第2話:解毒という名の再出発
その夜、イレナは久しぶりに夢を見た。
どこかの広間。赤い絨毯。豪奢な柱。震える誰かの声と、どくり、どくりと脈打つ鼓動。
そして、香のように甘く、しかし鋭く喉を刺す匂い。
血と毒の混じったあの匂い。
「……うっ」
イレナは額に汗を滲ませて目を覚ました。
蝋燭の火はもう消え、窓の外は夜明け前の青さを帯びている。
深く息を吸っても、夢の残り香が肺の奥にまとわりつくようだった。
過去に作り、過去に使った毒。そのうちのひとつが、再び現れた。
それだけのことで、心臓がこんなにも痛むとは思わなかった。
「……情けないわね、ほんと」
イレナは吐き捨てるように呟いて、立ち上がった。
その日、彼女は黙々と薬草を摘み、調合し、煎じて、薬瓶を並べた。
いつもと同じ作業。しかし、どこか動きがぎこちなくなるのは否めない。
言葉にはしなくても、胸の奥にはアデルの残した箱の存在が居座っていた。
あれに封じられた呪毒は、間違いない。十数年前、彼女が一度だけ解毒に失敗したものと同じ系統だ。
それは人の魂に絡みつく“遅効性”の毒。解毒には知識だけでなく、術式や体質への適応まで求められる。
――解ける者など、今の王都にはいないだろう。
そして、それを解ける最後のひとりが、自分であるという現実。
(関わるべきじゃない……でも)
かつて、手が届かなかった命があった。
彼女の毒に、彼女自身が間に合わず、救えなかった命。
王族だった少女。柔らかな栗毛と、怯えた瞳。
彼女は護衛に裏切られ、毒を盛られた。
イレナが毒の出どころを突き止めたときには、すでに遅かった。
その記憶は、どれほど穏やかに過ごしても、決して薄まることはなかった。
三日目の夕刻。日が赤く染まり始めたころ。
またしても、薬屋の前に黒衣の男が立った。
アデル・レーン。整った顔立ちに、隠しきれない軍人の気配。
だが、前回よりもその眼差しはわずかに柔らかく見えた。
「……来ると分かっていたのね」
イレナは扉を開けて言った。
「ええ。貴女はきっと、ここに留まれない人だと、思っていました」
皮肉にも近いその言葉に、イレナは小さく笑う。
「期待はしないことね。これは借りを返すためよ。もう過去とは関わりたくないの」
「構いません。それでも、貴女が動くという事実が必要でした」
アデルはそう言って、手綱を引いた。黒毛の馬が一頭、彼の後ろに繋がれていた。
イレナは最後に小屋の扉を見やり、薬棚のひとつに視線を落とした。
そこには、古ぼけた小瓶が一つ、残っていた。
それはかつて、唯一作りながらも使えなかった“解毒薬”。
王家の少女に使うはずだったが、間に合わず……永遠に無駄になったはずのもの。
(でも、もしも、あの系統の毒なら……)
小瓶をそっとポーチに収める。彼女の手にはもう震えはなかった。
馬を走らせながら、イレナは辺境の景色を見下ろした。
緑深い森、なだらかな丘、空の青。
ここでの三年間は、確かに静かで、安らかで、何にも代えがたい時間だった。
けれど、そのすべてを守るには、いま再び毒と向き合わなければならない。
「……呪毒、ね。あの王族が、誰なのかにもよるわ」
「それについては、王都にてご説明します。……ですが、イレナ様」
「その呼び方はやめて」
「では、“黒死の花”?」
「もっと最悪。二度と口にしないで。……今の私はただの薬屋よ」
アデルは口元だけで笑った。
「……はい。薬屋のイレナ殿」
馬蹄の音が石畳に変わる頃、王都の尖塔が、遠くにその姿を現した。