無感情の結晶
西暦2040年、東京
「皆さん。教科書53ページを開いて。今日は、夏目漱石について、探究活動をします。では、何でも構いません、夏目漱石について知っていることがある人は、手をあげてください。」
メガネを掛けた国語の先生。呼びかけに、何人かの生徒が手を挙げる。先生が一人ひとり指名していって、最後の一人になった。最後は私だ。
「どうぞ。」
「はい。夏目漱石は、I love you.ということばの和訳をするときに、『あなたが好きです』などとは訳さず、『月が綺麗ですね。』と訳した、と聞いたことがあります。」
「その通りです。今ではかなり有名な言葉となっていますね。」
先生の指示で座る。その後、何ページか教科書を進めて、授業が終わった。
私は高校を出る。この高校は、県内でもかなり偏差値の高い高校だ。私はこの春、入学したばかりの高校一年生。自分が高校生になった自覚はまだない。
電車に乗って、ある場所に向かった。大学病院。私の友達が今、入院している。今日はお見舞いの日だ。すっかり顔なじみとなった受付の人に、
「面会に来ました。」
と告げる。すると、どこか慌てたように見えた。どうしたのだろう。
「すぐに行ってください!集中治療室です!」
集中治療室?思考が追いついていなかった。いそいで向かう。その扉が空いた先には、ベッドがあり、その周りに何人かの人が立っていた。明らかに普通ではない。何より、鳴り響くアラームが、物語っていた。ピーー。残酷な音を、耳が捉える。寸分遅れて、視界にモニターが写った。私がいつも来るときには、波のように写っていたもの。それが、今はただ平らな一直線となろうとしていた。少しづつ、少しづつ、波形が平坦になっていく。私は慌てて駆け寄った。ベッドの中にいるのが彼だと信じたくなかった。
ピーーーーーー
何故か、涙が出なかった。急なことで、ショックを感じていた。私の周りに立つ人々はみんな泣いている。私の目は乾いている。まだ、心で理解できていない。
入ってくる情報に心が追いついたとき。一粒の涙が、私の目から離れていく。そして、彼の手の上に落ちた。私は膝から崩れ落ちる。いやだ。いやだ。私は病院から出て、メチャクチャに走る。もう、どこを通ってきたのかもわからない。
いつのまにか森を、彷徨っていた。全身が痛む。あちこちに擦り傷ができていた。泣いて腫れた目は、視界を塞ぐ。もう何も考えたくなかった。
「キャ!」
木の根に引っかかり、転んでしまう。膝や肘が擦りむけている。転んだ後から、脳が痛みを受け取る。
不意に、目の前に手が差し出された。無意識の内にその手を取って立ち上がる。
「あ、ありがとうございます。」
そういって前を向く。そこには誰も居なかった。
「え?」
周りを見渡す。誰も、居なかった。でも、不思議と怖さは感じなかった。
「誰……?」
痛む足で歩き続ける。茂みを抜けると、そこだけポッカリと穴が空いたように、木が生えていない場所があった。月の光が差し込む。ちょうど円のような形になっているその中心に、何かが光っていた。近づいてみる。
「切り株・・・・?」
そこには、たった一つだけ、切り株があった。そしてその中に、水が溜まっている。そっと手を伸ばして触れてみる。
ポッチャーン。
音が響いた。そして、波紋が消えたその中に、空が映し出される。かがやく一つ一つの星たち。そしてその真ん中に、月が、浮かんでいた。一つ、ポッカリと、浮かんでいた。
私は思わず、その月に向かって手を伸ばす。そしてそっと、その部分をすくい上げた。指先に月に触れる。その瞬間、浮かんでいた月が弾けた。光の粒となり、周りの星たちと共鳴する。私は、広がった光にすいこまれた。
少し冷たい風で、目が覚めた。自分が今どこにいるのかわからなくなる。
