……ん?」
新着メールが1件。
受信が夜中の2時って……、誰だろ。
アドレスはいかにも捨てアドっぽいけど。
件名:(なし)
本文:汝、狼と契りし娘。誓約を果たせ
なにこれ。
まだぼんやりしている頭で、ほとんど条件反射でスマホを操作する。
いたずらか、チェーンメールか。
……捨てアドだな、これ。
なんだか知らないけど、気持ち悪い。消しちゃえ。
「結子!いい加減にしなさい!」
母親のキレた声にパジャマを脱ぎ捨てて制服に着替えると、慌ててカバンを掴んで部屋を出た。
「ほら、早く顔洗って、ご飯食べて。もう高校生にもなって、しっかりしなさい」
「そんなに喧々いわなくて聞こえてるよ!」
テーブルについて、自分のマグにインスタントコーヒーを作る。
「……あー、なんか良く眠れなかったな」
誰にともなく呟くと、
「ああ、そうねえ。確かに眠れなかったわね」
そんなことを言いながらトーストを目の前に置いて、またキッチンに戻っていく。
「?なに」
「犬の遠吠えが、すごかったでしょう?まったくどこの家の犬なんだか」
遠吠えか。
昨日は早寝して気がつかなかったけど。
なるほど、それならあの夢を見たのもなんとなく頷ける。
トーストをかじりながら、コーヒーをすすっていると、
「結子!ほら、のんびりしていると遅刻!」と、せかされた。
「わかったよ!」
確かにぼっとしていられるほど余裕はない。
トーストの残りを無理やりコーヒーで流し込こむ。
「いってきます」
だるい身体を引きずって、家を出た。
***
バス停まで、歩いて5分。
通勤のサラリーマンや学生に交じって歩く。
夏も終わって、すっかり涼しく過ごしやすくなったせいで、かえって身体がだるい気がする。
ダメだ、眠いな。
あくび交じりに歩きながら、バス停について列の最後尾に並ぶと、無意識にスマホを取り出した。
スマホでSNSに入ってくるメッセージをチェックしながら、今朝のメールがなんとなく気になって仕方なかった。
いつもの変なバイト斡旋とかエロメールみたいのとも違う感じがした。
めっちゃ厨二くさかった。
そう思うと、誰かのいたずらかとも思える。
到着したバスに乗り込み、後ろの席に陣取る。
もし誰かのいたずらだとしたら騒いだら負けな気もするけど、ツッコまないとノリが悪いか。
「……、っと」
そんなこと考えている間に、また新着メールが入ってきた。
件名:(なし)
本文:汝、狼と契りし娘。誓約を果たせ
迎えの使者に従え
また、あのメール。
っていうか、内容が増えてる。
チェーンメール?
……とも少し違うかな。
削除しようかと思ったけど、とりあえずそのまま閉じる。
なんかこういう遊びが流行っているのかもしれない。
学校で月子に聞いてみようかな。
そう思って、スマホをポケットに入れて、小さくため息をついた。
寝不足のせいでバスの中で寝てしまいそうだった。
***
学校の近くのバス停で降りると、周囲は同じ制服を着た人間ばかりであふれていた。
「結子、おはよう」
背後から声をかけられて、振り返る。
「おはよ。月子」
ショートボブに切れ長の目。同じクラスの成島月子が、隣に並んできた。
「結子、後ろ髪ちょっとハネてる」
「うっそ。学校行ったら縛ろうかな。今日寝坊でさぁ」
肩より少し長くなってきたせいで大分落ち着いてきたけど、いまだに毛先が跳ねるのがうっとうしかった。
「あ、だから今日はクロエくん一緒じゃないのね」
「クロ?……ぁあ、私、いつものバスより一本遅れたからさー、先のバスに乗っていったと思うよ」
クロエ。
黒江は、幼馴染み。
ブランド品みたいな名前だが、本当は乾黒江という。
なんだか飄々としたやつで、随分と長い付き合いだけれど、たまに何を考えているのかわからない変な奴だ。
学校をよく休むけど、病気が理由だったことはほとんどない。
調子が良くて整った顔をしたヤツなので、女の子にはそれなりにモテてる。
モテる割には彼女ができないのは、きっとあのつかみどころのない感じのせいじゃないかと思うのだけれど。
裏門からの登校禁止のせいで、バス停からぐるっと正面に回るしかない。少し遅刻気味の時間なので足早に歩いていく子もいるけど、どうにもそういう気分になれず月子とだらだら歩いていく。
「月子、英語の予習やってきた?」
「え?やってないし」
「あたしらの席。廊下側一列、今日、当たると思う」
「ぅええ、アタシ古文の課題提出しか頭になかったんだけど」
「は?……私、古文の方が忘れてたかも。きょう提出だっけ?」
そう言いながら、スマホのスケジュールアプリを開こうとして、ふとメールのことを思い出す。
「ね、月子そういえば、昨日からメールでさ……」
言いかけて言葉を止める。
月子が変な顔をして前を見ているので、自分も正門の方に目を凝らす。
騒ぎと言うのとも違う。
異様な雰囲気。
「なんだろ?」
「事故か何かかな?……救急車とか来てないよね」
校門に近づいていくと、そこは事故とかそういうことではないのがわかった。
サングラスにダーク色のスーツ。
そんな恰好の人相の悪い男の人が、何人も立っている。
そいつらが登校してくる生徒を、一人ひとり値踏みするように見ていた。
「何あれ?ヤクザ?」
月子が軽く眉根を寄せる。
生徒たちは、練習の視線から逃れるようにそそくさと学校に入って行く。
変な感じだったが、別に自分とは関係あるとは思えない。
「……気にすることないよ。行こう」
確かに嫌な感じだが生徒に絡んでいるわけでもない。
第一、あんまりのろのろしていたら遅刻する。
通り過ぎる生徒の顔をじろじろと見ている。暴力団っていうより……マフィアとかそんな感じ?
