僕らの知らない時間
——事件から7日前——
朝から、雨が降っていた。
窓の外を眺めながら、神崎蓮はため息をついた。
「最悪だな」
今日は体育がある。
しかも、一時間目。
昨日の天気予報では曇りだったはずなのに、朝になってみれば、空は見事なくらい灰色だった。
蓮は制服のネクタイを適当に結び、鞄を肩にかける。
「行ってきます」
玄関から声をかける。
返事を待たずに靴を履いた。
外に出ると、雨は思ったより強かった。
傘を開く。
スマホを見る。
七時四十三分。
いつもなら、もう学校に着いている時間だった。
そのとき、メッセージが届いた。
『遅い』
橘恒一からだった。
蓮は笑った。
『まだ家だけど』
すぐに既読がつく。
『知ってる』
『なんで』
『窓から見えてる』
蓮は思わず後ろを振り返った。
少し離れた場所に、恒一が立っていた。
黒い傘。
制服。
いつもの鞄。
そして、いつもの眠そうな顔。
「お前、何してんの?」
「待ってた」
「何分?」
「二十三分」
「怖っ」
「お前が遅いだけ」
「お前が早すぎるんだよ」
恒一は笑った。
蓮も笑った。
それだけだった。
いつもの朝。
いつもの会話。
いつもの二人。
学校までの道を並んで歩く。
「今日、体育なんだっけ」
「バスケ」
「最悪」
「お前、バスケ好きじゃん」
「好きと上手いは別」
「俺は?」
「お前は下手」
「即答すんな」
くだらない話をしながら歩く。
学校に着くころには、雨は少し弱くなっていた。
二人で昇降口に入り、靴を履き替える。
「そういや蓮」
「ん?」
「昨日の宿題やった?」
「……」
「やってないな」
「お前は?」
「やった」
「見せて」
「嫌」
「親友だろ?」
「親友だから嫌」
「意味分かんねえ」
教室に入る。
何人かが二人に声をかける。
「おはよ」
「おはよ」
恒一は軽く手を上げる。
蓮は自分の席に座った。
恒一の席は少し離れている。
それでも休み時間になれば、いつの間にかどちらかが相手のところへ行く。
それがいつものことだった。
昼休み。
二人は教室の後ろで弁当を食べていた。
「今日帰りどうする?」
「どっか寄る?」
「雨だぞ」
「だから?」
「濡れる」
「傘あるだろ」
「そういう問題じゃない」
蓮は笑った。
「じゃあ帰る?」
「うん」
恒一は弁当箱を閉じた。
そのとき、ふと窓の外を見た。
雨はまだ降っている。
「なあ」
「ん?」
「蓮ってさ」
「なに」
「俺のこと、どれくらい知ってる?」
「急だな」
「いいから」
蓮は少し考えた。
「好きな食べ物は?」
「カレー」
「嫌いな食べ物」
「トマト」
「好きな教科」
「ない」
「嫌いな教科」
「全部」
「趣味」
「特にない」
「休日何してる?」
「寝てる」
「家族構成」
「母親と妹」
「好きな音楽」
「その質問いる?」
「いる」
「……最近はロック」
「へえ」
蓮は少し笑った。
「結構知ってるだろ」
「まあな」
「じゃあ俺は?」
「何?」
「俺のこと、どれくらい知ってる?」
「だいたい」
「だいたいって何だよ」
「お前のことなら、だいたい分かる」
蓮はそう言った。
恒一は何も言わなかった。
ただ、少しだけ笑った。
「そっか」
「何だよ」
「いや」
恒一は窓の外を見る。
「……じゃあ、いいや」
その言葉の意味を、蓮は深く考えなかった。
放課後。
雨は止んでいた。
二人は駅とは反対方向の道を歩いていた。
特に用事があるわけではない。
いつもの帰り道だった。
「コンビニ寄る?」
「寄る」
「何買う?」
「アイス」
「寒いのに?」
「アイスは別」
「意味分かんねえ」
コンビニに入る。
恒一がアイスを選んでいる間、蓮は雑誌を眺めていた。
五分ほどして、恒一が戻ってくる。
「決めた?」
「うん」
「何?」
「秘密」
「なんでだよ」
「食べてからのお楽しみ」
「自分で買ったものなのに?」
二人は笑った。
コンビニを出る。
空は少しずつ暗くなっていた。
交差点で信号が赤になる。
二人は立ち止まる。
車が何台か通り過ぎる。
恒一が突然言った。
「蓮」
「ん?」
「もしさ」
「うん」
「俺が明日から学校来なくなったら、どうする?」
「は?」
「だから、学校来なくなったら」
「普通に心配するだろ」
「どれくらい?」
「どれくらいって……」
蓮は笑った。
「探すだろ」
恒一は黙った。
「なんで?」
「いや」
恒一は前を向いた。
「聞いただけ」
信号が青になった。
二人は歩き出す。
しばらくして、恒一が言った。
「じゃあさ」
「何?」
「もし俺が、誰かに何か言われても」
「うん」
「気にしないで」
「何それ」
「なんでもない」
「絶対なんかあるだろ」
「ないって」
恒一は笑った。
その笑顔が、なぜか少しだけ無理をしているように見えた。
でも蓮は、それ以上聞かなかった。
家に帰る。
夕食を食べる。
風呂に入る。
宿題をする。
スマホを見る。
午後十時四十六分。
恒一からメッセージが届いた。
『今日のこと、誰にも言わないで』
蓮は眉をひそめた。
『今日のことって何?』
既読がつかない。
もう一度送る。
『おい』
既読がつかない。
そのまま数分待つ。
返事は来なかった。
蓮はスマホを置いた。
きっと明日聞けばいい。
そう思った。
いつもそうだった。
分からないことがあっても、明日になれば聞ける。
今日話せなかったことも、明日話せばいい。
だから、その夜の蓮は何も知らなかった。
また明日が当たり前では無いことを。
この日から始まる出来事を、蓮が一生忘れられなくなることも。
何も知らないまま。
蓮は眠った。
——事件から3日後——
事件が起きてから、三日が経った。
それでも、朝は来る。
目覚ましが鳴って、制服に着替えて、朝食を食べる。
学校へ向かう。
昨日までと、何も変わらない。
――変わらないはずだった。
教室のドアを開ける。
「おはよう」
何人かの声が聞こえる。
いつもなら、その中に恒一の声もある。
僕の姿を見つけると、
「お、遅かったじゃん」
とか、
「今日の一時間目なんだっけ?」
とか。
くだらないことを言ってくる。
でも。
今日は、ない。
いや、今日もない
窓際の後ろから二番目。
恒一の席は、三日間ずっと空いたままだ。
僕は自分の席に鞄を置いた。
それから、何となく恒一の机を見る。
机の上には何もない。
椅子もきれいにしまわれている。
誰かが使った形跡すらない。
事件が起きた日の朝も、ここには恒一がいた。
それを最後に。
恒一は学校に来ていない。
いや。
正確には。
学校に来られない状態になっている。
そのことを、僕は三日前に知った。
放課後、学校から帰ろうとしていたときだった。
担任に呼び止められた。
『神崎。少し話がある』
先生の表情を見た瞬間、何かがおかしいと思った。
そして聞かされた。
恒一が帰宅していないこと。
家族が警察に連絡したこと。
学校にも連絡が入っていること。
警察が捜索を始めていること。
最初は、何を言われているのか理解できなかった。
だって、その日の朝まで普通だった。
いつも通り話して。
いつも通り笑って。
いつも通り学校へ来ていた。
