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第3章 ほら、風がでてきた

第3章 ほら、風がでてきた


    1


「いつぞやは、娘の亜美のことでお世話になりました」

「ご無沙汰しています。このたびは、ご愁傷さまでした」

 神野美樹は、昔のことを覚えてくれていたようだった。

母親の神野美樹の隣には、高校生の長男の尚樹が付き添っていた。

1年前、父親の神野次郎がなくなってから、母親を支えてきたのだろうか?

神野尚樹は、私が「探偵」ということに、いたく興味をそそそられたようだった。

「本当に、世の中の探偵という職業があるんですね。警察と組んで、推理し謎をといているんですね」

 私は、現実の探偵の主な仕事が、浮気調査、素行調査だといって、この少年の夢を壊しにかかることはやめにした。

 さらに、私が、元は泥棒だと言ったら、この少年はどう思うだろう?

「ところで、お義父さまの一樹さんはなにか、遺書のようなものを残していませんか?」

「1年も、病でふせっていますから、本人も死の覚悟はしていたと思います。でも、何かを書き残すと言う体力も、ないくらいの状態でしたから」

「遺書ではないですが、回想録のようなものを書くのに、ぼくはおじいさんを手伝っていました」

そう私の質問に答えたのは尚樹だった。

「回想録?手伝う?」

「口述筆記です。おじいさんの言うことを、ぼくが書き留める」

「ああ、それなら、書く体力がなくてもできるかもしれない」

「でも、ぼくが聞いたものを直接書いていたわけではありません。ぼくが、おじいさんの言うことを、ボイスレコーダーに録音して、それをパソコンソフトで聞きとってもらいパソコンソフトが文章にして、それをぼくがおじいさんに読み聞かせて、おじいさんに修正してもらう。そんな方法でした」

 神野尚樹は、スマホをポケットからとりだした。

「そうか。時代は、もうスマホだものな。でも、ぼくは、まだこれだ」

 ダイゴは、ポケットから、ガラ携をとりだして、尚樹にみせた。

「あら、先生。クリニックでは、パソコンをつかっていらっしゃるのに、ガラ携なんですか?」

 神野美樹は、不思議そうな顔をした。

「いや、もう、時代の流れに乗ることは、あきらめました」

 彼女は、微笑んだ。

「先生も、そうなんですか?私も、時代や子供たちに、ついて行くのはあきらめました。スマホはなんとか使いますが。

 尚樹ときたら、旅行にいくとひとり残るおじいさんが心配だから、監視カメラをつけて、スマホでみるとか言いだしたり。外国語通訳のポケトークの次は、弱った病人の言葉を聞きだす翻訳機が必要だと言ってみたり。今度、ドローンの免許をとるって言いだしたり」

「では、亡くなった一樹さんの部屋には、監視カメラが?」

「いやだわ。ありませんよ。おじいさんに聞いたら、プライバシーの侵害だ、と断られましたわ」

「いや、一瞬、ひょっとして、ぼくの往診も監視されていたのかと、どきっとしましたよ」

 一同は、笑った。確かに、主治医のダイゴがいることで、多少とも場は和らぎ、いろいろなことが聞き出せる雰囲気になっていた。

(これは、ダイゴのクリニックの外来でのやりとりの鍛錬のたまものか?)

「お義父様の『回想録』。いずれ出版でもしようか?と息子と話すこともあるんです。

お仕事は、大学病院の病理学教室の教授まで努められ、退職後は、この街で、ずっと検死の仕事をされていたことは、知っています。もちろん、実際、どんな内容なのか?までは私には細かくわからないけれど、ご立派なことをされてきたということはわかります。

 一方、私生活では、つらい思いもいっぱいされてきたと思いますわ。太郎さんという子供さんは、海外協力隊の仕事をしている最中に、ISのテロに偶然まきこまれて10年ほど前に死亡。その後、妻に先立たれ。そして、もうひとりの子供の次郎さんを、私の夫ですが、1年前に失い。そして、その直後に大病をされてからは、寝たきりに。

 でも、義父は、寝たきりになって、ようやく、お仕事から解放された気がします。でも、本当は、病気になってからではなく、元気なうちに、ゆっくりとしていただけたら、と思っていましたわ」

「そうですか。でも、お義父さまもそうだったかもしれませんが、奥さまのほうこそ、大変でしたよね。一年前に御主人をなくされてから、3人の子供をみながら、自宅で姑のお義父さまの介護。ご立派です」