「ここは・・・」
肺に満ちるまだ慣れない空気で、これまでのことを思い出した。そうだ、思い出した。私は、今、異世界にいる。明らかに別の世界の空気。それを胸いっぱいに吸い込むとき、いつも私は別の世界から来たのだということを自覚する。
「ルカ・・・。」
彼は私の横で眠っていた。
「もう、思い出したくなかったのにな。なんで今頃、あんな夢……。」
二人が寝ていた岩陰から出る。外ではちょうど朝日が昇ろうとしていた。この世界の景色は、私が前に居た世界とは比べ物にならないほどに綺麗だ。綺麗、という言葉で表していいものだろうか。美しさ、正しさ、そんな言葉でも表しきれない。ルカの言う通り、本当に心が浄化されていくような感覚を覚える。
ただ一つ、この景色の中に足りないものがあった。前の世界では当たり前だったもの。でもこの世界にはないもの。
「夜に、月がかかってたら、もっときれいなんだろうな・・・。」
「つき、というのは、そんなにきれいなものなのか。」
いつの間にか起きていたルカが、支度をしながら話しかけてくる。
「少なくとも私はとっても好きだったな。」
指輪に刻印された月の形を指でなぞる。
「そうか。」
ルカの返事は、いつも少しそっけなく聞こえる。でもどこか、安心させてくれるような、落ち着いた声。私はこの声が好きだ。
「出発するぞ、リア。」
「うん。」
この旅がどれだけ危険なものだろうと、私は絶対に諦めない。この世界で、自分の新しい「大切」を見つける。ルカといっしょに。
「リア、敵襲だ!」
魔力を感じた僕は、リアを守るように前に立つ。どこだ。どこからくるのか。ヴィスのことが頭に浮かぶ。あのときは真上からだった。次はどこだ。
「索敵!」
地図を見て安心を覚える。それほど強くない敵が前方に2体。
「リア!そこから動くな!」
そのあと、続けて魔法を連発する。放った火炎魔法が相手を吹き飛ばす。
「よし、終わった。リア、大丈夫か?」
後ろに立っていたリアが呆然としていた。何かあったのだろうか。心配になって聞く。
「あ、ううん。私は大丈夫。いや、魔法って初めて見たから、ちょっと驚いちゃって。」
「そうなのか。たしかに、前に居た世界には魔法はなさそうだったからな。」
「ルカ、私の世界を知ってるの?」
「ん?なんで?」
「いや、だって、今、なさそうだった、って。」
しまった。寝ている彼女に対して魔法を使ったことがバレてしまう。自分の記憶を見られていい思いをする人間は居ないだろう。誤魔化さなければ。
「い、いやあ、これまでの話から推測した、みたいな?」
「そっか。」
彼女は何故か、少し残念そうな顔をする。少し気まずくなった僕は、先に立って歩き出した。
「ルカ、次の行き先はどこ?ずっと気になってたんだけど、ルカには、その、邪神?の位置がわかるの?」
もっともな質問だ。僕は適当に旅しているわけではない。
「昔から、邪神は西の大陸から魔物を送り込んでくるって言われているんだ。だから僕達が目指すのは西の大陸。途中で魔物を見つけたら、近隣の村とかにいかないように討伐しないといけない。それでいて、その元凶である邪神を倒さないといけないんだ。かなり大変な役割なんだ、勇者って。」
「じゃあ、その邪神を倒したら、ルカの仕事はもう終わり?」
「うん、そういうことになるね。」
「そっか。」
「うん。」
柔らかく風が吹きつける。林を抜けて、丘の上にたどり着く。昼下がり、気温はそこまで上がっていない。空には雲ひとつなかった。
「リアは。」
「うん?」
「リアは、この旅がおわったとき、したいこととかある?」
「この旅が終わったら?」
「うん。」
「そうだなあ。前も言ったけれど、私はこの世界のいろんなところを見て回りたい。」
