1.久しぶりの忘年会
田中慎吾は、油っぽいからあげを口に運びながら、ぼんやりとテーブルの向こうを見ていた。
コロナのどさくさに紛れて飛ばされてきた自分には、歓迎会の一つもなかった。それが一段落したとはいえ、部署の誰もが心からこの場を楽しんでいるようには見えない。ただの形式的な「忘年会」だ。
「おい、田中。お前、そっちの唐揚げばっかり食ってねーで、ちょっとは野菜も食えよ」
隣の席の、異動組の自分には特に厳しい目つきの課長が、大声で言った。慎吾は「あ、はい」と答え、愛想笑いを浮かべて皿のキャベツを一切れつまんだ。会話の輪に入るきっかけも理由も見つからない。この席での自分の役割は、安い酎ハイを飲み、無難に相槌を打ち、時間までそこにいることだけだ。
グラスの氷をカランと鳴らし、視線をテーブルから外したとき、店の隅にいる**小野寺葵**の姿が目に入った。
彼女はいつも通り地味なニット姿で、同僚たちと少し離れた席に座っている。普段の会話は弁当の中身か、残業の有無だけ。そんな彼女は、熱心に誰かの話を聞いているわけでもなく、ただ静かに烏龍茶を飲んでいた。
唐揚げを噛みしめる慎吾の耳に、隣の席から、誰かがわざとらしい小声で囁く声が聞こえてきた。
「…小野寺さんも大変だよな。忘年会も参加しなきゃって、無理してるんだろ。シングルで、子供いるのにさ」
「まぁ、でもいるといないじゃ、給料計算も違うし。それに、あの弁当だって、どうせ冷凍食品ばっかだろ?」
慎吾は一瞬、手に持ったグラスを握りしめた。どうしようもない、冷たい部署の雰囲気を象徴するような会話だった。
葵は気づいていないのか、それとも慣れっこなのか、表情一つ変えずに、テーブルの上に置かれた使い捨てのおしぼりを静かに広げていた。
そのとき、慎吾と葵の目が、一瞬だけ合った。
葵はすぐに視線を逸らしたが、その一瞬の間に、彼女が口元に浮かべたものが、薄い笑みなのか、それとも、ただの諦念なのか、慎吾には判別がつかなかった。
(会話どころか、視線すら交わすこともない二人なのに…なぜか、俺たちは、似たような「ぼっち」なんだろうか)
慎吾はため息を隠すように、また一口、刺激のない酎ハイを流し込んだ。
目の前で、会社の将来についての熱っぽい(ふりをした)議論が、始まろうとしていた。
田中慎吾は、油っぽいからあげの後に流し込んだ安い酎ハイのせいで、普段の慎重さがどこかへ飛んでいってしまっていた。心の中のブレーキが緩み、気づけば口が開いていた。
「…小野寺さん、飲まないんですか?」
声は、予想以上に場の喧騒に吸い込まれず、はっきりと届いた。
小野寺葵は、広げたおしぼりをテーブルに置き、わずかに目を見開いて慎吾を見た。突然の呼びかけに驚いた、というより、**「なぜ私に?」**という困惑の色が見て取れた。
普段は「弁当」「残業」という業務上のワード以外での接点が皆無の二人。しかも、コンプライアンスだのハラスメントだのが煩い昨今、異動してきたばかりの自分が、地味目で大人しいシングルマザーに、ましてや酒の席で話しかけるのは、極めて「面倒な事態」を引き起こしかねないタブーだった。
(しまった…!)
慎吾は一瞬で酔いが冷め、後悔の念に襲われた。引き際を失った慎吾は、ごまかすように自分のグラスを軽く持ち上げた。
「あ、いや、えっと…退屈そうにされてたから。僕もなんですけど。この雰囲気、慣れなくて」
葵は慎吾の焦りを感じ取ったのか、口元にいつもの無表情ではない、非常に微かな笑みを浮かべた。それは、先ほど慎吾が見た諦念のようなものではなく、少しだけ安堵に近いものだった。
「…ありがとうございます、田中さん。私は、いいんです。あまり、アルコールは得意じゃないので」
彼女はそう言って、グラスの烏龍茶を一口飲んだ。そして、少しだけ俯きながら、小声で続けた。
「それに…明日も、朝早いですから」
「あ…」
その一言で、慎吾は、彼女が一人で子育てをしていることを再認識した。この忘年会も、子供を預ける手配をして、ようやく参加しているのだろう。ここで羽目を外すわけにはいかない。
場の喧騒に戻りかけていた慎吾の意識が、葵の「明日」という現実によって引き戻された。
(俺は、ただの慣れない異動組のぼっちだが、彼女は、生活と家族を背負っている「ぼっち」だ)
慎吾は、何か気の利いた言葉を言おうと口を開きかけたが、結局出てきたのは、一番日常的な言葉だった。
「…そう、ですか。じゃあ、残業、無いといいですね」
葵は今度こそ、はっきりと微笑んで、頷いた。
「はい。田中さんも、お疲れ様です」
二人の間に、一瞬だけ、部署の冷たい空気とは無関係の、静かで穏やかな「会話」が生まれた。その会話は、周りの誰も聞きとがめることのない、ただの「残業の有無」の確認という形で、無事に終わったのだった。