「いえ、そんな。幸い、夫が、私がしばらく外で働かなくていいくらいのお金を残しておいて亡くなりましたから」

「そうは、いっても、今の世の中、嫁が舅のめんどうをみるというのは、とても減っている。まるで、嫁が舅のめんどうをみるのは、罪悪かのように。めんどうをみないのが、普通になっていますから。印象ではあたりまえと思われていますが、実際はめずらしい部類です」

「そうでしょうか?」

「ぼくは、家へ往診にいくだけでなく、老人施設の嘱託医として施設にもいっているんです。老人施設にあずかられたご老人のところに、お嫁さんは、まず来ない。見事に顔をださない。たずねてくるのは、息子ばかり。服のいれかえとか、冷蔵庫の管理とか、本当は女性がやったほうがスムーズだろうことも、なれない息子さんがやっている。

そういう、私も、年とった母親を施設にいれるつもりでいます。理由は、妻がめんどうをみないからです。嫁が姑のめんどうをみるのは、不幸なことなのですかね?」

 尚樹は、亡くなった神野一樹の部屋にあったパソコンのスイッチをいれた。

「あれおかしいな。確かに、ここに、『回想録』を文書にしたものをいれておいたのだけど」

「無くなっているというのかい?」

「ええ。でも、大丈夫です。バックアップがぼくのUSBメモリーにはいっています。あとで、これを送ります。えっと、クニイチさんのメールに送ればよかったですか?」

「ああ、お願いするよ。だが、確か、警察の報告では、盗まれたものはなかった、ということだが。もしかして、その『回想録』のファイルは、唯一、盗まれたものなのかな?

念のため、このパソコン、お借りしてもよろしいですか?」

 そう私が言うと、尚樹は言った。

「もしかしたら、文書が、ここのパソコンに入っている、と思ったのは、ぼくの勘違いかもしれません」

「そうかもしれない。でも、念のために」

 神野美樹と尚樹の了解を得て、私が、神野一樹のパソコンを借りだすことにした。

 パソコンのキーボード上にも、不可解な「死んだ神野次郎の指紋」が残されているか、警察で調べてもらおうと思いついたからだ。

 私が、自分の指紋がつかないように手袋をはめ、そのパソコンを袋にいれている様子をみながら、尚樹は感心したように言った。

「本当に、探偵さんなんですね。もし、さしつかえなければ、最近、あつかった事件で、面白い話があれば、聞かせてもらえると嬉しいな」

「こら尚樹、失礼なこというんじゃあありません。それに、プライバシーの問題もあるでしょ」

 母親は、息子を注意した。

 でも、私は、少し嬉しくなった。

 そう。

 普段の単純な仕事の繰り返しの中で、ダイゴと共に楽しめる謎解きは決して多くない。だが、それこそが、今の生活での私の生きがいでもあった。

 だが、それを、話す機会は、今まではアイちゃんしかなかったし、彼女以外に話しをすることなど考えたことはなかった。

 でも、目の前に興味で目を輝かしている少年をみて、私は話さないわけにはいかない、と思った。たとえ、探偵という仕事が、彼のイメージとはずいぶん異なるのが実像だとしても。

「大丈夫です。では、尚樹君のため、また今度別の機会に、実際にあった事件のお話をいたしましょう。でも、でてくる名前は、偽名ですからね」

 そう答えながら、私は、いつも話をする相手の、愛するアイちゃんのことを思い出した。

 そして、私は気がついた。

 自分は、ダイゴと共に謎を解くことも好きだが、謎について他の人に話すことも同じように好きだということに。

 そして、そのおかげで、今みなさんが手にとって読み始めている、この「アベマリア」のお話はうまれたのだ。

 そんなことをぼんやりと考えていて、集中力が少し低下した私の耳に、ダイゴの話し声が入ってきた。

「それに、おこがましいですが・・・人間は、みな二人以上の人間からできているものです。つまり、ひとつの性格だけではない。これは、『オモテ』と『ウラ』という意味ではありません。集団が違えば、あるいは同じ集団でも時期が違えば、その中にいる人は、それぞれ違った役割、顔を演ずるものです」