それなのに。
その日の夜には、恒一はいなくなっていた。
翌日になっても。
その次の日になっても。
帰ってこなかった。
そして今日。
三日目の朝になった。
「神崎」
声をかけられて振り返る。
クラスメイトの佐藤だった。
「……大丈夫?」
「何が?」
「いや……」
佐藤は恒一の席を見る。
「橘のこと」
「……うん」
それ以上、何も言えなかった。
事件が起きてから、クラスの空気は少し変わった。
誰も大きな声で恒一の名前を出さない。
先生も必要以上に話さない。
昨日は警察が学校に来ていた。
恒一の友達や、普段よく話していた人たちに話を聞いていたらしい。
僕も聞かれた。
何を話していたのか。
最後に会ったのはいつか。
最近、変わった様子はなかったか。
恒一が何か悩んでいなかったか。
何度も聞かれた。
そのたびに、僕は答えた。
「分かりません」
本当に分からなかった。
少なくとも、そのときまでは。
僕は席に座った。
教室の時計を見る。
八時二十七分。
もうすぐ朝のホームルームが始まる。
先生が教室に入ってきた。
「席について」
みんなが自分の席へ戻っていく。
先生は出席簿を開いた。
「神崎」
「はい」
「佐藤」
「はい」
一人ずつ名前が呼ばれていく。
そして。
「橘」
返事はない。
分かっている。
返事がないことなんて。
それでも。
その名前が呼ばれるたびに、胸の奥が少しだけ重くなる。
先生は少し間を置いてから、出席簿に何かを書き込んだ。
そのまま次の名前を呼ぶ。
まるで。
恒一がそこにいないことが、もう当たり前になってしまったみたいだった。
授業が始まる。
黒板に文字が書かれていく。
先生の声が聞こえる。
シャーペンが紙を擦る音。
ページをめくる音。
いつもと同じ学校の音。
なのに。
何か一つ欠けている。
僕は無意識に、恒一の席を見る。
そこには誰もいない。
もちろん。
恒一の席は僕のすぐ隣だったわけじゃない。
それでも、学校にいるときはいつも近くにいた。
休み時間になれば話しかけてきた。
昼休みになれば一緒に飯を食べた。
放課後になれば、どちらからともなく一緒に帰った。
そんな毎日が。
たった一日で消えた。
昼休み。
僕は一人で弁当を食べていた。
スマートフォンを見る。
恒一とのトーク画面。
一番上には、最後に送られてきたメッセージが残っている。
『今日のこと、誰にも言わないで』
あの日。
10日前の夜に届いたメッセージ。
僕は何度も考えた。
「今日のこと」とは何だったのか。
何を誰にも言うなと言いたかったのか。
そして。
なぜ、あんなメッセージを送ってきたのか。
分からない。
何度考えても。
分からない。
「……神崎」
顔を上げる。
佐藤が立っていた。
「今日、警察来るって」
「また?」
「うん。昨日の続きだって」
「……そっか」
「神崎も聞かれるかも」
「分かった」
佐藤は少し迷ってから言った。
「早く見つかるといいな」
「……うん」
それだけだった。
佐藤が離れていく。
僕はもう一度、スマートフォンを見る。
最後のメッセージ。
返信はない。
既読もついていない。
その画面を見ていると、あの日の会話を思い出す。
恒一は言っていた。
『俺が明日から学校来なくなったら、どうする?』
あのとき、僕は冗談だと思った。
だから、適当に答えた。
『普通に心配するだろ』
そして恒一は笑っていた。
放課後。
教室に残っている人は少なかった。
僕は帰る準備をした。
鞄を持って、教室を出ようとする。
そのとき。
ふと、恒一の席を見た。
誰もいない。
当たり前なのに。
足が止まった。
僕は三日前から、何度もこの席を見ている。
でも、まだ慣れない。
明日になれば帰ってくる。
そう思ってしまう。
明後日かもしれない。
来週かもしれない。
いつか。
何事もなかったみたいに、
「お前、何ぼーっとしてんの?」
なんて言いながら、恒一がこの席に座る。
そんな気がしてしまう。
僕は教室を出た。
廊下を歩く。
階段を下りる。
昇降口へ向かう。
その途中で、職員室の前を通った。
中には先生たちが集まっている。
その奥には、見覚えのない男の人がいた。
警察だろう。
恒一を探すために。
今日も誰かが動いている。
僕はその場を通り過ぎた。
校門を出る。
空はもう暗くなり始めていた。
三日前と同じ道。
三日前と同じ街。
何も変わっていない。
変わったのは。
恒一がいなくなったことだけだ。
僕は歩きながら、スマートフォンを握った。
画面を開く。
最後のメッセージを見る。
そして、初めて思った。
もしかしたら。
恒一は、いなくなることを知っていたんじゃないか。
だから。
あんなメッセージを送ったんじゃないか。
そう考えた瞬間。
背中が少しだけ寒くなった。
でも。
まだ僕は知らなかった。
恒一がいなくなった理由も。
あのメッセージの意味も。
そして。
このあと、僕のもとに届くことになる一通の言葉のことも。
そのときの僕は。
まだ何も知らなかった。
——事件から4日後——
恒一は、まだ見つかっていない。
朝のニュースを見ても、何も新しい情報はなかった。
家を出る前に、母親からも同じことを言われた。
「まだ、見つからないの?」
「うん」
「そう……」
それ以上、母親は何も言わなかった。
僕も何も言わなかった。
靴を履いて、家を出る。
いつもの道を歩く。
昨日までと同じ。
でも、僕の頭の中だけは、ずっと恒一のことを考えていた。
学校に着く。
教室に入る。
恒一の席を見る。
やっぱり、空いている。
もう四日目なのに。
僕はまだ、その光景に慣れなかった。
「神崎」
声をかけられた。
振り返ると、佐藤がいた。
「今日も警察来るらしいよ」
「そうなんだ」
「昨日、何か聞かれた?」
「少しだけ」
「何聞かれた?」
「恒一と最後に会ったのはいつか、とか」
「ふーん」
佐藤は少し黙ってから、恒一の席を見る。
「……早く見つかるといいな」
「うん」
佐藤はそれだけ言って、自分の席へ戻った。
そのとき。
前の席にいた女子が、こちらを振り返った。
「神崎くん」
「ん?」
「昨日、橘くんのこと警察に話した?」
「……話したけど」
「そっか」
彼女は少し迷ってから言った。
「私、事件の前の日に橘くんと話してたんだ」
「え?」
「放課後。校門のところで」
僕は思わず顔を上げた。
「何話してた?」
「それが……」
彼女は少し考える。
「誰かを待ってるって言ってた」
「誰か?」
「うん」
「誰だったか聞かなかった?」
「聞いた。でも、答えてくれなかった」
「……何か変じゃなかった?」
「ちょっとだけ」
彼女はそう言った。
「いつもの橘くんとは、少し違った気がする」
それだけ言って、彼女は前を向いた。
僕は何も言えなかった。
恒一は。
あの日、誰かを待っていた。
その相手は誰だったのか。
考えているうちに、別のことを思い出した。
事件の二日前。
恒一と、クラスメイトの一人が言い争っていた。
理由は知らない。
そのときは、いつものくだらない喧嘩だと思っていた。
でも。
もし、あれが事件と関係していたら?
