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月のない空に、取り残される

「再…発?」

何を言っているんだ、この医者は。中学3年生、受験を控えた冬。学校の定期検診で病院に行けと言われてきてみれば。俺は、今目の前にいる医者が放った言葉に、ただ混乱していた。病気が再発したと言ったのか?

「深山さん、ずっと前に病気にかかっていたことがありましたよね。もう10年くらい前でしょうか。その病気が、再発したんです。」

10年くらい前……。思い出す。小学校に上がるか上がらないかの時だったと思う。僕はかなり重い病気を患っていた。あの時の痛みはもう忘れてしまっている。覚えているのは、ただそういうことがあったということだけだった。

「あのとき、深山さんは心臓に病気を持っていましたね。今回も、また同じ病気なんです。」

持っていましたね、なんていわれてもそんな記憶はない。はあ、といって医者の言葉にうなずいた。

「そして今回は、その時とは比べ物にならないくらいの重さです。」

随分と残酷なことを言う、この医者。まあ、死ぬわけではないのだろう。そこは良かったと捉えるべきか。

「余命宣告をさせていただきます。」

「は?」

数秒前に俺が思ったことを打ち消すその一言。余命…宣告?残りの命の期間を、宣告される?俺が?医者が口を開く。そして、残酷な宣言をした。

「深山さん。あなたの命は、持ってあと半年でしょう。」

隣で一緒に聞いていた、俺の保護者の叔父が膝の上で拳を固く握る。驚かないところを見るに、おそらく事前にこの医者と話をしていたのだろう。ドラマか何かでそう言うのを見たことがある。というか、今俺の置かれている状況が、まるでそういう系のドラマそのものだった。

「半年、ですか…短いですね。」

あまりに冷静な俺の言葉に、医者がギョッとしたのがわかる。俺自身も驚いていた。なぜ俺はこんなに冷静でいられるのだろう。今の俺は、余命よりもそのことに対して脳を使っている。

「それでは、今後の方針について、説明していきますね。」

「はい。」

それから俺と叔父さんは、今後の治療予定を聞く。直す方法のない病気だが、入院するのは今から4ヶ月ちょっとあと。3週間ほどでいいらしい。それからは痛みを和らげる治療と、延命治療をしていくということだった。

コートを着て外に出る。まだまだ外は寒い。叔父さんにはは病気について、特に触れることはなかった。それが僕にとっては、すごくありがたかった。帰りにハンバーガーのチェーン店に寄り、ドライブスルーで注文する。普段は特に何も感じないで食べていたものが、今日だけは特別な味がした。

それから俺は特に何か特別なことはせず、ただこれまで通り生活した。朝起きて、学校に行く。学校にはいつも、リアがいた。彼女を見るたびに、俺の心は締め付けられる。彼女に、どう伝えたらいいのだろうか。聞いた時、彼女はどんな反応をするのだろうか。わからない。俺はただ、それだけが怖かった。そして、いえないまま数ヶ月が過ぎる。

「来週から入院、か。」

1人部屋の中で愚痴る。俺はスケジュール表を見ていた。六月六日。今日の予定は、こう書かれている。

〈リア〉と。

一言だけだ。これ以上、何もわからないのだ。ある勝負で、勝った方が負けた方になんでも命令できる。その勝負、僕は負けた。罰ゲームはなんだろうと思ってビクビクしていたのだが、リアから送られてきたメールを見て首を傾げた。彼女はどうやら、僕に話したいことがあるようだ。でなければ、わざわざ外に呼び出したりはしないだろう。リアはああ見えて、意外と効率を求めるタイプでもある。少し彼女が何を考えているのか気になったが、まあそれは明日わかる話だ。俺の目は、次の月のスケジュールを見ていた。

空白。何も、書かれていない。書く必要などないのだ。今月が終わったその先。その時僕はもういないのだから。ということは僕、もう夏を経験できないのか、と、少し残念に思う。夏といえば、楽しい行事だ。お祭りや、花火大会。海に行くのだって楽しい。

「もう、できないんだなあ。」

しみじみとそう、思った。涙はまだ、出てこない。この先いつか、泣ける日が来るのだろうか。今の自分が泣いている姿は、全く想像できなかった。

明日は朝から、リアとの用事がある。メールには地図が添付されていたから、そこに来いということだろう。俺は知らない場所だったから、なるべく早起きしないと。そう思って、眠りにつく。

