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コロナ異動で来た男  作者: バッシー0822


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4/4

4.会話とシャケ弁

小野寺葵が、冷たい夜風の中を歩き、自宅のドアを開けたのは、日付が変わる直前だった。

「ただいま」

リビングでは、娘の**柚月ゆづき**が、風呂上がりの白い寝間着姿でソファに横たわり、静かにテレビを見ていた。部活で朝が早い娘は、普段ならもう自室で休んでいる時間だ。

「おかえり、お母さん」

柚月はリモコンを置き、不思議そうな表情で葵を見た。いつもの地味な仕事着は、うっすらと酒の匂いをまとっている。

「お母さん、珍しいね。酔ってるの?」

葵は、玄関にコートをかける手を止めた。ウイスキーの熱が、まだ顔に残っている。

「うん。ちょっとね」

葵は自嘲するように笑った。その顔は、職場での無表情とも、忘年会で見せた妖艶さとも違う、どこか疲れて、それでいて吹っ切れたような、複雑な表情だった。

「昔のこと、思い出したからかな」

「ふうん」

柚月は、それ以上何も聞かなかった。年頃の娘特有の察しの良さで、母親が今、職場や過去のことで何かを抱えていることを理解したのだろう。あるいは、シングルマザーとして奮闘する母の、時折見せる影を、何度も見てきたからかもしれない。

葵は、冷蔵庫から無糖の紅茶のペットボトルを取り出し、グラスに注いだ。ゴクッと一口飲むと、胃の中に冷たい紅茶が染み渡っていく。

慣れない酒と、田中慎吾に過去を打ち明けた緊張感、そして全てを思い出した疲労が、一気に押し寄せてきた。葵はソファの端に腰を下ろすと、そのまま、カクンと頭を傾け、小さく規則正しい寝息を立て始めた。

柚月は、普段、寝る間も惜しんで家事と仕事に真面目に取り組む母が、こんな風に無防備に眠りこけている姿を見て、驚きながらも、なぜかホッとした。

(お母さんだって、たまには、酔って忘れちゃってもいいのに)

いつもピリピリと緊張していた母の体が、酒の力で緩み、深い眠りについている。それは、今の母が、多少なりとも心の重荷を降ろせた証拠のように思えた。

柚月はそっと立ち上がり、母の肩にブランケットをかけた。そして、テレビの音量を少し下げ、眠る母の横顔をしばらく見つめてから、自分の部屋へと戻った。

葵が眠るリビングには、微かに残るウイスキーの匂いと、静かなテレビの光だけが残されていた。そして、その数時間後には、娘の部活のために、いつもの真面目な小野寺葵が、また目を覚ますことになっていた。


田中慎吾は、いつも通り朝一番で部署に出社した。昨夜の忘年会の熱気とウイスキーの酔いは、もう体内に残っていない。代わりに残っていたのは、小野寺葵の告白がもたらした、静かな動揺だった。

(加藤の元婚約者。そして、俺の異動に関わるかもしれない「内の都合」…)

自分の人生を左右したかもしれない大きな真実を、わずかな接点しかなかった同僚と共有したという現実が、慎吾の頭の中で鈍く響いていた。

やがて、小野寺葵が出社してきた。

彼女は、いつも通りの、目立たない地味なニットとスカート。顔色は普段と変わらず、昨夜ウイスキーをストレートで飲み干したことなど微塵も感じさせない。あの忘年会で見せた、酔いによる妖艶さや、過去を告白したときの切実な眼差しは、跡形もなく消え去っていた。まるで、昨夜の出来事全てが、安酒とウイスキーが生んだ幻だったかのように。

葵は慎吾に、いつもの事務的な笑顔で「おはようございます」と挨拶をした。

慎吾は、どう反応していいかわからず、とりあえず、最も日常的な話題を口にした。

「おはようございます。…今日の仕出し弁当、何なんです?」

それは、昨日までなら、特に気にもかけず、自分の弁当と残業の有無の確認だけで終わらせていた、何の変哲もない質問だった。しかし、昨夜の共有された秘密を経た今、この言葉は、ただの質問ではなかった。

葵は、何の感情も乗せない、極めて事務的な声で答えた。

「ああ。今日は木曜日ですから、シャケ弁ですね」

「シャケ弁、ですか」

「はい。田中さんは、ご自分の弁当ですか?」

「…いや、今日はコンビニで済ませます」

二人の会話は、わずか数十秒。内容は、ただの「弁当」の話だ。何の変哲もない、一ヶ月前と全く変わらない、日常の断片。

しかし、慎吾には、その会話の間、自分たちの周囲の空気が、確かに**「少し違っている」**のを感じた。

それは、昨夜、二人だけが踏み入れた秘密の領域の熱が、まだ微かに残っているからなのか。それとも、互いが互いの抱える「空っぽ」と「過去」を知ってしまったがゆえの、新しい種類の連帯感なのか。

シャケ弁。加藤。異動。柚月。ウイスキー。

慎吾の頭の中で、これらのワードが、今までとは違う、新しい関連性を持って繋がり始めていた。彼は、これからこの部署で、葵との間に、何が起こるのか、あるいは、何を起こすべきなのか、まだ全く見当がつかなかった。ただ一つ確かなのは、もう「弁当と残業の有無」だけの関係には、戻れないということだけだった。


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