3年越しの距離
しばらく放心したのち、リアのことを思い出す。
「会いに、行かなきゃ。」
きっと、俺のことを心配しているはずだ。3年間も寝たきりで、きっと彼女は時々お見舞いに来てくれていたはずだ。昔、入院した時も、毎日のように来てくれていた。そのことを思い出す。
俺は立ち上がり、歩き出した。もう少しで森を抜ける。
リアは親戚の家で暮らし、近くの中学校に通っていると聞いていた。急に尋ねたら驚くだろうか。それとも、俺のことなどもう、忘れてしまっているだろうか。早く会いたい。あって、それから…。はたと立ち止まる。
「俺は、リアに、何を言えばいいんだ。」
大切なものを失ったのは、俺と同じだ。もしかしたらもう、思い出したくない記憶として、彼女の中でしまい込んでいるかもしれない。もしそうだとしたら。
「もしそうだとしたら、 俺は…」
会わないほうがいい。その結論は、簡単に出た。来る時に決めた覚悟は、どこにもなかった。本当に弱い人間だ。自分が嫌になる。俺は、俺のことが大嫌いだ。全部、忘れてしまいたい。リアがそうしたのなら、俺もきっと、そうするべきだ。忘れろ、忘れろ、忘れろ。昨日までの俺を、この記憶を。
でもやっぱり。
「忘れたく…ない…」
気がつけば声に出ていた。
「あれ?あれ?なんだ、これ。」
両方の目から、大粒の涙がとめどなく流れ落ちている。なんだよ、これ。ふざけるなよ。もう、心は固まっていたはずだ。両親をなくして、家まで無くした。その悲しみはもう、なみだでぜんぶ、洗い流したはずだ。なのに、なんで。なんで、こんなに苦しい。もう、何を失ったって、悲しむことなんかない。俺にはあの時以上の悲しみなんてない。だから、だから、俺はもう、リアには…。
「会いたい…」
「いいですか?もう、勝手にいなくなったり、絶対にしないでくださいよ。お辛いのはわかりますが、これはあなたのためなんです。」
目の前にいる男性の看護師さんの説教が、左から右へと頭を素通りしていく。あの日、リアに会いにいった日。俺は、全身にダメージを負っていた。3年間も眠り続けていたのだ。いきなり走ったりなどすれば体がおかしくなるのは当然のことだった。白い天井を見ながら、ため息をつく。疲れた。肉体的にも、精神的にも。もう一ミリも体を動かしたくはない。でも、この狭い病室に1人でいるのも嫌だった。
「あの、すみません。少し、外に出たいんですが…。」
無意識に、声に息が混ざり、震えたような声になる。看護師さんも悪い人ではないのだろう。俺の境遇を気にしたのかはわからないが、渋々承諾してくれた。当たり前だが、移動は車椅子を使う。体は松葉杖をつかえば歩けるくらいには回復していたが、その気力も体力も、いまの俺にはなかった。
病院の外は何かあった時に大変だからと、中庭に連れて行かれた。途中、車椅子の上から周りを見渡す。病院独特の、薬品のような匂い。ナースセンターの前を通る時には、2、3人、患者さんらしき人が見える。今は昼間だ。それにしてはやけに病院全体が静かに見えた。
「病院が、寝息を立てているみたい…。」
突然口から飛び出るポエムに、俺自身が一番びっくりする。息遣いで、車椅子を置く看護師さんが微笑んだのがわかった。中庭の入り口につく。
「ここが、中庭です。それでは、他の者と交代しますね。」
「はい、ありがとうございました。」
顔も見ないまま、お礼を言った。今はただ、早く外に出たかった。看護師が交代したのだろう、車椅子が前に押される。
「すごい…。」
色とりどりの花が咲いていた。真ん中には、大きな木。病院の中庭とは思えないほど、そこは光で満ちていた。本当はそんなことはないのかもしれない。でも、久しぶりに綺麗な景色を目にした僕は、感動していた。俺にとってこの光景はまるで、初めて世界を目にした動物の子供の感覚だった。そんな感覚だ。
無性に、誰かと話がしたくなった。前を向いたまま、後ろの看護師さんに話しかける。
「すごく、綺麗ですね。」
反応はなかった。少し息を吸う音が聞こえたから、急に話しかけられて、驚いたのかもしれない。でも、今の俺は、ただ、誰かに話を聞いて欲しがっていた。
「俺、全部、失っちゃいました。家族も。家も。全部です。もう、今の俺に残っているものは一つも見当たりません。」
なぜか、乾いた笑いがこぼれる。でも、泣いてしまうよりはいい。もう、涙は枯れていた。
「俺、これからどうしたらいいんでしょうかね。このまま生活に戻って。学校に行って。大人になって。」
不意に声がこもる。涙は出ない。ただ、嗚咽とともに、しゃくりあげる音が中庭に響いている。
これから俺は、どうするのだろう。普通の人のように生きるのだろうか。朝ごはんを食べて、学校にいく。友達と喋って、授業を受ける。そして、家に帰る。その繰り返し。
今ではもう、それは夢のような生活だ。1人で朝ごはんを食べ、友達のいない学校に行く。そして誰もいない家に帰る。現実はそうなのだ。前までは当たり前だった人生が、生活が、今ではもう、遥か遠くにあった。現実。俺はこれから、そういう世界で生きて行かなくてはならない。
「俺にはもう、何もありません。そんな生活に耐えて過ごす力も、これから新しい人生を自分で築いていく力も。唯一残った大切な人も、俺のことは忘れて、生きている。彼女には力がある。俺とは違って。だから、俺は、もう。」
