第2話 馬小屋にお泊りで宜しいですか?
ネルの宿屋がある学院都市は、いくつもの川に繋がる湖に囲まれた天然の要塞でもあります。
大陸のほぼ中央に位置し、整備された街道と河川を利用した物流拠点である事が、学院都市を他に類を見ない巨大交易都市へと成長させました。
でも、そもそもは「学院都市」という名前の通り、「魔導塔」と呼ばれる巨大な建築物を擁する最高研究機関「魔導院」と研究者を育成する高等教育機関「魔導学院」を中心とした学術研究都市でもあるのです。
およそ五百年前に起きた大陸の覇権を賭けた大戦争の最終決戦跡地に建てられた、戦没者の霊を慰める寺院が建立されたのが「魔導院」の始まりとされています。最初期は寺院にお参りに来る方の為に作られた施設が少しずつ大きくなり宗教都市になり、先ほど挙げた様々な要因によって、今では大陸一の都市に成長しました。
私はその学院都市で産まれ、学院都市の発展と共に成長しました。
両親は学院都市の商業区で宿屋を経営していたのですが、私が宿屋の仕事を一通り覚え、中学校を卒業した途端に「二人で畑をやるんだ!」って、田舎に帰っちゃいました。いま流行りのセミリタイアですね。そうそう、幼馴染の銀ちゃんも冒険者をセミリタイアして武器屋さんになりました。
宿屋の仕事は力仕事が多くて大変です。学院都市は四季がはっきりしていて、夏は麻混じりのワンピースでも暑いのに、冬は重たいコートを着ないといられないくらいに寒くなります。
冬場の洗濯は水が冷たくて手が荒れます。逆に、夏場のお掃除は汗だくになります。
でも、見えない所のお掃除は大切です。特に浴室と御手洗いの掃除には気を遣います。見える所だけキレイにしたって、御客様には、すぐに気見抜かれてしまいます。
良い宿屋は見えないところに気を使うのが大切だって父が言っておりました。
私の宿屋は、私一人で切り盛りしているので、一度に大勢のお客様は受けられません。
一日三組、人数にしたら十名様までの御客様が限界。それ以上の人数を取ると、売り上げは上がるけど、サービスの質が落ちてしまいます。これを本末転倒って言うのですか?
私は中学校までしか出ていませんので難しい言葉は分かりません。幼馴染の銀ちゃんは「学院」に行っていたので、とっても物知りなんです。すいません、話がずれましたね。
気持ちを込めた料理と清潔な寝室が、私の宿屋の自慢です。
学院都市は湖に囲まれていますので新鮮な魚が獲れます。私の両親が現役の頃から御世話になっている鮮魚店に、質の良い獲れたての魚を卸してもらえるので魚料理は自信を持ってお勧めしています。
学院都市を囲む湖の外は肥沃な大地が広がっています。
ジャガイモ、ニンジン、カリフラワー。大地の力をいっぱいに取り込んだ野菜は、生で食べたって最高に美味しいです。
御夕食はメニューの中から、お好きな前菜とメインをお選びいただいています。食後にはデザートとコーヒーも用意しております。別料金になりますが、お酒も用意していますよ。父が集めたウイスキーのコレクションもお楽しみいただけます。
今の時期でしたら、サーモンとキャベツのポトフ風煮込みがお勧めです。少量のウイスキーを垂らして召し上がっていただくと、サーモンの味と香りが引き立ちます。
高級商業地域に建っている最高級ホテルよりも、魚料理とお持て成しの気持ちだけなら負けていないつもりです。
両親が経営していた頃は、本館と別館がありました。私が継いでからは手が回らないので古い本館を取り壊して、比較的に新しい別館を「ネルの宿屋」としてリニューアルオープンしました。
本館の跡地は四季を感じていただける庭園に整えました。菜園も兼ねていまして、料理に使うハーブ類は私が育てているのですよ。
「ネルの宿屋」では、馬小屋が二部屋、エコノミールームが二部屋、スイートルームが一部屋、ロイヤルスイートルームが一部屋と、計六つの部屋をご用意しております。
馬小屋と言っても、本当の馬小屋では無いですよ。お食事無しの素泊まりの部屋の名前なのですが、金銭に余裕の無い旅の方や、少しでも交通費を節約したい商人の方には人気のお部屋です。内装だって、寝藁を敷き詰めただけとか思わないで下さいね。
簡易寝台が三つあるだけの小さな部屋ですが、エコノミールームの次に稼働率の高い部屋です。とにかく清潔にすることに心を砕いております。
尊い御方が馬小屋でお産まれになった故事に倣ったらしいのですが、父のネーミングセンスを疑っています。私の名前は「ネル」ですが、もしかして宿屋だけに「寝る」から名付けたのでは無いかと疑っています。
「今日、馬小屋空いてるかな?」
「馬小屋って居心地良いんだよね」
「次も馬小屋で宜しくね!」
宿屋のエントランスで大声で言われると、ちょっと恥ずかしいのと申し訳ない気持ちで、やるせない気分になります。馬小屋に代わる良い名前は無いでしょうか?
ロイヤルスイートルームは長い事ご利用が無くて残念です。
でも、いつでもお泊りいただけるように気持ちを込めてお掃除しています。お布団だって使っていなくとも必ず日に当てています。いつだってふかふかです。ふかふかのお布団は幸せを感じます。お客様が幸せを感じて頂ければ、私だって幸せです。すいません、偉そうなことを言ってしまいました。