僕はそのクラスメイトを見る。
向こうもこちらを見ていた。
目が合う。
すぐに逸らされた。
その瞬間。
胸の中に、小さな疑いが生まれた。
――もしかして。
僕は慌てて首を振った。
まだ何も分からない。
そんなことで疑うなんて、おかしい。
でも。
疑い始めると、次々に思い浮かんでくる。
恒一とよく一緒にいた先輩。
事件の前日に恒一と話していた女子。
恒一と喧嘩していたクラスメイト。
そして。
僕自身。
恒一が最後に連絡を送ってきた相手は、僕だった。
昼休み。
スマートフォンを見る。
恒一からの最後のメッセージ。
『今日のこと、誰にも言わないで』
僕は画面を閉じた。
どうしても気になる。
だから。
放課後、警察に話を聞かれたとき。
「最近、橘くんから変わった連絡はありませんでしたか?」
そう聞かれて。
僕は一瞬、黙った。
『今日のこと、誰にも言わないで』
その言葉が頭に浮かぶ。
「……特には」
僕は、そう答えた。
嘘をついた。
なぜかは、自分でも分からなかった。
警察が帰ったあと。
僕は一人で学校を出た。
家に帰る。
玄関を開ける。
「ただいま」
返事はない。
自分の部屋へ向かう。
ドアを開けた。
そして。
足が止まった。
机の上に。
白い封筒が置いてあった。
「……何これ」
僕は近づいた。
封筒には名前が書かれている。
――神崎蓮。
僕の名前だった。
差出人はない。
いつ置かれたのかも分からない。
恐る恐る封筒を開ける。
中には、紙が一枚だけ入っていた。
そこに書かれていたのは。
たった一行だった。
――犯人は、お前が一番よく知っている人間だ。
「……は?」
意味が分からなかった。
犯人。
恒一を消えさせた人間。
その犯人を。
僕が一番よく知っている?
そんな人間。
一人しか思い浮かばない。
恒一。
でも。
恒一が犯人なわけがない。
そもそも。
恒一は被害者だ。
僕は紙を握りしめた。
もう一度読む。
犯人は、お前が一番よく知っている人間。
頭の中に、何人もの顔が浮かんだ。
佐藤。
事件の前に恒一と話していた女子。
恒一と喧嘩していたクラスメイト。
よく恒一と話していた先輩。
そして。
恒一。
誰が犯人なのか。
分からない。
でも、一つだけ分かった。
この手紙を書いた人間は。
僕のことを知っている。
そして。
恒一のことも知っている。
もしかしたら。
僕が知らない恒一のことまで。
知っているのかもしれない。
僕は机の前に座った。
もう一度、紙を見る。
すると。
さっきまで気にしていなかったことに気づいた。
紙の端に、小さな文字があった。
――「お前なら、分かるだろ」
その言葉を見た瞬間。
背筋が冷たくなった。
聞いたことがある。
この言い方を。
いつだったか。
誰からだったか。
思い出せない。
ただ。
妙に懐かしかった。
僕は目を閉じた。
そして、恒一の言葉を思い出す。
『お前、俺のことならだいたい分かるだろ』
あの日。
僕は笑って答えた。
「お前のことなら、だいたい分かる」
今なら。
その言葉が怖かった。
僕は本当に。
恒一のことを知っていたのだろうか。
それとも。
知っているつもりだっただけなのだろうか。
机の上には、まだ一枚の紙が残っている。
犯人は、お前が一番よく知っている人間だ。
僕はその言葉を見つめ続けた。
そして。
初めて、身近にいる人間全員を疑った。
——事件から10時間前——
朝、目を覚ます。
時計を見る。
午前七時十二分。
いつもと同じ時間だった。
カーテンを開けると、薄い朝の光が部屋に入ってくる。
スマホを見る。
特に変わったことはない。
僕は制服に着替えて、鞄を持った。
「行ってきます」
家を出る。
駅までの道も、いつもと変わらない。
信号。
コンビニ。
通学する生徒たち。
何も変わっていない。
なのに、なぜか少しだけ落ち着かなかった。
理由は分からない。
学校に着く。
教室のドアを開けると、何人かがすでに来ていた。
「おはよ」
「おはよう」
席に座る。
しばらくすると、恒一が教室に入ってきた。
「おはよ、蓮」
「おはよ」
恒一はいつも通りだった。
鞄を机の横に置いて、椅子に座る。
「眠そうじゃん」
「昨日ちょっと遅かった」
「何してたの?」
「別に」
恒一は笑った。
その笑い方も、いつもと同じだった。
だから僕は、それ以上何も聞かなかった。
朝のホームルームが始まる。
先生が出席を取る。
授業が始まる。
黒板に書かれた文字をノートに写す。
何もおかしくない。
本当に、普通の一日だった。
ただ、一度だけ。
休み時間に恒一が教室の外を見ていた。
「どうした?」
僕が聞くと、恒一はすぐに振り返った。
「ん? 何が?」
「いや、ずっと外見てたから」
「別に」
そう言って、恒一は席に戻った。
僕は窓の外を見る。
廊下には、何人かの生徒が歩いている。
特に変わったところはない。
「蓮」
「ん?」
「今日、放課後暇?」
「たぶん」
「じゃあ、ちょっと付き合って」
「どこ行くの?」
「まだ決めてない」
「なんだそれ」
僕が笑うと、恒一も笑った。
「まあ、放課後になったら言う」
「分かった」
それだけだった。
そのときの僕は、何も疑わなかった。
放課後になれば、いつものように恒一と帰る。
そう思っていた。
昼休み。
僕たちはいつものように弁当を食べた。
くだらない話をして。
昨日見た動画の話をして。
テストの話をして。
先生の話をして。
いつもと同じだった。
ただ、恒一は何度か時計を見ていた。
「時間気になる?」
「え?」
「さっきから時計見てる」
「ああ……」
恒一は一瞬だけ黙った。
「ちょっと約束がある」
「誰と?」
「まだ言えない」
「なんだよ、それ」
「あとで分かるって」
恒一は笑った。
僕も笑った。
それ以上、聞かなかった。
午後の授業が始まる。
窓の外には、いつもの景色が広がっている。
いつもの学校。
いつもの教室。
いつもの友達。
いつもの一日。
このときの僕は知らなかった。
この日の何気ない会話を、あとになって何度も思い出すことになるなんて。
そして。
