美しい世界。守りたいもの。
絶対に最後まで読んでください。
愛を求める人生。
その過程はもしかしたら笑顔に溢れ、運命によって導かれるものではないかもしれない。
でも、信じたいのだ。
最後に待つのは幸せであると。
その時に見る景色が、何よりも尊いものであると。
今、その「物語」が始まる前に、たった一つ。一つだけ、問いたい。
「君は、主人公か。」
西暦1908年、ヨーロッパ。
「ハア、ハア、ハア。」
どこだ、どこにいる?人通りの多い大通りを、僕は懸命に走っていた。おかしい。時間も場所もあってるはずなのに。そもそも人が多すぎるんだ。一つ一つの建物も高くて見晴らしが悪いし。どこだ?走る僕の隣を、蒸気機関車が通り抜ける。なんだか蒸気機関に嘲笑われた気分だ。
「There she it is!」(あ、居た!)
やっと見つけた。少し人通りの少ない路地。レンガの塀に寄りかかっている彼女。
「Hi, Liam.」(こんにちは、リアム)
「Charlotte! Long time no see!」(久しぶり!シャーロット!)
汗だくの僕を見て、彼女がふふっと笑う。白い服が風になびいている景色は、やっぱりとてもきれいだ。
「それにしても」
彼女が口を開く。
「リアムはどうしてそんなに汗をかいているの?今は11月よ?」
人混みから抜け出した僕達は、少し小高い丘の下で、ベンチに腰掛けていた。僕は彼女の疑問に答える。
「いや、君が急に呼び出すから⋯。走ってきたんだよ。」
彼女が首をかしげる。
「私、今日ここに来ることは、随分前に手紙で知らせていたはずなんだけれど?今日届いたってわけでもないでしょう?」
もう汗はひいたものの、まだ体は火照っていた。この熱が、走ったからなのか、それともべつの理由⋯彼女と一緒にいるからなのかは、わからない。
「ああ、僕、ちょっと仕事の関係で、外国に行っていたんだ。それで帰ってきたのが昨日でね。この手紙に気づいたのが今日の朝だったんだよ。」
「そういうことね。」
彼女は納得したように頷く。
「仕事で外国って、どこの国に行っていたの?2ヶ月よりは前に書いた手紙なのよ?かなり長い間滞在していたのかしら。」
2ヶ月⋯その時はもうこの国には居なかった。
「ああ、実はね、日本って国に行って来たんだ。」
「日本?あの、地図の端っこについている国?」
「そうだね。」
「でも、日本って、ずいぶん遠いんじゃない?」
「うん。前回君にあったのが、確かちょうど1年前だよね。あの日の1週間後に出発したんだ。」
「ずいぶん長く留守だったのね。」
「うん。」
会話が一段落し、静かになる。丘の上の方からそよ風が吹いてくる。空は晴れていて、夕焼け前の空が本当に綺麗だ。
「フウー。」
呼吸を整える。今日は僕にとって、本当に大事な日。僕の人生で、きっと、一番になる日。言わないといけない。前回伝えられなかった日から1年。勇気を出せ、僕!
「あの、シャーロット。」少し声が上ずってしまう。それでも僕は立ち上がった。ベンチに腰掛ける彼女の前に立つ。そしてポケットの中から小さな箱を取り出した。その蓋に指をかける。
「シャーロット、さん。」
「は、はい。」
彼女の少し緊張した声。ピンク色に染まる頬。そのすべてが愛らしく、守りたいと思える。
「僕と、け、結婚してください!」
とうとう口にして、その箱を開いた。中には、真珠のついた指輪。僕が日本で手に入れたもの。この真珠を見たとき、真っ先にシャーロットの顔が思い浮かんだ。この石がついた指輪を、彼女につけてほしい。その美しい笑顔で、ずっと、僕のそばに居てほしい。だから、どうか、神様。彼女に僕の思いが、伝わりますように。どうか、どうか…お願いします…。
彼女の反応がない。だめだったのだろうか。彼女はきっと、僕のことなど⋯。
その時、僕の目の前に、もう一粒、真珠が現れた。真珠のようで、どこか違う。そう、透き通っていて、光を一杯にためた結晶。とめどなく、降ってくる透明な真珠の雨。
「シャーロット⋯?」
僕は顔を上げる。彼女は、泣いていた。大粒の涙をこぼして、泣いていた。
「シャーロット?だいじょう⋯」
「リアム。」
涙を流しながら彼女が言う。
「その、こんな私で良かったら、ずっと、ずっと、一緒に居てください。ずっと、ずっと⋯」
言葉を切る。彼女も顔を挙げる。
「そばに居させてください。」
跳ね上がった涙の一粒一粒が陽の光に反射する。近くで光る湖面。静かに揺れる木の葉たち。そのすべてが、僕たちを祝福していた。
いつの間にか日は落ちていた。小さな丘の、小さなベンチで、僕達は、ずっとお互いの手を握り合っている。眼の前の景色の全部が、幸せに満たされているように見える。
きっと僕は、この日、この瞬間のことを、何年、何十年、いや、何百年経ったって忘れることはないだろう。
「リアム!空!」
突然シャーロットが声を上げた。なんだろう。飛行機でも居たのかな?丘の上を見る。ただ駅舎があるだけの、いつも通りの風景だ。
「どうしたの?」
「違うよ、空!空を見て!」
顔を上げる。眼の前にあった景色に呆然とした。空が、光で満ちていた。空に輝く一粒一粒の星が、どんなものよりも美しい光に見えた。不意に、その中の一つがフッと流れる。
「流れ星⋯」
2本、3本。あっという間に、その光の筋は増えていく。10本、20本。
「光の、雨⋯」
「すごい⋯綺麗⋯。」
ふと、日本で聞いた話を思い出した。
「僕、日本で、とっても素晴らしい英語の先生に出会ったんだ。ソウセキ・ナツメっていう先生なんだけれど、その人の授業を一度、受けたんだ。その中で、英語で言うI love you.あなたが好きですっていう言葉を、日本語に訳す授業があった。先生は、なんて訳したと思う?」
空に目を向けながら、彼女は考え込む。
「うーん、普通に、あなたが好きです、じゃあないの?」
「違うんだ。ソウセキ先生は、I love you.を、『月が綺麗ですね』って訳したんだ。」
「月が綺麗⋯。確かに、この景色を見ながらだとなおさらに、あなたを愛しています、っていう意思が伝わりそう。とってもきれいな表現⋯。」
今、僕達の頭上では、夜空のキャンバスに、ただひとつの真珠が置かれている。
「シャーロット。」
「なあに?」
「月が、綺麗ですね。」
寸分の間の後、彼女は息を呑む。そしてこちらを向いて、口を開いた。
でも、その言葉は聞き取ることができなかった。
彼女が口にする前に、僕達の上から何かが降ってきた。木と鉄でできた、重い塊。普段から見慣れていたもの。
「蒸気、機関車⋯?」
どうして空から蒸気機関車が降ってくるんだ?光り輝く空は、その黒い巨体に隠されて見えなくなっていた。
脱線事故。
昔は多くあった。それでも現在ではかなり減ってきているはずだ。それなのに、その闇は、駅舎を突き抜けて今、僕達に迫っている。ああ。もう、だめだ。そう、わかってしまう。
「最後に、もう一度、星が、見たかったな⋯。」
僕は、僕達は、人生を終えた。




