第1話:毒使い、静かな田舎で再出発する
その女は、かつて“黒死の花”と呼ばれていた。
名を知る者は少なく、顔を見た者はさらに少ない。
だが、彼女の名を耳にした者の多くは、身を震わせて口を閉ざした。
イレナ──それが彼女の本当の名だった。
元は王国直属の密使、そして暗殺専門の毒使い。任務とあらば、王族ですら例外ではない。
だが今、彼女は──
「……よし、今年のミントは出来がいいわね」
薬草畑の隅でしゃがみ込み、カゴいっぱいに摘み取った葉を見下ろしながら、イレナは小さく呟いた。
そこは王都から遠く離れた、地図にも載らないような辺境の村。
小高い丘のふもとにぽつんと建つ、木造の古びた小屋。その裏に広がる薬草畑が、イレナの生活のすべてだった。
木々に囲まれた静かな土地。鳥のさえずりと風の音だけが響く。
彼女は、そこでひっそりと薬屋を営んでいた。
「イレナさん、お薬……できてます?」
声をかけてきたのは、小さな村の少女・ティナだった。栗色の髪を二つに結んだ、あどけない顔立ち。
イレナは微笑み、玄関先に出てきた。
「ええ、咳止めのシロップ。三日分だけど、様子を見てまた持ってくるわ」
「ありがとうっ、おばあちゃんがね、すごく助かってるって」
「それはよかった」
イレナは紙包みと小瓶を手渡し、代金はいつものように干した果物と交換された。貨幣よりも、村ではそれが主流だ。
少女が駆けて戻っていく背中を見送りながら、イレナはふうっと息をつく。
こうした穏やかな日々こそが、今の彼女のすべてだった。
かつてどれほどの命を奪ったか。
毒に手を染め、人の死に鈍感になるほど任務をこなしていた。
だが最後の任務──王家の内乱に関わったあの日、イレナは処刑されかけ、そして逃げた。
二度と、毒には関わらない。
二度と、血の匂いのする世界には戻らない。
この地で薬草を育て、人を救いながら、余生を静かに過ごすと決めたのだ。
……なのに。
「──“黒死の花”殿とお見受けします」
その名を口にして、彼女の前に現れた男がいた。
日が傾き始めた夕刻、薬屋の前に立っていたのは、漆黒の外套に身を包んだ若い男だった。
顔には柔和な笑みを浮かべていたが、身のこなしは明らかに軍か情報部の訓練を受けた者のそれだった。
「人違いでは?」
イレナは表情ひとつ変えず、淡々と返す。
「いえ、間違いありません。私は王国情報局の第三課所属、アデル・レーンと申します」
その名に、イレナの眉がわずかに動いた。
第三課──王都でも特に影の仕事を担う部署。かつての自分と同じ場所。
イレナは目を細める。
「何の用? 私はもう、王にも国にも、何の忠誠も持ち合わせていないわ」
「承知しております。ただ……どうしても、貴女にしか解けない毒があるのです」
アデルは懐から封印付きの小箱を取り出す。
淡く光る呪印が施されたそれは、危険な毒素や呪術を封じる特別な器だった。
「先月、王族の一人が毒に倒れました。命は取り留めましたが、体内に残った“呪毒”が抜けず、回復の兆しがありません」
「王宮には優秀な錬金師や神官がいるでしょうに」
「その全員が匙を投げたのです。……あなたの名だけが、唯一の希望として上がった」
イレナは、小箱をじっと見つめた。
たしかにそれは、見覚えのあるものだった。十数年前、裏の世界で一度だけ流通し、使用禁止とされた古代呪毒。
「……わたしは、もう毒は作らない」
「誰も、作れとは言っていません。解毒を頼みたいのです」
イレナは視線を逸らし、薬草畑を見やった。
風に揺れるミントの葉。ここに来て三年、やっと根付いた小さな世界。
それを、また壊すことになるかもしれない。
「考える時間を」
「三日だけ猶予をいただきます。それが限界です」
アデルは一礼し、夕陽の中に姿を消した。
残されたイレナは、手のひらに広げたミントの葉を握りしめた。
毒と薬は紙一重だ。
それを最も知るのは、他ならぬ彼女自身だった。