夏
「海に行きたいな」
真夏の昼下がり、チィちゃんが急にそんなことを言い出した。あっついからあたしはバテバテで、アイスキャンディーをなめながら、えぇって、イヤそうな声を出したんだけど。
「外はあついよ? 中にいようよ」
「なっちゃん、アイス垂れてる」
言いながら、チィちゃんはティッシュであたしの口をぬぐってくれる。
「でも、海の水は冷たいでしょ? 気持ちいいよ、きっと」
ね? って、ちょっと上目遣いにおねだりされたら、それ以上はイヤだとは言えなくなっちゃう。ずるいよなぁ。
あたしはちょっと考えて、言う。
「じゃあさ、朝早くにしよっか。朝一番のお散歩」
「うん!」
チィちゃんは、パッと笑って、すっごく嬉しそうにコクンてうなずいた。なみなみの髪がフワンッて広がるくらいに、コクンって。しょうがない、こんなに喜んでくれるなら、少しくらいあついのはがまんしよう。
「明日はうんと早く起きようね」
チィちゃんはそう言うけど、あたしは早起き苦手なんだよなぁ。でも、チィちゃんの笑顔のためだ、がんばろう!
*
「なっちゃん、おきて。ほら、朝だよ」
やわらかい声と一緒に、肩のへんがポフンポフンってたたかれる。
「うう、もうちょっと……もうちょっとだけ、寝かしてよぅ」
あたしは枕を抱えてカメみたいに丸まった。と、今度は背中を揺すられる。
「だぁめ。海に行くんでしょ? お日さまが高くなったら、あっつくなっちゃうよ?」
チィちゃんは、勘弁してくれそうにない。
「ねむぅい、よ……」
あたしはぼやきながら、何とか起き上がった。けど、大きなアクビが出ちゃう。
「はい、なっちゃん、ばんざぁい」
チィちゃんに言われるままにバンザイしたら、寝巻をスポンッて引っこ抜かれた。入れ替わりで、ワンピースをかぶせられる。あたしがそでにモソモソ腕を通してる間に、チィちゃんが後ろのリボンを結んでくれた。
「はい、良く起きられました」
そう言って、チィちゃんがあたしのほっぺにごほうびのキスをしてくれる。ううう、がんばって起きなくちゃ。
「じゃ、顔洗って、ミルク飲んで、早く行こ?」
チィちゃんが両手であたしの手を引っ張ってベッドから引きずり出す頃には、何とか目がさめてきた。
それでもまだあくびをかみ殺しながら外に出てみると、ひんやりとした空気がむかえてくれる。
あたしとチィちゃんは、手をつないで海岸を目指した。
お空は、雲は一つもないけれど、真昼の真っ青よりも、ちょっと薄い色。夏の空って、何となくキラキラしてる気がするんだよね。
空気をスンと吸うと、何だか涼しいイイ匂いがする。
「気持ちいいねぇ」
思わずあたしがそう言うと、チィちゃんは「でしょ?」って、クスクス笑った。
海岸の砂浜はまだあつくなってなくて、あたしはポイポイッとサンダルを蹴り脱いだ。裸足にサラサラの砂が気持ちいい。
「チィちゃんも脱げば? 気持ちいいよ?」
「うん、まってね」
そう言うと、チィちゃんはしゃがんでサンダルを脱ぐ。そうして、あたしが散らかしたヤツとキチンと並べて置いた。
「くすぐったぁい」
一歩ごとに首をすくめて、チィちゃんがホントにくすぐったそうに笑う。
ずっと笑いっぱなしで波打ちぎわまでやってくると、スカートのすそをキュッとしばって、ぬれないようにした。でも、そんなの全然、意味がなかったけどね。
一回水の中に入ったらお互いに掛けっこが始まって、あっという間にびしょびしょになっちゃった。
息が切れるまで水をはね飛ばして、へとへとになったあたしたちは、砂浜にごろんと寝転んだ。砂がいっぱい付いちゃうけど、乾いたらすぐに落ちるし、いいや。
真上を向いているとまぶしいから、横を向いてみる。と、砂の中に埋もれた、キレイな色が目に入った。そっと掘り出すと、さくら色した、小さな貝がら。