 どこかで聞いたことのあるこのセリフに、ぼくは思わずニヤッとした。

 ダイゴ、お得意の、「人間、3つの顔」説だ。

 彼は、よく、ぼくや周りの人に語るのだ。

「推理するのに、この知識が役立つかどうかはわかりませんが、少なくとも、人間を理解する上で、家庭とか職業とか性格とか社会背景などのほかに、『人間には3つの顔がある』ということを知っておくべきだとぼくは思う、3つの顔、とはすなわち①自分の顔②自分自身が持っていると思っている顔③他人がみている顔、のことで、いずれも異なっているが、実はいずれも本当の顔なんだ」


    2


 その日、いつものように、ダイゴは、仕事を終え、サックス練習をレントゲン室でおこなったあと、2Fの院長室にあがってきて、私の用意した簡単なつまみで、お酒をのみはじめた。

私が用意したものは、パンとチーズ、サラダ、そして貝とイカをイタリア風にオリーブ油とニンニクでいためたもの。

 最近、ダイゴは家で食事をせずに、クリニック2Fの院長室にある小さなIHヒーターのコンロでひとり夕食を作って食べることが増えた。

 焼きそば、スパゲッティー、鍋、など。

 今は、スーパーで売る一人分の惣菜の種類が増えたし、冷凍食品やレトルト食品なども充実してきている。一人暮らしで、毎日カップ麺かインスタントラーメン、というような、私たちが若者の時と比べて、自分でつくりやすい食事のバリエーションが増えた。

「確かに、最近、『おっさん、ひとり飯』やっているな」

と、それはダイゴも認めている。

「今日の、私が用意してきたつまみは、どうかな?」

と私がいうと、ダイゴは指をつきだした。

 最近、こういうパターンが少なくない。

 たしかに、ダイゴの生活は、ここ数年で変化した。

 毎日、クリニックからそそくさと奥さんと子供のいる家にもどっていく、という風ではなくなってきていた。

 しかし、次のことは、相変わらず変わらないままだ。

 私たちが、手がける『事件』について話すこと。ダイゴが私の話を聴いてコメントをだし、またそれに対し私が反論する。そして、それに対し、またダイゴが意見を出す。

「こういう時間は、ぼくにとって、どんなおいしいお酒や美女とすごすよりも楽しい時間だよ」

 私の気持ちもこのダイゴの言葉と一緒だ、ということも、相変わらず変わらないままだ。

 そして、今のお楽しみはもちろん「1年前に死んだ神野次郎の指紋が、なぜ、今回死亡した、次郎の父親の神野一樹の部屋から検出されたか?」という謎だ。

ただ、今回は、その謎を解いていく際、私は楽しみだけでなく、辛い気持ちも味わわねばならかった。

「クニイチがメール転送してくれた、尚樹君が口述筆記をしていた、神野一樹氏の『回想録』。読んだよ。謎を解いていくための、ヒントがいろいろあったよ」

 そう私に言ったダイゴに変わって、私はダイゴに伝えた。

「それはよかった。あと、もうひとつ。こちらが警察で仕入れてきた新情報もあるから、聞いてくれないか?」

 

 警察の情報では、1年前に亡くなった神野次郎の死因は、自然死(病死)では、なく、他殺だった。

 殺した人物は、フイリピン国籍の男。名前はヒロシ。

 殺害の動機は、完全にははっきりしていなかった。公的には、二人が喧嘩をして、ヒロシが逆上のあまり、次郎殺害に及んだ、となっている。神野次郎は、複数回にわたりフィリピンに旅行をしていて、既にヒロシと顔見知りだった。二人の間にもともとあった、何らかのトラブルの結果、ヒロシが神野次郎を刺殺したのだろう、というのが1年前の捜査で示唆されていた。

 ただし、その殺害者のヒロシは、日本のホテルに滞在中に、神野次郎殺害後まもなく、自殺した。

つまり、神野次郎の殺害事件は、被疑者死亡の案件となった。

 少しではあるが、かつて、神野次郎の娘の「幼い依頼」の事件を通じて、彼と話をしたこともある私は、この警察の報告に驚いた。

彼は、事件にまきこまれるような風にはみえなかったから。妻子を大切にし、コツコツ仕事を続けて行くタイプという印象だったから。

そして、ダイゴもまた、そのことをはじめて知ったとのことだった。

「神野次郎が、刺殺されたということは、ぼくも今回はじめて知った。1年前に、亡くなったということは、家族に、クリニックの外来に来た時とか往診のときに聞かされていたが、てっきり、病死だと思っていた」