その眠りはいつか必ず、永久に続く。



コンコンコン。

病室の扉がノックされた。本に熱中していた俺はその認識が遅れ、慌てて返事をする。

「はい。」

スーッとドアが開いた。隙間から顔を出したのは、リアだ。

「ハル、ごめんね、寝てた?」

少し申し訳なさそうに言う彼女に、本を読んでいた、と伝える。少しホッとしたように、病室の中に入って来た。

「なんの本読んでたの?」

「これ。」

今手に持っている本を掲げる。説明のしようがなかった。なぜなら。

「題名が書かれていないの?」

僕が持っている本を見て、彼女は驚いた。そう、この本には、題名も、作者も記されていなかった。

「でも、題名とか、作者名が一切なかったから、事前情報なしに読めたんだ。すごく面白かった。」

「へー。確かに、題名がわかると、内容推測できちゃうもんね。」

「ああ。その点、この本はいい。その分感動も大きかったと思う。」

「そっか。」

彼女は丸椅子をベッドの横に置いて、座る。そして、自分のカバンの中を探し始めた。

「リア、何探してるの?」

「ちょっと、ね。」

答えている暇はない、とでも言うように、一心不乱に探している彼女。少し面白くて、微笑んでしまう。

「あった。」

「何が?」

彼女が取り出したのは、一冊の本だった。その題名を見て、僕は喜びの声をあげる。

「それ!すぐ売り切れちゃった小説!」

先月あたりに出版された小説だった。今一番人気と言っていいほどの人気作家が書いており、事前に出された、何日に発売すると言う情報に、人々が食らいついたのだ。その本は、一日目にして本屋から姿を消した。まだ電子書籍化していないから、読めていなかったのだ。

「リア!それ、どうして?」

「なんか、ハルが楽しみにしている小説があるって前から言ってたから、私もちょっと気になって勝ってみたんだ。タイミングが良かったみたい。」

「それは羨ましいな。」

「はい。」

そう言って、リアはその本を俺に差し出してきた。

「え?」

俺は少し困惑する。彼女の意図がわからなかったのだ。でも、すぐに理解する。

「え、これ、貸してくれるってこと?」

「うん。ハルが読まなきゃ、意味はないでしょ?」

「ありがとう。もういます桑に読みたいくらいだよ。」

「読んでいいよ。」

「え?」

「今、読んでいいよ。私、待ってるから。」

「いやでも、量が意外と多いし、少し時間かかるよ?」

短編集とはいっても、全部読むのには時間がかかる。その間、彼女を待たせておくのは忍びない。

「いいよ、私、何かしてるから。」

彼女がそう言っているのだ。俺は甘えさせてもらうことにした。


30分、60分。時間が刻々と過ぎていく。いつのまにか日が傾いていた。本の内容は完璧だった。人気作家が書いただけある。でも、感動の揺れ動きは、あまり大きなものではなかった。正直言って、あまり満足感はなかった。

きっと、この本を読む前に、あの本を読んだからだな。今日読み終わった、題名のない本に目をやる。まさに、次元の違い。それを感じた。いや、違う。きっとどちらの本も、内容は素晴らしいのだと思う。きっと、僕は。

「今の自分が求めている物語は、多分こっちに近いのかな。」

「ルカ?」

ぼそっと呟いた言葉に、待っていたリアが反応する。

「待たせてごめん。すごく面白かったよ。」

「そっか。それは良かった。」

「本当にありがとう。」

「どういたしまして。」

改めて彼女にお礼を言う。本当に、読めて良かった。急に思いついたように、リアがパッと顔を上げる。

「そうだ、ルカ。他に欲しいものはない?病院から出られないだろうから、私が持ってくるよ。」

確かに、欲しいものはたくさんある。でも、リアに迷惑をかけてはいけない。僕なんかに時間を使わせてはいけない。そう思った自分を打ち消す。別に最後くらい……彼女の厚意に甘えてもいいのかもしれない。

「じゃあ、お願いしていい?」

「もちろん!あ、じゃあ今メモするね!」

そう言ってカバンからメモ帳を取り出す彼女。そして僕は、いくつか欲しいものを伝える。もちろんその分のお金は彼女に渡した。いらないとは言っていたが、無理やり持たせた。

「あ、面会時間過ぎちゃう。ハル、私もう行かなきゃ。」

「うん。本当に、ありがとう。」

「ううん。明日も来るね。」

そう言って病室を出ていく彼女。扉が閉まる直前、彼女が手に持っていたメモ帳から何かが落ちるのが見えた。

「紙……?」

ベッドから手を伸ばして拾い上げる。ノートの端を切ったようなもの。さっきのメモ帳の一ページのようだ。なんだろう。二つ折りにされているそれを、破かないように開く。そこに書いてあったものを見て、絶句した。