この日の朝が、恒一が普通に学校にいた最後の朝になるなんて。
もちろん、その時は知らなかった。
ただ僕は、放課後になったら恒一とどこかへ行く。
それだけだと思っていた。
——事件から5日後——
事件が起きてから、五日が経った。
それでも、恒一は見つかっていなかった。
学校では、少しずつ普段の空気が戻り始めていた。
笑い声が聞こえる。
休み時間には誰かが廊下を走っている。
先生たちも、いつも通り授業を進めている。
でも、僕の隣の席だけは違った。
恒一の机。
五日経っても、そこには誰も座らない。
僕は朝から何度も、その机を見ていた。
「……神崎」
後ろから声をかけられた。
振り返ると、佐藤が立っていた。
「何?」
「ちょっといい?」
「うん」
佐藤は周りを気にするようにしてから、小さな声で言った。
「警察、まだ来てる?」
「昨日も来てた」
「そっか」
佐藤は少し黙った。
「何か知ってる?」
「え?」
「恒一のこと」
その言葉に、僕は少しだけ身構えた。
「……何も」
「本当に?」
「うん」
佐藤は僕の顔を見た。
しばらく何も言わなかった。
「そっか」
それだけ言って、自分の席に戻っていった。
僕はその背中を見ながら考える。
佐藤は、何か知っているのだろうか。
それとも、ただ気になっているだけなのか。
分からない。
最近は、何を考えても疑ってしまう。
佐藤。
恒一と口論していたクラスメイト。
恒一とよく話していた先輩。
事件の前日に、校門で恒一を見たという女子。
そして、あの紙。
――犯人は、お前が一番よく知っている人間だ。
僕はポケットの中に手を入れた。
あの紙は、家に置いてある。
何度読んでも意味が分からない。
犯人は、お前が一番よく知っている人間。
僕が一番よく知っている人間。
そんなの、一人しかいない。
恒一だ。
でも。
恒一は被害者だ。
少なくとも、僕はそう思っている。
「……じゃあ、あの紙は何なんだ」
小さく呟く。
答えは出ない。
昼休みになった。
僕は一人で教室に残っていた。
ふと、恒一の机を見る。
五日間、誰も触っていない。
先生も、必要なもの以外はそのままにしていると言っていた。
僕は立ち上がった。
恒一の机の横まで歩く。
何となく、机の中を見た。
教科書。
ノート。
筆箱。
昨日のプリント。
いつもの恒一の机と、何も変わらない。
そう思った。
そのとき。
机の奥に、見慣れないものがあることに気づいた。
小さな封筒だった。
白い封筒。
名前は書かれていない。
「……何だ、これ」
僕は封筒を取り出した。
中には、一枚の紙が入っていた。
紙には、短い言葉だけが書かれていた。
――午後四時。
――いつもの場所。
それだけ。
日付は書かれていない。
誰に向けたものなのかも分からない。
僕は紙を何度も見返した。
「いつもの場所……?」
そんな場所、僕たちにはいくつかある。
駅前の公園。
学校の裏。
よく行くコンビニ。
放課後に立ち寄るカフェ。
でも。
そのどれにも「いつもの場所」という名前はついていない。
僕は紙を握った。
その瞬間。
ひとつだけ、思い出した。
事件当日。
恒一は僕に言った。
――放課後、ちょっと付き合って。
そして。
――あとで分かるって。
胸の奥がざわついた。
もしかして。
この紙に書かれている「午後四時」は、事件当日のことなのか。
だとしたら。
恒一は、事件が起きる前から誰かと会う約束をしていた。
僕は時計を見る。
午後一時二十三分。
あと少しで、放課後になる。
僕はもう一度、紙を見た。
そして初めて思った。
恒一は、あの日。
僕に何かを隠していたのかもしれない。
そのことを考えた瞬間。
教室のドアが開いた。
「神崎?」
振り返る。
そこに立っていたのは――
事件の前日、恒一と一緒にいるところを見られていた人物だった。
その人は、僕の手にある紙を見ると、一瞬だけ表情を変えた。
そして。
「……それ、どこで見つけたの?」
そう言った。
——事件から2時間前——
午後三時二十八分。
最後の授業が終わった。
「やっと終わった……」
僕が伸びをすると、隣から声がした。
「蓮」
「ん?」
「行こう」
恒一が鞄を持って立っていた。
「どこに?」
「昨日言っただろ。付き合ってって」
「ああ」
僕も鞄を持った。
教室を出る。
廊下には、帰る生徒たちがたくさんいた。
いつもの放課後。
部活へ向かう人。
友達と話しながら帰る人。
先生に呼ばれている人。
そんな中を、僕と恒一は並んで歩いた。
「で、どこ行くの?」
「もうちょっと」
「それ昨日から言ってない?」
「言ったっけ?」
「言ったよ」
恒一が笑う。
「じゃあ、もうちょっとだけ秘密」
「なんだそれ」
僕も笑った。
校門を出る。
いつもの帰り道とは反対方向だった。
「こっち?」
「うん」
「珍しくない?」
「そう?」
「恒一、この辺あんまり来ないじゃん」
「今日はちょっと用事があるから」
「用事?」
「まあね」
恒一は前を向いたまま答えた。
その声は、いつもより少し小さかった。
僕は隣を歩く恒一を見る。
何か考えているように見えた。
「誰かと会うの?」
聞くと、恒一の足が一瞬だけ止まった。
「……まあ」
「誰?」
「まだ言えない」
「またそれ?」
「ごめん」
恒一は笑った。
でも、その笑顔は少しだけ無理をしているように見えた。
僕はそれ以上聞かなかった。
しばらく歩く。
駅前を通り過ぎる。
人通りが少しずつ減っていく。
気づけば、学校からかなり離れていた。
「ねえ、恒一」
「ん?」
「本当に大丈夫?」
「何が?」
「いや……」
僕は言葉を止めた。
何となく。
今日の恒一は変だった。
朝から何度も時計を見ていた。
放課後になってからも、何度かスマホを確認している。
歩いている途中にも、後ろを振り返った。
「さっきから何回も後ろ見てない?」
「そう?」
「うん」
「気のせいじゃない?」
「そうかな」
「うん」
恒一はそう言って前を向いた。
でも、少し歩いたところで、また振り返った。
僕もつられて後ろを見る。
そこには、少し離れたところを歩いている人がいた。