「普通の死ではないもの。クリニックに来たり、往診で見てもらったりしていたとしても、そのへんは隠すのは普通だろう」

と、私はダイゴに言った。

 そして、私にとってつらい事実となったことは、この後の情報だった。

神野次郎を刺殺したのは、フィリピン国籍のヒロシという名の男性。その動機として、ヒロシの妻と神野次郎が浮気していたことを知り、その嫉妬から、という可能性も検討された、と言うのだ。

ヒロシの妻によると、彼女は、あらかじめ、ヒロシから、ヒロシが神野次郎に直接会って、浮気をやめるよう抗議すると知らされていたそうだ。だが、刺殺まで及ぶとは、そこまでは考えていなかったと、ヒロシの妻は語ったという。

そこで、一息してから、私はダイゴに言った。

「ぼくがショックだったのは、そのヒロシの妻とは、あのアイちゃんだったんだ」

 私は、努めて冷静に話をダイゴに伝えたつもりだった。

 だが、声は震えていたかもしれない。

 私が思いをよせる、アイちゃん。

 夫がいるということは知っていた。だが、夫以外では、私に一番、思いをよせている、と思っていた。

 だが、私とデートをしながら、神野次郎とも浮気をしていたなんて。

 話をしたあとも、私の胸は締め付けられていった。

 ダイゴは、私の話を聞いて、しばらく黙りこんだ。

 ワインに口をつけ、つまみのチーズやハムに手を伸ばした。

 そして、しばらくすると、院長室の隅においてあった、キーボードの電源のスイッチをいれた。

「サックスの練習は、相変わらず続けている。

 街のサックス教室とその発表会。それ以外にも、中高校生では吹奏楽未経験の、初心者むけの、月1回の吹奏楽体験のイベントに参加したりしてね。

 さらには、最近、サチさんという音大のピアノ科を卒業した女性と、サックスとピアノのデュオを結成して、あちこちの老人や障害者の介護施設で、ボランティア演奏もするようになった。

 そして、最近、たまにだけど、そのサチさんに教えられて、キーボードの演奏の練習も始めたんだ。

 まだ、下手くそだけど、少し聴いてくれないか?」

 ダイゴは、つっかえ、つっかえしながら、まだ覚えたてという曲を演奏した。

 そんな有名な曲ではないかもしれない。

 だが、私は、その曲に聞き覚えがあった。

 久しぶりに思い出した。

「ベティーブルー」というフランス映画にでてくるピアノ曲。

 タイトルは「ほら、風がでてきた」、だったかな?

 映画の中で、小説家志望の男性が精神異常の恋人のベティーと二人でいる時に、ベティーのために、ピアノで弾く曲だ。

 ふたりの暮らす部屋の中で。ピアノが置かれている楽器店やバーの店内で。男はピアノでその曲を弾いた。

 即興風に。タバコをくわえながら。

 最後は、精神病院に収容された恋人のベチィを、その男が殺すという、悲劇の映画だ。

 私が、若いころ、パリに行き、泥棒稼業をしていたあの頃、映画館にひとりで観に行った映画。

 ダイゴも、その映画を観に行っていたんだ。

 私は、ダイゴの弾くピアノのメロディーとハーモニーとリズムで、しばし現実を忘れ、過去に飛んだ。

 ダイゴのキーボードの演奏はお世辞にも上手なものとはいえなかった。だが、ぼくの記憶の中の演奏によって補われ、完璧なものとなっていた。

 感動する音楽って、実はそういうものでないかい?


    3


 いつのまにか私の中の、アイちゃんが浮気をしていたと知った悲しさは、薄まった。もちろん、消えることはなかったが、気持ちが楽になっていた。

 演奏を終えたダイゴに、私は尋ねた。

「その、ピアノ弾きのサチさんという女性とどこで知り合ったんだい?」

「ある老人介護施設さ。ぼくはそこへの往診をひきうけたんだ。そして彼女、そこで、介護士をしているんだ」

「おやおや、ダイゴも意外にスミにおけないな」

「おいおい、からかうのはやめてくれよ。最初は、まわりの介護士から自分が少し浮いているのだが、自分の考えることはまちがっていないか?医師からの意見を聞きたいという相談をうけたんだ」

