第19話:血より濃い毒
王墓を包む、重く濃密な毒霧。
《アルミリア・コード》――心と意識に直接干渉する精神侵食毒――が、砕かれた瓶から漏れ出し、空間そのものを塗り替えていた。
霧に含まれる微細粒子は、肺に入り、血管を巡り、脳へと達する。
その毒は、「支配」ではなく「同化」だった。
「私と同じ思考へ。私と同じ忠誠へ。……これが、“絶対の秩序”よ」
黒衣の王女・エリス=リディアは、血のような紅を湛える瞳で告げた。
レオン王子は、その霧の中心に倒れていた。
呼吸が浅く、手足は硬直し、眼球がかすかに震えている。
《アルミリア・コード》の影響が、神経中枢を狂わせていた。
「やっぱり弱いわね……。王家の器としては、弟の方が出来が良かったはずなのに」
その声に、扉を吹き飛ばして現れたのは――
「喋るな、王女殿下。毒にすら失礼よ」
イレナ・アルミリア。
国一番の毒使いにして、“裏の王”の誓いを砕く者。
「毒に、毒をぶつけてどうするつもり?」
エリスが冷笑する。
「《アルミリア・コード》は、精神そのものに作用する。意思では抗えない。解毒薬も存在しない」
イレナは静かに言った。
「なら、“私自身”が毒になればいい」
手にしたのは、青銀に輝く瓶。
《ルシッド・ヘム》――思念結界毒
服用者の“精神領域”を一定時間、外的干渉から完全に隔離する。
ただし使用者自身も意識を一時切り離されるため、危険極まりない毒。
「王子を守るためなら、自分の思考すら削ってみせる」
イレナは瓶を割り、霧に身を投じた。
意識が反転し、すべての感覚が宙に浮いたようになる。
まるで、時間も重力も色彩もない場所――“精神の底”に潜るような感覚。
そこに、レオンの意識が沈んでいた。
彼は今、“エリスの記憶”を見せられていた。
――幼少期、閉ざされた王宮。
――父王の冷たい声。「王族は毒に親しめ」
――誰にも愛されず、王女という檻に閉じ込められた少女。
「私だけが、毒に微笑んでくれた」
エリスの記憶に囁かれていたのは、サウルの声だった。
(これが、あなたの記憶……)
イレナは精神内で、レオンの意識にそっと触れた。
「王子。立って。あなたにはまだ、やるべきことがある」
レオンの視線が、霧の中に浮かぶイレナの姿を捉えた。
「イレナ……僕は……僕は、姉を救えなかった……!」
「違う。姉を“救う”のは、あなたじゃない。彼女自身の意思よ。あなたが背負うのは、これからの国民。未来なの」
レオンの目が、ふっと震えたあと、強い意志の光を取り戻す。
「……ありがとう。迎えに来てくれて」
「あなたがいる限り、迎えに行くわ」
その瞬間、イレナの体が跳ねた。
精神結界毒の効果が切れ、肉体へと意識が引き戻される。
現実世界に戻ると、そこにはエリスが毒霧の中心で立ち尽くしていた。
「バカな……! 《アルミリア・コード》が……!」
「効かないわ。これは“血の力”じゃない。“選んだ意志”の結果よ」
レオンが立ち上がっていた。
「姉さん。君が毒を選んだのなら、僕は、希望を選ぶ」
王子が剣を構える。
「ここで、終わらせる」
エリスが叫ぶ。
「なら、全てを壊してあげるわ!」
彼女は最後の毒瓶――
**《コード・ゼロ》**を割り、肉体ごと毒と融合しようとする。
それは《アルミリア・コード》を超える最終毒。
摂取者の心・体・存在そのものを“毒の媒体”へと変える禁断の術。
その瞬間――
イレナが走った。
「止まれ、エリス!」
彼女は自らの毒針を打ち込み、エリスの心臓をわずかに外して刺す。
毒と毒が衝突し、激しい爆風が墓所を包んだ。
──そして、静寂。
毒霧は晴れ、空気が戻った。
エリスはその場に倒れていた。
脈はある。だが意識はなく、目を覚ます気配もない。
「……封じた」
イレナは息を切らしながら、ゆっくりと立ち上がる。
レオンが駆け寄る。
「大丈夫か!」
「ええ……全部、終わったわ」
その後、王政庁による報告が出された。
《アルミリア・コード》の脅威は回収・封印。
“影の王女”リディアの生存は非公開とされ、王子の指示により、彼女は“長期療養”として秘密裏に保護されることとなった。
王子レオン・アルミリアは戴冠を目前に控えながらも、こう言った。
「王は、力ではなく選択で示される。
毒に勝つのではなく、毒とどう向き合うか――それが、この国の未来だ」
イレナはその横で、静かに頷いた。