知らない人だった。
制服でもない。
ただ、こちらに向かって歩いている。
「……あの人?」
「違う」
恒一がすぐに答えた。
「じゃあ、誰?」
「だから、何でもないって」
恒一は歩く速度を少し上げた。
僕も追いかける。
「待ってよ」
「ごめん」
「なんか今日おかしくない?」
そう言うと、恒一は黙った。
しばらくしてから、ぽつりと言った。
「蓮」
「ん?」
「もし俺が、何か隠してたらどうする?」
突然の質問だった。
「何それ」
「いいから」
「うーん……」
僕は少し考えた。
「内容によるだろ」
「そっか」
「何で?」
「いや」
恒一は前を向いた。
「なんとなく聞いただけ」
「変なの」
「そうだな」
恒一が笑う。
その笑い方は、いつもの恒一だった。
だから僕も笑った。
それから少し歩くと、古い建物が見えてきた。
駅からも学校からも少し離れた場所。
普段なら、僕は絶対に通らない道だった。
「ここ?」
「うん」
恒一が立ち止まる。
時計を見る。
午後四時。
「時間、ぴったりだな」
僕が言う。
「……うん」
恒一は返事をした。
その声は、さっきまでよりずっと小さかった。
建物の向こうには、細い道が続いている。
その先に誰かがいるのか。
僕には見えなかった。
恒一は一度だけ僕を見る。
「蓮」
「何?」
「ここで待ってて」
「え?」
「すぐ戻るから」
「どこ行くの?」
「ちょっとだけ」
恒一はそれだけ言って、細い道の向こうへ歩いていった。
「恒一?」
呼び止めようとした。
でも、恒一は振り返らなかった。
僕はその場に残った。
時計を見る。
午後四時一分。
そのときはまだ、何も知らなかった。
ここから先に起こることも。
恒一が、なぜ僕をここまで連れてきたのかも。
そして。
僕が最後に見た恒一の姿が、今、目の前から消えていくところだったことも。
——事件から6日後——
事件が起きてから、六日が経った。
朝から雨が降っていた。
窓ガラスを叩く雨音を聞きながら、僕は教室の自分の席に座っていた。
恒一の席は、今日も空いている。
五日経っても、六日経っても。
そこだけ時間が止まっているように見えた。
「神崎くん」
先生に呼ばれた。
「何?」
「放課後、少し時間あるか?」
「……はい」
「警察の方が話を聞きたいそうだ」
胸が少し重くなった。
「分かりました」
放課後。
教室を出ると、廊下の端に警察官が二人立っていた。
「神崎くん」
「はい」
「少しだけ話を聞かせてもらってもいいかな」
僕はうなずいた。
案内されたのは、空いている教室だった。
椅子に座る。
向かいに警察官が座った。
「恒一くんについて、いくつか確認したいことがある」
「はい」
「事件当日、学校を出てからのことなんだけど」
心臓が少し速くなった。
「何か覚えていることはある?」
「……あります」
僕は答えた。
「恒一と一緒に学校を出ました」
警察官が顔を上げる。
「どこへ?」
「分かりません。恒一についていきました」
「その後は?」
「午後四時くらいに、建物の近くに着いて……」
そこまでは覚えている。
恒一が時計を見たこと。
細い道。
そして、
――ここで待ってて。
「それから?」
「……」
言葉が止まった。
「恒一が一人で先に行きました」
「君は?」
「その場で待っていました」
「どのくらい?」
「……分かりません」
「何時ごろまで?」
「分かりません」
警察官がメモを見る。
「その後のことは?」
「……覚えていません」
自分で言っていて、変な感じがした。
覚えていない。
本当に。
午後四時。
恒一がいなくなった。
そこから先だけ、まるで誰かに切り取られたように何も思い出せない。
「神崎くん」
「はい」
「君は事件当日の午後四時以降、誰かと会った覚えはない?」
「……ないです」
「そうか」
警察官は少し間を置いた。
「実は、午後四時以降に君を見たという証言がある」
「……僕を?」
「正確には、君に似た人物だ」
僕は黙った。
「どこでですか?」
「恒一くんと別れた場所の近く」
心臓が跳ねた。
「でも……」
僕は首を振った。
「僕は、そこから動いてないと思います」
「思います?」
「……」
自分でも、その言葉に引っかかった。
動いていない。
そう思っているだけだ。
確かな記憶があるわけじゃない。
「分かりました。今日はここまででいい」
警察官が立ち上がる。
僕も立った。
教室を出る。
廊下を歩いていると、ポケットの中に何かが当たった。
取り出す。
あの紙だった。
――午後四時。
――いつもの場所。
僕は紙を見つめた。
どうして恒一の机に、こんなものがあったのか。
誰が書いたのか。
何のために残したのか。
何も分からない。
ただ。
午後四時という時間だけが、ずっと頭に残っていた。
家に帰る。
鞄を机の上に置く。
制服を脱ごうとして、袖を見る。
右の袖口に、小さな汚れがついていた。
「……何だこれ」
水でこすってみる。
すぐに落ちた。
たいしたことではない。
そう思った。
でも、なぜか気になった。
その日の朝。
こんな汚れはなかったはずだ。
僕はしばらく袖を見ていた。
そして、ふと気づく。
右手にも、小さな傷がある。
「……いつついたんだ?」
覚えていない。
別に珍しいことではない。
学校でどこかにぶつけたのかもしれない。
そう考えて、僕は気にしないことにした。
その夜。
ベッドに入っても眠れなかった。
雨の音が聞こえる。
目を閉じる。
すると、あの日のことが浮かんでくる。
午後四時。
恒一。
細い道。
古い建物。
――ここで待ってて。
そこまでは、はっきりしている。
でも。
その先だけがない。
何度思い出そうとしても、何も出てこない。
「……何でだよ」
僕は目を開けた。
時計を見る。
午後十一時四十七分。
そのまま時計を見つめていると、突然。
頭の奥に、別の光景が浮かんだ。
雨。
暗い道。
誰かの背中。
そして。
「蓮」
声がした。
恒一の声だった。
僕は息を止めた。
続いて、もう一つ。
「もうやめよう」
――何を?
何のことだ?