目の奥で耐えていた涙が一筋、こぼれる。
俺は。俺は、もう。
「生きていく自信が…ありません。」
看護師さんはその間、俺の後ろで黙って話を聞いていた。俺が言うだけ言って黙ると、少し息を吐く。
「私にも、本当に大切なものがあります。」
女性の看護師さんだった。落ち着いた喋り方。少し懐かしさのようなものも感じてしまう。
「以前、私は、私の一番大切な、家族を亡くしました。」
衝撃の告白だった。彼女も俺と同じ。家族を亡くしていた。あっけにとられ、ふりかえろうとする。でも、いまはそんな体力はなかった。
「私も、その時、今のあなたのように、生きる希望を見失っていました。でも、私はいま、生きています。それは、一つだけ残った、大切なもののおかげ。もしそれがなかったら、私はきっと、もうこの世界にはいないでしょう。」
車椅子がゆっくりと動き出す。中庭の中央にある、木に向かって進んでいた。
「あなたは、あなたにとって、大事な人が1人、残っていると言いました。そしてその人は、あなたのことを忘れている、とも。」
そうだ。リアはもう、きっと俺のことは忘れている。
「でも、実際はどうでしょうか。この世界は、人間の思う通りに物事が進んでいるわけではありません。誰も思いもしなかったことが起こりえる。そんな世界なのです。だから。」
涙は両目から、流れ出している。わかっている。俺は、わかっているのだ。
「伝えてください。あなたのその気持ちを。あなたの一番大切な人に。離さないでください。あなたの、一番大切な人を。」
大きな木の前で、車椅子が止まる。桜の木だった。時期はまだ先。蕾はまだついていない。
「俺だって、伝えたいんです。俺の一番、大切な人に。ずっと、一緒にいたいって。俺だって、離したくないんです。一番大切なものを。でも。もし、あの人にとって僕が、そんな存在じゃなければ。そんなことを考えてしまう。自分は別に、必要とはされていないんだって。俺は、怖いんです。」
そよ風が、桜の枝を揺らす。冷たい風だ。春に向かう風とは思えないほど、本当に冷たい風。そんなものは、言葉一つで簡単に、暖かく感じられるようになる。
「あなたはまだ、1人じゃない。」
涙がとめどなく流れる。どうしても伝えたい、この思い、この熱。きっと、俺の人生を明るくしてくれると信じて。口を開く。
「一緒にいたい。リアと。この先も、ずっと。ずっとずっと、離さない。俺にとって、君は宝だ。俺の一番大事なもの。」
感情を抑えることをやめる。目の前の木に向かって、叫んだ。
「だから!だから俺も、君にとって、一番大切な人間になりたい!」
全力で叫んだ。喉が痛い。頭もクラクラする。背もたれに寄りかかり、目を閉じる。
声が、聞こえる。
「ありがとう。伝わったよ。」
嘘だ、と思った。でもそこで響くのは懐かしい声。自分のすぐ近く、耳元から聞こえてくる。温かい声。その声が放つ熱は、病室の冷たい空気や、雪のような孤独の記憶を一瞬で溶かした。
「返事を、しなくちゃ。」
俺の首に、腕が回される。三年間、夢で探し続けていた熱。それが今、こんなにもそばにある。匂いに、確かな力。その体温が、止まっていた僕の心の深い場所を、少しずつ動かし始める。
「私は、あなたにとっての一番大切な人になる。それなら、だから、あなたにも、なって欲しい。」
そこにいるのは、ナース服に身を包んだ、看護師ではない。
「私にとって、一番大切な人に。」
本当に大切で、僕にとっての一番。
「ハル。」
「リア…。」
涙がはぜて、虹ができる。
2人とも、しばらく黙ったままだった。ただ涙を流しながら、お互いの熱を感じていた。しばらくして、ハルが口を開いた。
「リア。なんで、どうして、ここに?」
久しぶりに聞いた、ハルが私を呼ぶ温かい声。ハルは、出入り口を振り返る。そこには、さっきまで車椅子を押していた看護師さんがいる。交代してもらったのだ。
「ハルは寝ていたから、知らないだろうけれど、私ね、毎日ハルに、会いに来てたんだよ。」
今日もいつも通りに来たら、中庭の前で車椅子に乗るハルの姿が見えた。なんと声をかけたらいいかわからなくて、とっさに車椅子を押すのをかわってもらったのだ。
ハルの綺麗な目が見開かれる。ああ、本当に嬉しい。いまここで、彼と会話できていること。それは、私が唯一、失わなかったこと。私がこの世界で生きていく、力になってくれたもの。私は思わず、力一杯ハルを抱きしめた。
「痛い、リア、ちょっと、痛いよ。」
涙声でそう訴えるハルが愛おしい。私は、生まれていちばんの願い事を、ハルと、神様に届ける。
「ずっと、そばにいるんだよね。」
「うん。」
「ずっと、離さないんだよね。」
「うん。」
「ずっと。」
「…」
「ずっと、生きて。私と一緒に。」
ハルが力一杯抱きしめてくれる。
「約束だ。」
単なる言葉ではない。絶望を後にし、この先も忘れない、命そのものの誓い。そんな覚悟を、その言葉から感じる。
今日は、私にとって、本当に幸せな日。
私にとって、本当の幸せを、見つけた日。
一度ほつれた私たちの運命はまた、結び直された。
でも俺は、この約束を守れなかった。
それは、今から4年後の話。




