山奥の温泉には、人ならざる者が集う
山深く、人里から遠く離れた場所に、その温泉はあった。
どのような道を辿ってそこへ来たのか、今となっては思い出せない。ただ、気がついたときには、私は湯に浸かっていた。
目の前には、息を呑むほど美しい景色が広がっていた。天を衝くような岩壁から、白銀の滝が轟々と流れ落ちている。その水は幾重にも折り重なる岩肌を伝い、やがて一本の川となって、深い森の中へと消えていく。川の流れは不思議なほど美しかった。水が岩にぶつかって砕ける様子も、渦を巻いて淀む様子も、まるで何者かが丹念に設計した芸術作品のようだった。周囲には青々とした木々が生い茂り、葉の隙間から差し込む陽光が、水面に無数の光を散らしている。空は雲ひとつない快晴。鳥の声と、滝の音。それ以外には何も聞こえない。
私はひとり、湯に肩まで浸かりながら、その絶景を眺めていた。
こんな場所が、この世にあったのか。
そう思った。
どれほどの時間が経っただろう。
ふと、背後に気配を感じた。誰かが入ってきたらしい。
振り向くと、湯船の端に一匹のリスがいた。リスは小さな身体を湯に沈め、まるで人間のように温泉を楽しんでいる。
私はしばらく、その奇妙な光景を眺めていた。
山奥の温泉なのだから、動物が入りに来ることもあるのだろう。不思議ではあったが、不快ではなかった。むしろ、微笑ましくさえあった。
そろそろ上がろうか。
そう思って反対側へ身体を向けると、今度は猿がいた。こちらも湯に浸かっている。
しかし、何かがおかしい。
猿にしては、身体が妙に細い。腕が長すぎる。顔も、どこか人間に似ている。
私は目を凝らした。そして気づいた。
それは猿ではなかった。
人間でもなかった。
人間の形をした、何かだった。
骨と皮ばかりの身体。両腕は常人の倍ほども長く、湯の中へだらりと垂れ下がっている。顔には鼻があり、口がある。しかし、目がない。目のあるべき場所には、ぽっかりと二つの穴が開いていた。暗い空洞の奥に、何があるのかはわからない。
私はしばらく、その存在を観察した。
相手はこちらを襲うでもなく、威嚇するでもなく、ただ静かに湯に浸かっている。
奇妙な生き物だ。
そう思った。
そのときだった。
背後から、複数の足音が聞こえてきた。
振り返ると、大勢の人影が温泉へ向かって歩いてくるところだった。
男もいれば、女もいる。老人も、子供もいる。
手を取り合って歩く男女。小さな子供を連れた夫婦。数人で談笑する若者たち。どうやら団体客らしい。静かだった温泉が、にわかに賑やかになった。
ずいぶん混んできたな。
私は湯船から立ち上がった。そして、彼らとすれ違った。
そのとき、初めて彼らの姿をはっきりと見た。
誰もが、ひどく痩せこけていた。肋骨が浮き上がり、皮膚は骨格に張りついている。腕は異様に長く、指先は膝よりも遥か下まで伸びていた。
そして、誰にも眼球がなかった。眼窩には暗い穴が開いているばかりだった。
身体にはもう一つ、奇妙な特徴があった。
男にも女にも、性器がなかったのである。
あるべき場所は滑らかな皮膚に覆われ、最初から何も存在していなかったかのようだった。
それでも、彼らには男女の区別があった。老人と若者の区別もあった。そして、子供がいた。
彼らは互いに言葉を交わしていた。しかし、その言語は私の知るどの言葉とも異なっていた。
低く唸るような声。水が泡立つような音。ときおり、甲高く擦れるような響きが混じる。意味はまるで理解できない。
ただ、一つだけ。
「ハラワタ」
その言葉だけが、はっきりと聞き取れた。
誰が口にしたのかはわからない。何を意味するのかもわからない。
人間の内臓。
そんな言葉が、なぜ彼らの会話に混じっているのだろう。
私は彼らを見た。
彼らは楽しげだった。
子供は大人のそばに寄り添い、夫婦らしき二人は並んで湯へ入っていく。老人はゆっくりと岩に腰掛け、若者たちは互いに何かを話している。誰も私を気に留めない。少なくとも、敵意は感じられなかった。
私は何も言わず、彼らの間を通り抜けた。
騒ぐ必要はない。彼らが何者であろうと、私に危害を加えようとしているわけではないのだから。
温泉を出る直前、もう一度だけ振り返った。
青い空。白銀の滝。陽光に輝く川。
そして、その絶景を眺めながら湯に浸かる、眼球のない人々。
彼らは、ごく当たり前のようにそこにいた。まるで、何十年も前からそうしてきたかのように。
私はその光景をしばらく眺めた後、静かに温泉を後にした。
彼らが何者なのかを知りたかった。あの美しい景色を、もう一度見たかった。ただ、それだけだった。
今でも、あの言葉だけは覚えている。
――ハラワタ。