僕は頭を押さえた。
でも、それ以上は何も思い出せない。
「……今の、何だったんだ」
部屋は静かだった。
時計の針だけが進んでいる。
僕はもう一度、目を閉じた。
けれど。
その声が誰に向けられたものだったのかだけは、どうしても思い出せなかった。
——事件直後——
雨が降っていた。
細い雨だった。
傘を持っていなかった僕は、軒下に入って空を見上げた。
時計を見る。
午後六時十二分。
「……六時?」
少し驚いた。
四時に恒一と別れた。
そこまでは覚えている。
そのあと、僕は一人で待っていたはずだった。
けれど。
そこから先のことが、どうにも曖昧だった。
別に、何もおかしなことがあったわけじゃない。
ただ、気づいたらここにいた。
それだけだった。
僕はスマホを取り出した。
地図を見ると、現在地の近くに赤い印がついている。
自分でつけた覚えはなかった。
「……なんだ、これ」
触れてみても、何も思い出せない。
僕はスマホを閉じた。
そのときだった。
足元に、小さなものが落ちているのが見えた。
拾い上げる。
見覚えのあるキーホルダーだった。
「……恒一?」
青い小さなキーホルダー。
ずっと恒一が鞄につけていたものだった。
どうして、こんなところにある。
僕はそれを握った。
すると、一瞬だけ頭の中に何かが浮かんだ。
雨。
暗い道。
前を歩いている恒一。
僕の声。
「待って!」
恒一が振り返る。
「蓮、なんでここにいるんだ?」
「……っ」
そこで途切れた。
僕は思わず目を閉じた。
今のは、夢じゃない。
たぶん。
けれど、それ以上は何も出てこなかった。
キーホルダーをもう一度見る。
裏側には、泥のような黒い汚れがついていた。
僕の指にも、同じような汚れがついている。
「……いつの間に」
右手を見る。
小さな傷があった。
いつできたのか分からない。
気になったけれど、今はそれよりも恒一のことが頭から離れなかった。
どうして、ここに恒一のキーホルダーがある。
どうして僕は、この場所にいる。
そして――
あのとき、恒一と何を話していたのか。
考えていると、少し離れたところから人の気配がした。
顔を上げる。
公園の入口に、女子生徒が立っていた。
同じ学校の制服だった。
向こうも僕を見ている。
目が合った。
すると、その子は何かに驚いたように顔をそらし、そのまま走っていった。
「……なんだ?」
僕は立ち上がった。
追いかける気にはなれなかった。
ただ、その後ろ姿を見ながら思った。
もしかしたら。
僕は、自分が思っているほど一人でここに来たわけじゃないのかもしれない。
雨が少し強くなった。
僕はキーホルダーをポケットに入れた。
そして、もう一度だけ時計を見る。
午後六時十二分。
四時から今までのことを、僕はうまく思い出せなかった。
でも、それ以上に気になっていたのは――
恒一が、最後にどこへ向かったのかだった。
——事件の3日前——
その日の放課後。
僕と恒一は、いつものように学校を出た。
「今日、寄ってく?」
「どこに?」
「決まってるだろ」
恒一が笑う。
僕たちは駅前の小さなカフェに向かった。
いつもの席に座って、適当に注文する。
学校の話をして。
くだらない話をして。
いつもと何も変わらない時間だった。
でも、その日は少しだけ違った。
恒一が、何度も時間を確認していた。
「どうした?」
「別に」
「なんだよ、それ」
「ほんとに何でもない」
僕はそれ以上聞かなかった。
しばらくすると、恒一が突然言った。
「なあ、蓮」
「ん?」
「五年前のこと、覚えてる?」
手が止まった。
「……五年前?」
「うん」
僕は少し考えた。
五年前。
小学生だった頃。
何かあった気がする。
でも、うまく思い出せない。
「なんだっけ」
そう答えると、恒一は黙った。
「……やっぱり覚えてないか」
「何の話?」
「いや」
恒一はコーヒーを一口飲んだ。
「俺も、最近まで忘れてた」
「最近まで?」
「うん」
恒一は窓の外を見る。
駅へ向かう人たちが、次々と横を通っていく。
「五年前、俺たちが一緒に行った場所があるんだよ」
「一緒に?」
「そう」
僕は首をかしげた。
そんな記憶はなかった。
「どこ?」
「それは……」
恒一が言葉を止めた。
少し迷ってから、低い声で言った。
「まだ言わない」
「なんで?」
「確かめたいことがあるから」
僕は笑った。
「何それ。気になるんだけど」
「そのうち話す」
「絶対?」
「絶対」
恒一も笑った。
でも、その笑顔はどこか無理をしているように見えた。
帰り道。
駅へ向かって歩いていると、恒一が突然立ち止まった。
「蓮」
「ん?」
「もしさ」
恒一は僕を見る。
「昔のことを思い出したら、今まで信じてたことが全部変わるとしたら、どうする?」
「急に何の話だよ」
「いいから」
僕は少し考えた。
「……思い出したなら、確かめるしかないだろ」
「そっか」
恒一は小さく笑った。
「じゃあ、そうする」
「何を?」
「何でもない」
また歩き始める。
僕はその背中を追いかけた。
このときの僕は、何も知らなかった。
恒一が何を調べていたのか。
五年前に何があったのか。
そして――
なぜ、僕がそのことを覚えていないのか。
それを知るのは、もう少し先のことだった。
——事件から7日後——
学校が終わったあと、僕は警察署に呼ばれた。
これで何度目だろう。
もう、慣れてしまった気がする。
案内された部屋には、前にも会った刑事がいた。
「座ってくれるかな」
「はい」
椅子に座る。
刑事はしばらく資料を見ていた。
「恒一くんの件なんだけどね」
その名前を聞くたびに、胸の奥が少し重くなる。
「いくつか確認したいことがある」
「何ですか?」
「恒一くんが事件の前に、誰かと会っていたことは知ってる?」
「……何人かは」
「そうじゃなくて」
刑事が一枚の写真を机の上に置いた。
そこには、古い建物が写っていた。
「この場所に見覚えはある?」
僕は写真を見つめた。
「……分かりません」
「本当に?」
「はい」
刑事は写真を裏返した。
裏には、日付が書かれていた。
五年前の日付。
「恒一くんが最近、この場所について調べていたことが分かった」
「……五年前のこと?」
「そう」
心臓が、少しだけ速くなった。
昨日、恒一と話していたことを思い出す。
五年前。
僕たちが一緒に行った場所。
恒一は、そう言っていた。
「恒一は……何を調べてたんですか?」
「それを今、確認しているところだ」
刑事は別の写真を出した。
今度は古い写真だった。
少し色あせている。
そこには、小学生くらいの男の子が二人写っていた。
僕と恒一だった。
「……これ」
「覚えてる?」
僕は写真を見つめた。
恒一は笑っている。
その隣にいる僕も、笑っていた。
けれど。
この写真を撮った日のことは、何も思い出せなかった。
「……覚えてないです」
「そうか」
刑事は写真をしまおうとした。
その瞬間だった。
「待ってください」
僕は写真を指差した。
「これ……」
写真の端。
後ろに、小さな建物が写っていた。
見覚えがある。