「チィちゃん、チィちゃん」
「何?」
あたしが呼ぶのに、チィちゃんが首をかしげて起き上がる。
「手、貸して?」
そう言って差し出したあたしのてのひらに、何だろうっていう顔をしながら手を乗っけてくれる。その小さな指先に、さっきの貝がらをのせてみた。
「ほら、チィちゃんの爪みたい」
おんなじ、キレイなさくら色。小さくて、つやつやしてて、とってもよく似てる。
「さくら貝だね。きれい」
チィちゃんは貝がらを指先でつまんで、目を細めて日に透かした。あたしはいろんなチィちゃんを好きだけど、何かに見とれるチィちゃんはとっても好き。横顔を見てるだけでも、しあわせな気持ちになってくる。チィちゃんはしばらくそうやっていたけれど、ふいに、「あ、そうだ」って言って、きょろきょろ周りを見回し始めた。
「どうしたの?」
「ちょっと待ってね……あるかな……あ」
小さく声をあげたチィちゃんは、急に立ち上がるとタタッて走って行った。そんなに遠くじゃないけど。
そうしてしゃがみこんで、何かを拾うとまた戻ってくる。
「ね、なっちゃん、これ、耳に当ててみて?」
チィちゃんが差し出したのは、チィちゃんの手よりも大きな、巻貝。
「耳に?」
「そう」
チィちゃんは、ニコニコしながらあたしがそうするのを待っている。何なんだろうな、って思いながら、言われたように巻貝を耳に当ててみた。
と。
思わず耳から離して、まじまじと貝を見ちゃった。何だろう、今の。
「聞こえた?」
「……うん」
うなずいて、もう一回、耳に持っていく。
――ざざぁん……ざざぁん……
聞こえてくるのは、波の音。でも、逆の耳から聞こえてくる波の音とは、リズムがちがう。
「これ、何? 魔法?」
目を丸くして訊くあたしに、チィちゃんは澄ました顔をして、言う。
「そう、魔法。この中にはね、海が閉じ込められてるんだよ」
「うそ!」
「だって、音がするでしょう?」
チィちゃんの言うとおり、音はする。じゃあ、ホントなのかな? ホントに、海が閉じ込められてるのかな?
貝を振ってみたって、何にも出てこない。そんなあたしのやることを、チィちゃんは優しく笑いながら見てる。
「すごぉい……」
どうやっても何も出てこなくて、でも、耳に当てると波の音はちゃんと聞こえてきて。
「それはね、ずっとずぅっと、波の音を聞かせてくれるんだよ。ずぅっと、変わらないの」
本当に、魔法みたいだ。
そう思ったあたしに、チィちゃんがきゅっと抱きついてきた。
「わたしとなっちゃんがずっといっしょなのと同じで、ずっと、変わらないんだよ」
耳元でそう言われて、背中がもじもじする。ワンピースも髪の毛ももうすっかり乾いていて、チィちゃんのやわらかくてフワフワの髪があたしのほっぺをくすぐった。
『ずっと、いっしょ』
「それって、いいね。すごく、いい」
あたしはチィちゃんを抱きしめ返しながら、うなずいた。
そうして、もう一回、巻貝を耳に持ってくる。
――ざざぁん……ざざぁん……
やっぱり同じ、波の音。目を閉じて、ジッとそれに聴き入った。
この音みたく、チィちゃんもこの中に閉じ込めておければいいのに。ちょっとだけ……ほんのちょっとだけ、そんなふうに思っちゃって、すぐにフルフルと頭を振った。
「なっちゃん?」
チィちゃんが、「どうしたの?」っていうふうにあたしの名前を呼ぶ。
貝の中に閉じ込めちゃったら、こんなふうに名前を呼んでくれないもの。
こんなふうに、ぎゅっとすることもできないもの。
だから、やっぱり、これでいい。
「何でもないよ」
あたしはそう答えて、チィちゃんを力いっぱい抱きしめる。
「ちょっと痛いよ、なっちゃん」
何となく嬉しそうな声で、チィちゃんはそう言った。あたしは一回力を抜いて、また、ギュッと抱きしめた。