「へー、どんな?」

「介護士の中で、介護される老人の、人間としての尊厳を守らない人がとても多くて、つらい、というんだ」

「そうか。難しい問題だが、大切な問題だな」

「そう。きりがないし、とらえどころがない。ただ、そのときの相談は比較的、具体的だった。

 多くの、経験豊富な、介護のプロがやっていることだというのだが。

 まず、食事のとき、服を汚さないようにと、エプロンを首からかけられるのだが、そのエプロンの先はテーブルの上にひろげられ、そこに食器が置かれるらしい。あとの掃除が楽らしい。でも、これだと、利用者は食事のときに身動きができない。いわば、エプロンをつかった拘束ではないかと。

 次には、入浴のとき。体が不自由な人が寝浴するとき、頭、上半身、下半身と、役割分担されて、介護士が一斉に洗いだす。これでは、洗車するのと同じではないかと」

「へー」

「他には、いろいろな食べ物を、混ぜて提供するということ。暖かいコーヒーの中に水をいれて冷ます、というのは序の口。プリンをお粥にいれる、牛乳をみそ汁にいれる、ムース食に栄養剤をまぜる。味の組み合わせでなく、食べ物の形状があえばいいらしい。でも、それ、もし、自分だったら食べられるか?と」

「ちょっとごめんだな」

「問題は、こういうことができることが、介護の工夫で、そういう事を知っていることがプロフェッショナルのあかし、という風潮が強い、ということらしいことだ。

 利用者が、食事が遅いのを待てない。

 利用者が失禁すると、どなりつける。

 そういう介護士は、施設の掃除にきた外部業者にさえ、『ケアの邪魔だ。どけ』と平気でどなりつける。

 とにかく言葉があらっぽい。TPOを考えず、大声で、「ウンチ」の話をする。施設での検温のたび、あるいは利用者がデイサービスから帰ってすぐ、利用者に大声で、『ウンチでた?』と聞く。利用者の中には、『ウンチ』ノイローゼになって、夢にまで『ウンチでたか?』と聞く人が現れた、という話だ。

 そして、そんなにウンチの話を聞きまくるにもかかわらず、ある利用者が便失禁をしても、その日に入浴の予定があると、おむつ交換をすぐにしない。

『どうせ、お風呂にはいって、洗うから』と。

 あるいは、利用者が、転んだり、少し様子がおかしいと、すぐ血圧を測り、測って満足しておわりらしい。

 ぼくは医者だから、血圧などどうでもよくて、全身状態の観察につきる、と思うがね。

 確かに、ぼくの外来にくる老人やその家族には『血圧が高いと、デイサービスで、お風呂にいれてもらえません。薬をどうかふやしてください』と、泣きながら懇願に来る人が少なくない。

お風呂にはいるために、血圧の薬を増やす?

 でも、どんなに増やしても、お風呂に入る前に裸になった直後や湯船にはいった直後は、血圧があがるさ。

 第一、お風呂と血圧の関係で問題なのは、血圧が高いことよりも、しばらく湯につかったあと、血管が開いて血圧が下がることのほうだ。降圧薬を増やして、この血圧が下がり方が増すほうが危ない。

 でも、繰り返しぼくが説明しようが、誰が説明しようが、現状を変えようという動きはおきない。

 『熱がある人はお風呂にいれてはいけない』というようやく病院ではなくなった『迷信』が、知らないと介護士としてはずかしい『知識』ともてはやされている世界だ。

 そして、そういう介護士たちは、一見、悪人面をしているわけではない。

『あなたのためを思って』という態度だ。だが、実際には、そこに、『自分の介護の仕事を楽にするため』が隠れている。

 だからこそ、問題は根深い。

 たくさん食べると大便をして処理がたいへんだから食べさせない。たくさん水をのむとおむつ交換の回数がふえるので飲ませない。

 こういう介護者の割合は、残念ながら決して少なくない。いや、婉曲な表現をやめれば、むしろ、多い。

しかも、その割合は、介護士としての過去の経験が多い人の中にほど、あるいは介護福祉士のような資格をもった人の中にほど、多い。

そして、彼らは、介護の仕事をはじめた新人にその『悪癖』をおしつける。あるいは、背中で、示す。

悲しいことだ」

 いつものように、私はダイゴの話を、なるほどという顔で聞いていた。だが、話を聞きつつも、私は、

(サチさんはダイゴと、今、どんな関係なんだろう?)

ということのほうが気になっていた。



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