どこで見たのかは分からない。
でも、知っている。
「この場所……」
「何か思い出した?」
「……分かりません」
頭の奥が、少し痛くなった。
雨。
誰かの声。
走っている僕。
そして、恒一。
「……蓮」
誰かが僕を呼んでいる。
でも、それがいつの記憶なのか分からない。
「神崎くん?」
「……はい」
顔を上げる。
刑事がこちらを見ていた。
「大丈夫か?」
「大丈夫です」
僕はそう答えた。
刑事は少し黙ってから、静かに言った。
「神崎くん」
「はい」
「五年前のことを、本当に何も覚えていない?」
答えようとして。
言葉が出なかった。
何も覚えていない。
そう思っていた。
でも。
さっき見た写真。
あの建物。
雨の音。
恒一の声。
どれも、知らない記憶のはずなのに。
どこかで知っている。
僕は自分の手を見た。
指先が、少し震えていた。
「……分かりません」
それしか言えなかった。
警察署を出る。
外はもう暗くなっていた。
駅へ向かいながら、僕は何度も写真のことを思い出していた。
五年前。
恒一と僕。
あの建物。
そして、消えてしまった記憶。
僕はまだ知らなかった。
恒一が調べていたものと、僕が忘れているものが――
同じ出来事だったことを。
——事件から5年前——
雨が降っていた。
小学生だった僕と恒一は、雨宿りをするために古い建物の中へ入った。
「蓮、こっち」
「ちょっと待ってよ」
恒一は楽しそうに奥へ進んでいく。
僕もその後を追った。
古い建物の中は薄暗かった。
窓の外では雨が降り続いている。
「もう帰ろうよ」
「もうちょっとだけ」
恒一が振り返った。
「せっかく来たんだから」
僕は仕方なくついていった。
そのときだった。
奥の部屋から、大きな音がした。
「……何?」
僕たちは顔を見合わせた。
恒一が先に歩き出す。
「見てみよう」
「やめようよ」
「大丈夫だって」
恒一が扉に手をかける。
僕はその後ろに立った。
扉が開く。
何があったのか。
今でも、そこだけは思い出せない。
ただ――
僕は突然、怖くなった。
「帰ろう!」
恒一の腕を掴む。
「蓮?」
「帰ろうよ!」
「待って」
「嫌だ!」
僕は恒一の腕を強く引っ張った。
恒一がよろめく。
「蓮、落ち着け!」
その声を聞いて、さらに怖くなった。
頭の中が真っ白になる。
「来ないで!」
僕は恒一を突き飛ばした。
恒一が床に倒れた。
静かになった。
「……恒一?」
返事がない。
僕はその場に立ち尽くした。
自分が何をしたのか分からなかった。
いや。
分かっていたからこそ、怖かった。
「……ごめん」
僕は何度も謝った。
すると、倒れていた恒一がゆっくり起き上がった。
「大丈夫」
「……痛くない?」
「うん」
恒一は笑った。
「だから泣くなよ」
僕は泣いていた。
「僕がやった……」
「わざとじゃないだろ」
「でも……」
「誰にも言わない」
恒一はそう言った。
「俺が覚えてるから」
「……忘れないの?」
「忘れないよ」
恒一は少しだけ笑った。
「だから、蓮は忘れていい」
その言葉を聞いた瞬間。
僕の頭の中が真っ白になった。
怖かった。
自分が恒一を傷つけたことも。
さっき見たものも。
全部。
だから僕は願った。
全部、忘れてしまいたいと。
そして恒一は、その願いを受け入れた。
「大丈夫」
恒一がもう一度言った。
「俺が覚えてるから」
その日から五年間。
僕は、あの日のことをほとんど覚えていなかった。
でも恒一は――
覚えていた。
僕が忘れてしまったことを。
僕が傷つけてしまったことを。
そして、僕自身がそのことを思い出して壊れてしまわないように。
ずっと僕のそばにいた。
——事件から8日後——
恒一がいなくなって、八日が経った。
教室の雰囲気は、少しずつ元に戻っていた。
先生たちは普通に授業をする。
クラスメイトも、普通に話している。
笑い声だって聞こえる。
でも、恒一の席だけは空いたままだった。
僕はそこを見ないようにしていた。
見てしまうと、まだ恒一がどこかにいるような気がするからだ。
「神崎くん」
放課後、教室を出ようとしたときだった。
後ろから声をかけられた。
振り返る。
事件の2時間前、公園にいた女子生徒だった。
「……何?」
「ちょっと話したいことがある」
彼女は周りを気にしながら言った。
「この前のこと」
「公園の?」
彼女は小さくうなずいた。
「私、あの日……恒一くんを見た」
「え?」
「学校が終わったあと」
僕は黙って聞いた。
「恒一くん、一人じゃなかった」
胸の奥がざわついた。
「誰といたの?」
彼女はすぐには答えなかった。
何度か迷うように口を開きかけて、それから言った。
「……神崎くん」
「え?」
「一緒にいたの、神崎くんだった」
僕は言葉を失った。
「そんなわけない」
「でも、見た」
「僕は……」
そこまで言って、口が止まった。
あの日。
午後四時。
恒一と一緒にいた。
そこまでは覚えている。
でも、そのあと。
僕は一人で待っていたと思っていた。
「何時くらい?」
「四時より後だと思う」
「どこで?」
「古い建物の近く」
心臓が大きく鳴った。
「……古い建物?」
「うん」
その言葉を聞いた瞬間、頭の奥に何かが浮かんだ。
雨。
暗い道。
古い壁。
恒一の背中。
そして、五年前の写真。
「何か言ってた?」
僕が聞くと、彼女は少し考えた。
「全部は聞こえなかったけど……」
「けど?」
「恒一くんが、神崎くんに何か言ってた」
僕は黙った。
「たしか……」
彼女は記憶を探るように目を細める。
「『あの日のこと、まだ思い出せない?』って」
息が止まった。
「あの日……?」
その言葉だけが頭に残った。
五年前。
恒一が話していたこと。
警察で見せられた写真。
古い建物。
そして、僕が覚えていない記憶。
「それだけ?」
「うん」
彼女は少し間を置いてから言った。
「そのあと、二人とも建物の方に行った」
「……二人?」
「神崎くんと恒一くん」
僕は何も言えなかった。
彼女と別れたあと、僕は一人で駅とは反対方向へ歩いた。
頭の中が整理できなかった。
五年前。
恒一。
古い建物。
そして、事件の日。
全部が同じ場所に集まっている。
僕はスマホを取り出した。
警察で見せられた写真を思い出す。
あの建物。
写真の中の僕と恒一。
そして、事件の日に恒一と向かった場所。
「……同じだ」
声が漏れた。
今まで別々だと思っていた。
五年前の出来事と、恒一の失踪。
でも違う。
恒一は、五年前のことを調べていた。
事件の日、僕をそこへ連れていった。
そして、その場所で僕たちは何かを話していた。
なのに。
僕は覚えていない。
僕は足を止めた。
雨は降っていなかった。
それなのに、あの日の雨音が聞こえた気がした。
恒一の声。
暗い建物。
誰かの後ろ姿。
そして――
「蓮、これだけは覚えてて」
頭の中で、誰かが言った。
僕は振り返った。
もちろん、誰もいない。
ただ、夕方の街が広がっているだけだった。
僕はゆっくり歩き始めた。
五年前。
僕は、何を忘れた?
そして事件の日。
僕は、何を忘れた?
