第17話:灰の血、継がれし毒
祭壇の前に立つ白衣の青年、ノア=ミーディアス。
その瞳に宿るのは、イレナと同じ灰銀色――“灰の研究院”出身者特有の毒耐性者にのみ現れる、変質した虹彩だった。
「父の残した“王の毒”は、僕が継ぐ。……君たちには渡さない」
青年の声は静かで、まるで毒そのもののように冷たく澄んでいた。
フィアが身を乗り出し、叫ぶ。
「継承なんて、冗談じゃない! あれは人の心を壊す毒……あんたの父親が、どれだけの命を“研究材料”として消したか分かってるの!?」
ノアはわずかに微笑んだ。
「知ってるさ。そして、それを“完成させる義務”が、僕にはある」
イレナは一歩、前に出た。
「あなたが……本当にサウルの息子なら、あの男が何を夢見ていたかも、知っているはずよ。毒で王を創るなんて幻想。あれは、ただの“力の病”よ」
「違う」
ノアの声が、鋭く割れる。
「“言葉のいらない支配”こそが理想なんだ。感情を均す毒があれば、裏切りも戦争も起きない。父はその正しさを知っていた。君だって、彼の弟子だろう?」
「私は、毒で人を救いたいの」
「なら、“救われた先の世界”を僕が見せてあげよう」
そう言ってノアは、懐から細長い注射器を取り出した。
中にあるのは、微かに輝く黒――《アンスロニア》の蒸留抽出液。
「これはまだ不安定だ。だが、君に投与すれば、データが取れる」
「……!」
フィアが即座に毒弾を投げたが、ノアは風のように身をかわす。
続けてアデルが突進し、剣を抜いて切り込むも、ノアはわずかに右足を引いただけで躱した。
「……戦い慣れてる。こいつ、研究者じゃない」
アデルの目が警戒に変わる。
ティナが叫ぶ。
「援護する! イレナ、下がって!」
「いいえ、私がやる」
イレナはゆっくりと前に出る。
手にはすでに調合済みの解毒霧と、対用の毒対抗液を携えていた。
「あなたは……自分が“毒の意志”だとでも思ってるの?」
「……違う。僕は、“毒に選ばれた人間”だ」
激突の瞬間。
ノアはイレナに向けて“王の毒”を直接射出する。
黒い液体が空中に放たれた瞬間――世界が歪む。
空気の粘度が増し、音が遠のき、感情の起伏が緩やかに沈んでいく。
「これが《アンスロニア》……? 感情が、消えて……」
フィアが膝をつきかけた。
「落ち着け、ティナ、空気を反転させろ!」
アデルが指示を飛ばし、ティナが魔導式の気流操作で毒霧を押し返す。
その隙に、イレナが懐から“思念毒”を取り出し、ノアに投げつけた。
《クロス=マインド》――感情の同調誘導毒
相手に自分の心象記憶を強制的に“追体験”させる。
ノアの動きが止まる。
「……これは……?」
見せられたのは――
・炎に包まれる研究室
・フィアの叫び
・取り残された弟子たちの屍
・サウルの冷たい声
・そして、逃げ出したイレナの背中
ノアの呼吸が乱れ始める。
「これが……君の記憶?」
「そうよ。あの研究は、ただの虐殺だった。救いでも理想でもない。あなたが進もうとしてるのは、父親と同じ“破滅”よ」
「でも……僕は……“棄てられた命”として、生き残った。意味がなければ、何だったんだ。父に実験されたこの身体に、意味がないなら……」
ノアの手が震える。
「だったら……何のために、生まれた……?」
「……意味は、自分で決めるのよ」
イレナが、そっと彼に近づきながら続けた。
「あなたが“毒に選ばれた”んじゃない。あなたが、毒を選んだの。だからこそ、どこに向かうかは自分で決められる」
ノアの目から、音もなく涙がこぼれた。
「僕は……」
「あなたが望むなら、私たちと共に歩める。……救うために、毒を使う生き方だってある」
その言葉に、ノアは静かに膝をついた。
手にしていた注射器を、そっと差し出す。
「この毒を……壊してくれ。僕はもう、父の幻想を継がない」
イレナはそれを受け取り、そっと砕いた。
《アンスロニア》は、音もなく崩れ、灰となって空気に溶けた。
こうして、“王の毒”の脅威は、一度は去った。
だが――それを見つめる、第三の視線があった。
王都の高塔の上。
黒い外套に身を包んだ女が、ぼそりと呟く。
「イレナ・アルミリア……やっぱり、あんたは甘すぎる。なら私が、“真の王の毒”を完成させてやるよ」
女の名は――エリス=リディア・アルミリア。
レオンの姉にして、死んだはずの王女。
“影の王位継承者”が、ついに動き出す。