「元の世界に戻りたいとは思わないのか?」
「うーん、どうなんだろう。少なくとも今は、別に戻りたいとは思ってないよ。」
なぜかはわからない。彼女のその言葉に少しホッとしている自分がいた。
「ルカは?ルカは、この旅が終わったときにしたいこととか、ないの?」
「僕?僕は、」
なんだろう。この旅が終わってしたいこと。考えたこともない。僕は多分、この旅の途中で死んでしまう。そう、ずっと思っていたから。それに、ヴィスのことがあってから、僕は自分の将来のことを一切考えられなくなっている。
「僕は、特にないかな。」
「え、嘘!」
「ホントだよ。」
「じゃあ、どうやってそのモチベーションを維持してるの?」
「もちべーしょん?」
どういう意味だ?これまで聞いたことのない響き。遠い異国の言葉のように聞こえる。
「あ、モチベーションっていうのは動機、とか、やる気、みたいなもの。」
モチベーションの維持、か。今考えられることは、一つだけだ。この世界を守る。そして、僕の故郷に帰る。それだけだった。でも、そんなこと、恥ずかしくて言うことはできない。
「やっぱり特にないかな。」
そう言って誤魔化すのが精一杯だった。
「あれ?雨かな?」
彼女が空を見上げて手のひらを上にしている。同じように見上げた僕の手のひらに、ポタッと一粒雨粒が落ちる。
ドクン!また、鼓動が大きく聞こえる。呼吸ができない。僕は、僕はこの感覚に覚えがある。なにか、ずっと昔。ずっと昔に感じたこの温度。この感触。
【ぼく、にゅういんすることになった。】
にゅういん。入院。
【そう、病院ににゅういん。だから、ぼくしばらくがっこうにいけないくなっちゃった。】
学校。
何だ、この感覚は。僕は、あの時リアの過去を覗いた。わからなかったはずだろ。なぜか、今になって、あの時の状況が頭にねじ込まれているようだった。わからないと思っていた、リアの言う単語たち。学校。生徒。全部、意味がわかってしまう。なぜ?なぜだ?その時、一つの単語がポッと思い浮かぶ。
「月・・・・・」
「ルカ?月なんて出てないよ?」
突然の僕の独り言に驚いたのだろう、リアが心配そうに話しかけてくる。でも僕はそれどころではなかった。ふと自分がどこに立っているのかわからなくなり、真っ暗闇の中に体が投げ出される。混乱していた。
気がつくと、全く身に覚えのない場所に居た。暗い。ここは、どこだ。何も、見えない。光が欲しい。
「誰か!誰か、いませんかー?」
虚空に向かって呼びかける。すると、世界がほんの少し、明るくなった。これは一体・・・?夢の中の世界か?ふと空を見上げた先に、月があった。きれいな三日月が、画鋲と紐で空にかかっていた。何故かすぐに、それが月であるとわかった。地面は、青とか緑とかが使われた、丸い、紙でできたもの。
「僕は、この景色を、どこかで・・・・・・。」
月に向かって手を伸ばす。もう少しでさわれそうだ。後3センチ。2センチ。1センチ。僕の指は月を捕らえた。
る……るか………ルカ……………。どこからか微かに、ぼくを呼ぶ声が聞こえる。誰だ。僕を呼ぶのは。僕は今、本当にいい気分なんだ。だから、本当に、起こさないでくれ。僕を幸せなままで居させてくれ。無意識の中、そう願う。
「ルカ!」
閉じこもっていた膜が壊れる。そんな感覚だった。僕は慌てて目を開ける。すぐ目の前には、心配そうな顔でこちらを見ているリアが居た。
「ルカ!大丈夫?どこか悪いの?」
「リア……。」
「うん、私だよ。本当に大丈夫?」
僕は一体、何なんだ………。僕は今、何を考えている………?わからない。わからない。僕は、僕は。
「何なんだよ………。」
そんな言葉とともに、感情のない涙が一滴、こぼれ落ちる。