考えれば考えるほど、二つの記憶が重なっていく。
まるで、ずっと同じ場所を見ていたのに。
今まで気づかなかっただけみたいに。
僕は初めて、本気でそう思った。
――もしかしたら。
僕は、あの日のことを知らないんじゃない。
忘れているだけなのかもしれない。
——事件のその時——
しばらくしても、恒一は戻ってこなかった。
四時十分。
四時十五分。
スマートフォンを見る。
「……遅いな」
嫌な予感がした。
僕は立ち上がった。
「ちょっとだけなら……」
恒一の後を追った。
古い廊下を進む。
奥から声が聞こえた。
「……蓮?」
恒一だった。
「なんで来たんだよ」
「心配だったから」
恒一は何か言おうとして、やめた。
「……いや」
「何?」
「五年前のこと、覚えてる?」
その言葉を聞いた瞬間。
頭の奥が痛んだ。
「……五年前?」
「そう」
恒一が近づいてくる。
「もう、話さなきゃいけないと思って」
「何を?」
「俺たちがここで何をしたのか」
「……やめて」
「蓮」
「やめろ」
頭の中に雨の音が響いた。
小さな自分。
隣にいる恒一。
倒れる恒一。
そして――
自分の手。
「……違う」
「蓮?」
「違う……」
「大丈夫だから」
恒一が僕の肩に手を置いた。
その瞬間。
僕はその手を振り払った。
「触るな!」
恒一がよろめいた。
「蓮、落ち着け!」
「来るな!」
僕は後ろに下がった。
頭の中が真っ白になる。
恒一が近づいてくる。
「俺だよ」
「来るな!」
「蓮!」
その声を聞いた瞬間。
僕は恒一を突き飛ばした。
恒一の体が倒れる。
音がした。
「……」
静かになった。
僕は立ち尽くしていた。
「……恒一?」
返事がない。
「恒一……?」
近づく。
床に倒れている恒一を見る。
頭の中が急に冷たくなった。
「違う……」
僕は首を振った。
「違う、僕じゃない」
でも、そこには僕しかいなかった。
恒一のそばにしゃがみ込む。
「起きてよ……」
返事はない。
僕の手が震える。
「ごめん……」
そのときだった。
恒一の指が、わずかに動いた。
「……蓮」
「恒一!」
僕は顔を上げた。
恒一は目を開けた。
「嫌だ」
「早く行け」
「無理だよ」
「蓮……」
恒一は苦しそうに息を吐いた。
そして、僕の手を握った。
「お前は……悪くない」
「違う……僕がやった」
「わざとじゃない」
「でも……」
「五年前も……そうだった」
その言葉を聞いた瞬間。
頭の中で何かが弾けた。
雨。
泣いている自分。
倒れている恒一。
そして、
『俺が覚えてるから』
「……やめて」
頭を抱える。
「思い出したくない……」
視界が歪む。
恒一の声が遠くなる。
「蓮……」
「恒一……」
「もう、忘れていい」
その声を最後に、
僕の意識は途切れた。
そこから六時までの時間を、
僕は何も覚えていない。
——事件から9日後——
旧校舎の前に立った。
ここに来るのは、あの日以来だった。
扉に手をかけた瞬間、頭の奥が痛んだ。
――五年前。
突然、忘れていたはずの光景が浮かんだ。
恒一と二人で、この場所にいた。
あの日も、何か大きな音がした。
僕は怖くなって、何が起きたのか分からなくなった。
そのとき、恒一が言った。
「俺が覚えてるから」
そして、
「忘れていい」
僕は、ずっとその言葉だけを覚えていた。
でも、本当はその先もあった。
恒一は、僕を守ろうとしていた。
僕が思い出さないようにしていたんじゃない。
僕が思い出して壊れてしまわないように、黙っていたんだ。
――そして、もう一つ。
頭の中に、別の日の光景が浮かんだ。
午後四時。
恒一と僕は、同じ場所にいた。
「蓮。思い出して」
恒一がそう言った。
「俺たちがここで何をしたのか」
その瞬間、怖くなった。
何かを思い出しそうだった。
五年前のこと。
恒一がずっと隠していたこと。
僕自身が忘れていたこと。
全部が一つにつながっていく。
「やめろ……」
僕は恒一を突き飛ばした。
そこから先の記憶が、戻ってきた。
倒れた恒一。
動かなくなった身体。
僕は何もできなかった。
怖くなって、その場から離れた。
そして、その後の二時間を僕は忘れていた。
今まで「恒一がいなくなった」と思っていた。
違った。
恒一は、あの日、僕が突き飛ばしたことで死んだ。
僕は、その事実を忘れていただけだった。
五年前も、今回も。
恒一は僕を守ろうとしていた。
なのに僕は――。
「……僕が、やったんだ」
声に出した瞬間、ようやく分かった。
犯人を探していた。
ずっと、誰か別の人間がいると思っていた。
でも違った。
あの手紙に書かれていた意味も、今なら分かる。
『お前が一番よく知っている人間だ、犯人は。』
そんな人間は、一人しかいなかった。
僕だった。
恒一がいなくなった原因は、僕だった。
終章
9日後 朝が来る
朝になっても、僕は眠れなかった。
窓の外が少しずつ明るくなっていく。
――忘れていい。
五年前、恒一はそう言った。
僕が怖がらないように。
僕が何も知らなくて済むように。
ずっと、僕を守っていた。
「……でも」
声が震えた。
「今回は、守れなかった」
あの日の光景が、また浮かぶ。
恒一が僕を見る。
伸ばされた手。
僕が振り払う。
そして――
押した。
僕は目を閉じた。
もう一度、記憶を辿る。
恒一が倒れたあと。
僕は何をした?
そこだけが、まだ抜け落ちている。
「……思い出せ」
自分に言い聞かせる。
「全部、思い出せ」
目を閉じる。
暗い部屋。
恒一。
床。
僕の震える手。
そして、恒一の声。
『蓮』
『もう、忘れていい』
僕は息を止めた。
「……違う」
五年前とは違う。
今回は、忘れてはいけない。
僕は目を開けた。
そして初めて、自分の中にあった記憶を疑わなかった。
恒一がいなくなった原因は、誰か別の人間じゃない。
僕だった。
怖くなった。
思い出したくなかった。
だから、記憶を閉じ込めた。
あの日からずっと。
僕は犯人を探していた。
けれど本当は――
自分から目を逸らしていただけだった。
そのとき、机の上のスマートフォンが震えた。
画面を見る。
警察からの着信だった。
僕はしばらく、その画面を見つめていた。
今までなら、出るのが怖かった。
何を聞かれるのか。
何を疑われるのか。
でも、今は違う。
僕は電話に出た。
「……もしもし」
『神崎君?』
「はい」
『少し確認したいことがあるんだけど――』
僕は一度、息を吸った。
そして言った。
「僕、思い出しました」
電話の向こうが静かになる。
「恒一がいなくなった日のこと」
声が震える。
それでも、続けた。
「僕が……恒一を押しました」
言葉にした瞬間。
胸の奥にあった何かが、崩れた。
怖かった。
逃げたかった。
でも、もう忘れることはできない。
五年前、恒一が僕の代わりに覚えていてくれたこと。
そして今回。
僕自身が忘れてしまったこと。
全部、僕の記憶だった。
だから今度は――
僕が覚えている。
恒一がいなくなった日のことを。
最後に交わした言葉を。
そして、自分が何をしてしまったのかを。
もう、恒一に代わりに覚えてもらうことはできない。
僕は電話を握りしめたまま、窓の外を見た。
朝の光が、古い街並みを照らしていた。
その光の中で、僕は初めて思った。
――忘れない。
今度こそ。
絶対に。
もう僕らは知っているから。