〈死ぬまでに、ハルと一緒にやりたい二つのこと。〉

その一。  キャンプをする。

そのニ。  誰も知らない絶景を探しにいく。


それぞれの項目の横に、四角いチェック欄がある。縦に並んだ二つはそのどれもが、空白だった。

紙に落ちた俺の涙が、文字をふやかしていく。そうして、涙の跡が二つ、並んだ。



ピー。

さっきからなっていた、アラームの音が切れる。私はそっと、胸を撫で下ろす。

「ハルは、大丈夫なんですか?」

処置を行った看護師に聞く。

「ええ、軽い発作が起こりましたが、今はひとまず落ち着いています。ですが、この後もまた今のような発作が起こるかもしれません。」

「そうですか……。」

面会時間の終わりが近づいていた。私は病室を出る。出る前にちらっと見たハルの顔には、感情は見て取れなかった。回転式の病院の入り口から出る。

「今日は、ハルと話せなかったなあ。」

ハルに本を持って行った次の日。いつものようにお見舞いに来たら、病室が騒然としていた。ハルに何かあったのかと心配になったが、軽い発作だったようだ。

暗く冷えた空にほうっと息を吐く。


約束だ。


あの時のハルの言葉を、まだ覚えている。お互いに幸せを見つけた、あの瞬間。ずっと、一緒に生きると、ハルと約束をした日。

ねえハル、覚えているよね?私たちがした、あの約束。

私は全部、覚えている。絶対に忘れることはないと言い切れる。でもハルは。病室を見上げる。ハルは、覚えているのだろうか。

前まではあったその自信は、今はもう消えかけている。


「私、聞いちゃったんだ。ハルが、もう……」

泣いていた私の言葉の、その先を聞くことはなく、ハルは飛びだして行ってしまった。その話を聞いた時、私は嘘だ、と思った。ある日の学校から帰る道。ハルの保護者となっている、彼の叔父にあった。そこで聞いたのだ。ハルが小さな頃から持っていた病気が悪化し、治る希望がもうないということ。そして、ハルの命が、もう。

「ハルが、いなくなっちゃう。私、今度こそ1人になっちゃう。」

涙が溢れ出してくる。ハルの前ではずっと、泣かないようにしていた。きっと、いちばん辛いのは彼だ。私には、彼の痛みも、苦しみもわからない。変わってあげることもできない。そんな私が持っている感情など、彼からしたらすごく、幼稚なものに見えているだろう。当事者と他人では、その差があまりにも大きかった。

私の、いちばん大切なもの。それは、ハルだ。私があの時、何もかもを失っても生き続けていられたのは、彼がいたから。その彼が今、私の前を去ろうとしている。

「いやだ、いやだよう、ハル。」

涙は止まらない。それでも、足を止めてはいけなかった。靴と地面が擦れる音。それはきっと、私自身の心臓の鼓動。止まってしまえば、もう動き出すことはない。私は弱いのだ。人間という、小さな小さな生き物。本当に小さいのだ。その存在が。その、心が。私は、彼がいなくなった世界でどう、生きていくのだろう。きっと、何もしたくなくなる。何もかもが、いやになる。朝起きるのが。ご飯を食べるのが。学校に行くのが。今ある普通のことをやっていく自信がない。私は未来を考えるのが好きだった。これからも人生は続いていく。その過程で何が起きるだろう。どんな感情に巡り合えるだろう。そんなことをいつも、考えていた。でも、今となってはそれはもう、叶わない願望のうちでしかなかった。私の人生に、ハルの姿はないのだ。これまでいつでも、どんな時でも、私はハルと一緒にいる私を見ていた。ハルがいないのならば、その隣にいた私は、一体何になるのだろう。


いなくなればいいのだ。そう、思ってしまう。私にはもう、彼のいない世界で、私1人で生きていく自信が、ひとかけらも残っていなかった。 

ああ、こういう感情か、と思う。あの時、あの病院の庭で、ハルはこんな感情だったのか。あの時、ハルは私という存在を見つけた。彼の中で、私は救いだった。私は、彼に光を与えることができた。ハルには、大切なものが残っていた。

じゃあ、私には。私には、あと何が残っている?


「何…も………な……い……」


声にならない声が、透明な重さを持って私を押し潰していく。私の目には映らない空は、満天の星で満たされていた。

月の見えない空に、私は取り残される。



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