一人がスマホで話しているのが聞こえた。
日本語じゃない。英語、も違う。
中国語?
……私には関係ない。
気にしないで、とっとと校舎に入ろう。
無意識に足早になった時
「おい、待て」
背後から声がかかった。
まさか自分じゃないよねと思ったら、もう目の前に立ちふさがれていた。
私、だ。
「諫早結子?」
フルネームで名前を呼ばれて、ぎょっとする。
「諫早結子、だな?」
もう一度言われた。
でも、それは質問と言うよりは、確認と言う感じだった。
隣にいた月子が不安そうに自分の腕に触れてきたのがわかったけど、こっちだって心当たりない。
「こちらに、こい」
たどたどしい言葉に促されて、視線を向けた先には黒塗りの外車。
「……っ」
あんな車で連れていかれる先なんて、考えるだけでもぞっとする。
でもお断りしても「はい、そうですか」って許してもらえる感じはない。
周囲の生徒たちも、こちらを遠巻きに伺われて、月子も完全に引いている。
なに、この状況。
なんで?
どうして、私こんなところでこんな怖そうな人に絡まれてんの?
つか、もしかしなくても拉致られかけてるのかな、私?
なんで?え?
心の中ではいくらでも言葉が出てくるのに、声にならない。
「ちょっと、すみません」
フリーズしたまま、月子と二人で立ち尽くしていた脇から声がかかる。
学校の中からだ。
緊張のあまりぎこちなくなった動きで、そちらに顔を向ける。
「先生」
その姿を見て、心底ほっとした。
いつもは頼りない現国の担当教師だが、さすがに生徒が門前で絡まれているのを黙って見過ごしたりしないでくれたようだ。
「うちの生徒に何かご用でしょうか?」
かなり及び腰ではあったが、間に入るように先生が来てくれて、まわりもほっとした空気が流れた。
でも、それもつかの間のことだった。
「どけ」
低い呟きが聞こえたのと同時だったと思う。
私の前にあった、先生の背中が消えた。
ガシャアアアアア……ッ!
耳を打つような激しい音に、身体を竦ませる。
「先生……!」
目の前の男が何をしたのか、一瞬、理解できなかった。
まるで虫でも振り払う様に軽く腕を振るっただけのように見えたのに、先生の身体はふっとんで校門に叩きつけられた。
騒然となる中、息を飲む。
叩きつけられた先生はピクリとも動かない。
「うそ……」
やっと声が出たのに、出てきたのはまったく役に立たない呟き。
自分が阿呆に思えたけど、頭の中が真っ白で何も思い浮かばない。
「来い」
低い呟きに、びくりと顔を上げると腕を掴まれた。
掴まれた腕から総毛だって、動けなくなった。
いやだ。絶対いや、行きたくない。
「け、警察!110番!」
誰かが叫んだ。
悲鳴をあげながら逃げていく生徒の声に、一瞬、そちらに気が逸れた。
「……っ!」
思いっきり腕を振り払う。
後になって考えても、この時、どうしてあれほどビビりまくっていたのに、こんなことができたかは謎だった。
もしかしたら火事場の馬鹿力というヤツかもしれない。
振りほどいた瞬間、踵を返して全速力で駆けだした。
「待て!」
一度走り出してしまえば止まることの方が怖い。
だいたい、待てと言われて待つバカはいないのだ。
呆然と見守っていた生徒たちをすり抜け、全速力で走る。
背後から生徒たちの悲鳴が聞こえる。
振り返ろうとして、やめた。
怖すぎる。
登校してくる生徒たちの間をすり抜けて、ともかく脱兎のごとく駆け抜ける。
伊達に陸上部で毎日走っているわけじゃない。
どこに向かっているかなど到底考える余裕もなく、追いかけられる恐怖に泣きそうになりながら、足だけは滅茶苦茶に動かした。