3.似たもの同士
田中慎吾がロックで半分ほどウイスキーを飲んだ頃には、向かいに座る小野寺葵の様子は、すっかり一変していた。
普段の彼女は、地味なニットに身を包み、目立たないように振る舞う、影の薄い同僚だ。しかし、ストレートで一杯飲み干したウイスキーは、その慎重な鎧を一気に溶かしたようだった。
肌は薄く紅潮し、目は潤み、そこには普段の地味さとはかけ離れた、妖艶さとでも呼ぶべき、微かな色気が漂っていた。いつもの地味な服装さえ、むしろそのギャップで目を引くものに変わっていた。
「ねぇ、田中さん」
彼女は、周りの喧騒を気にすることなく、慎吾に身を乗り出すように、少し絡むような口調で話し始めた。アルコールで滑らかになった舌が、普段なら絶対に口にしないであろう言葉を紡ぎ出す。
「加藤のやつ、あんたに私のこと、なにか言ってなかった?」
慎吾は一瞬、飲んでいたウイスキーを吹き出しそうになった。なぜ加藤の名前が出てくるのか。しかも、こんなに踏み込んだ、プライベートな話題を。
「いや、たまに…加藤が奥さんと子供の話をするのは聞いたけど、小野寺さんのことについては、本当に、何も知らないよ。前の部署も違うし…」
彼は慌ててそう答えたが、葵はそれを信じていないようだった。
「ふーん」
葵は、意味ありげな笑みを浮かべ、少し長く、慎吾の目を真っ直ぐに見つめた。その視線は、まるで慎吾の心の奥を覗き込もうとしているかのように鋭かった。
そして、彼女は急に話題を変えた。
「田中さん、知ってる? 加藤って、結構女性関係が派手なんだよ。見た目通り。結婚してるけど、そういうの、全然気にしないタイプ」
それは、ただのゴシップのように聞こえたが、葵の口調には、どこか個人的な感情が絡んでいるような、複雑な響きがあった。
慎吾は戸惑った。この40代のシングルマザーは、今、自分に何を伝えようとしているのか。もしかして、加藤と彼女の間に何かあったのか? しかし、そんな憶測は、あまりにも唐突で、慎吾には確信が持てなかった。
彼は、ウイスキーのグラスを回し、氷をカランと鳴らした。
「そりゃ、まあ、イケメンだし。そういう噂の一つや二つ、あってもおかしくないだろうけど…。小野寺さんが、そんなこと気にすること?」
慎吾がそう聞き返すと、葵は再び、何かを隠すような、意味ありげな笑みを浮かべた。
「さあ、どうでしょうね。…でも、田中さん。あなたが飛ばされたのは、本当にコロナのせいだけなのかな?」
葵の目の奥に、酔いだけではない、何か冷たいものが宿っているように、慎吾には見えた。彼女の次の言葉は、この夜の、そして、二人の関係の空気を一変させるような、予感を孕んでいた。
田中慎吾は、葵の鋭い一言に息を飲んだ。「あなたが飛ばされたのは、本当にコロナのせいだけなのかな?」。その疑問は、慎吾自身が目を背けてきた、心の中の暗い疑念そのものだった。
そのとき、慎吾の脳裏に、先日耳にしたばかりの噂が蘇った。
「…そういえば、最近。俺がいた、あの旧事業部の部署に、外部から新人が入ったらしいんだ。経験者って触れ込みだけど、どうも社長の娘婿の関係とかいう話で…」
慎吾はグラスを置き、テーブルを拭いた。あまりにも都合の良すぎるタイミング、自分の異動と、その後の体制変更。自分の居場所が、上層部の都合によって意図的に空けられたのではないかという疑念は、ずっと燻り続けていた。だが、それを認めるのは、これまでの自分の努力全てを否定することになりそうで、考えたくはなかった。
慎吾の自嘲的な口調を聞き、小野寺葵は「ふふ」と静かに笑った。その笑みは、諦念でも、色気でもなく、まるで秘密を共有する共犯者のような、親密な響きを持っていた。
「私たち、似た者同士ね」
葵は、そう言って、慎吾のグラスにそっと手を伸ばし、氷を一つ足した。
「田中さんが、**“外の都合”で大切な居場所を失ったなら、私は“内の都合”**で大切なものを失いかけた」
彼女は、ウイスキーの入ったグラスを、氷を足した慎吾のグラスに軽く合わせた。カチン、という静かな音。それは、この冷たい忘年会の中で、二人にしか聞こえない「乾杯」の音だった。
「私、知ってるんです。加藤さんが、昔の田中さんを、かなり邪魔に思っていたこと。そして、加藤さんが今の奥さんと結婚する前…」
葵は、そこで言葉を切った。その視線は、再び周りの喧騒を横目に、慎吾の瞳を射抜いた。
「…私、加藤さんの、前の婚約者だったんですよ」
慎吾の目の前で、時間と空間が歪むような感覚が走った。地味で大人しいシングルマザー、小野寺葵。会社の冷たい片隅で、弁当と残業の有無しか話さない同僚。その裏には、華やかな幹部候補・加藤との過去、そして、慎吾の異動に関わるかもしれない、会社の「内の都合」が隠されていた。
「それで、あの時…加藤は、奥さんと子供の話をしたとき…」
慎吾は、ようやく、加藤がたまに話していた「奥さんと子供」の話題に、葵が関心を抱いた理由を理解した。それは、元婚約者としての興味、あるいは、嫉妬、または…復讐心。
葵は、ウイスキーを口に運び、目を閉じて、静かに言った。
「あの人は、自分の都合の悪いことは全部、コロナとか、部署のせいとか、時代のせいにするのが得意なんです。…田中さんの**“空っぽ”**は、本当にあなたのせいだけですか? 私は、そうは思わないけど」
彼女はそう言い残すと、椅子から立ち上がった。
「そろそろ、帰りますね。…明日も、朝早いですから」
いつもの、何事もなかったかのような、地味な同僚に戻って。しかし、その瞳の奥には、ウイスキーの熱と、何かを企むような、強い光が宿っていた。
「田中さん。ごちそうさまでした。…また、残業の有無、聞かせてくださいね」
そう言って、葵は喧騒の中に消えていった。慎吾は、ウイスキーのグラスを握りしめたまま、その場に残された。彼の中で、これまで目を背けてきた疑念と、葵の告白が、熱く渦を巻き始めていた。




