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第1章 同業者の匂い

第1章 同業者の匂い


    1


 昔、泥棒稼業をしていた経験は、私立探偵をやっていく上で必ずしもマイナスとはいえないと思う。

 私、表邦一(みなクニイチと呼んでいる)がそんな稼業に手をそめたのは、学生時代にヨーロッパの一人旅に出かけて5年くらいして、どうにもこうにもお金のやりくりができなくなったためだった。日本人の旅行者相手を中心としたその稼業は、考えていたよりも簡単で効率がよかった。

その当時は、考え方を少し変えることで人生は暗くも明るくもなると驚いたものだ。

そんなこそ泥をやっていた私の正体をはじめてあばいたのが、旅行にパリにやって来た医者のダイゴだった。

 そのときの話はいずれ語ることもあろう。

 とにかく、彼との出会いにより、私は、泥棒稼業から足をあらい日本へ帰国することにした。

 日本に帰ったところで、大学を中退して5年間もヨーロッパで何をしていたかわからない(実際、何をしていたと自慢できるものはなかったが)30歳に近い男が働き口を日本で探すのは大変だった。

 体で覚えたフランス語をいかす仕事をと思ったが、日本にやってくるフランス人観光客は決して多いとはいえなかった。

ポルトガル語やスペイン語での仕事は少なくなかった。それは観光ガイドではなく、日本に働きにきている人たちへの援助とか、あるいは彼等が犯罪をおこなったときの尋問の通訳の仕事だった。

 派遣の仕事も考えたが、臨時ではいってくる観光ガイドの仕事をするためには、喫茶店やコンビニのアルバイトの仕事の方が都合よかった。といっても、これらの仕事だって、急に欠勤することを伝えると、理由を言っても「もうこなくていい」というオーナーは少なくなかったが。

 結局、たどりついたのは、興信所の仕事だった。

 浮気調査、身辺調査が中心のこの仕事で私はめきめき頭角をあらわした。

 さらに、ある依頼で泥棒をつかまえる機会にめぐりあい、そのとき警察からの信頼を得たことがきっかけで、私は独立開業し「クニイチ私立探偵事務所」を開くことができた。

 今でも、難事件がおこると、警察から私の方に、事件の解決のための協力のお願いが後をたたず、それが小さな私の事務所の経営の大きな支えになっている。

それにしても、元泥棒が泥棒を捕まえるというのはなんと皮肉なことであろう。

だが、そのことはもちろん警察には話していない。

この秘密は墓場までもっていくつもりだ。

なにも約束したわけではないが、ダイゴもこの秘密を守ってくれるに違いない。

なにしろ、個人情報を口外しないというのが医者の義務のひとつなのだから。


    2


 通称、ダイゴこと小島大虎は、50歳を少し超えたくらいの年だったが、顔は若作りで、30歳後半といっても世間では通用するかもしれない。

しかし、最近腹がではじめた典型的な中年の体型をしていて、そんな医者がメタボ検診でアドバイスをしたところで誰がそのアドバイスを守るだろう、と思ったりする。

それでも、彼が2年ほど前に開業した個人クリニックはよく流行っていて、1日に50人平均の患者がやってきていた。

 ダイゴがパリで私に会ったのは、彼が勤務医をやめて開業する直前のことだった。

「開業したら、借金もあって、しばらく旅行なんてできないと思って。今回はその前に長期の休みをとったんだ」

 長期といっても1ヶ月くらいの旅行者で50歳の中年男のダイゴに、5年間パリにいた30歳の若者である私が、まんまと尻尾をつかまれたのだった。

 日本にもどると、私はすぐダイゴと連絡をとった。

 彼はクリニックで忙しくあまり外に出られず、私の方から彼の方を訪ねるというのがもっぱらだった。

 患者としてではなく、「友人」として彼と会うのは、彼の仕事が終わった夜の8時すぎだった。

 彼は、いつも親切で、私が独立開業する前には、時に生活資金の援助をしてくれることもあった。

 ただ、探偵事務所の開業資金の借り入れを私が頼んだとき、彼はこう言って断った。

「ぼくにとっては、君との関係が、ずっと対等のままであることが大切なんだ」

 私が、ダイゴのところをときどき訪ねるときの話題の中で、私の手がける「事件」のことは、私にとって、そしてたぶんダイゴにとっても重要な位置をしめていて、それが私たち二人を結び付けていた。

 私が話すことを、ダイゴは書斎探偵よろしく熱心に聴いてコメントをだし、またそれに対し私が反論する。

「こういう時間は、ぼくにとって、どんなおいしいお酒や美女とすごすよりも楽しい時間だよ」

 そのダイゴの言葉と私の気持ちは一緒だった。

 おまけに、ダイゴには、天性の「探偵」としての能力がそなわっていた。正直、本業の私が、とても彼にはかなわない、と思わされることがしばしばあった。

 そう。二人の時間は、私にとって楽しみであると同時に、からんでしまった自分の思考回路をときほぐすために有益なものでもあったのだった。

「かのシャーロックホームズを創造したコナンドイルも、ぼくのようなおちこぼれの医者だったじゃないか。彼は、自分のクリニックがあまりに暇で生活をしていくために推理小説を書きはじめたらしい」

「ダイゴ先生は、おちこぼれの医者じゃあないじゃないか。患者さんもたくさんきてクリニックも流行っているし」

「勤務医をやめて開業医になった時点で既に『おちこぼれ』という感覚がぼくにはある」

「それはちょっとおかしくないかい?それにほかの開業医の先生に失礼な話だ」

「だからそういうことは、君にしかしゃべらない」

「そんな風に言うなら、ずっと外科医を続けていればよかったじゃあないか」

 ダイゴは、開業する前には、大きな病院で外科医として20年以上働いてきていたのだ。50歳前というのは、一番外科医として円熟しているころだ。そして、そのピークにその仕事をやめ開業することにしたのだ。

 その理由について、ダイゴは私にこう語った。

「少なくとも、20年続けてきた外科の仕事をやめ、開業すると決めたとき、もう心残りはなかった。やることは、やった。もう心残りはない。外科医としての勤務医の生活を、もうやめとうと思った細かい理由をもしあげろというなら、これから、自分に待っている、大病院の管理者としての仕事に興味が持てなかったこと、ここ数年、時代の流れで、やらざるをえなくなりやってきた『腹腔鏡手術』に、どうしても情熱を持てなかったことが、あげられるかもしれない。『腹腔鏡手術』はなくてもいい手術、という思いが、どうしても心の中から消えなかったんだ。

 でも、限りが見えてきた自分の人生。これからは、もっと自分のやりたいことをやろう、もっと余裕のある時間をすごそう。そういう思いが、一番の理由だった。50歳を目前に控えたときのことだ。

 だが、外科の仕事を始める前に、外科の仕事とは何か、よくわかっていなかったと同様、開業する前には、開業とはどういうものなのか、実は、ぼくにはよくわかっていなかった。

 なかなか、集まってこない患者。風邪や、95%は不合格のコメントがはいる健康診断で『異常』とされた、高血圧や高コレステロール血症の患者への対応。

 外科の看板を掲げているといえども、開業するとなると、手術などの機会はなく、あらたに内科の勉強?が必要だった。

勤務医の外科医は、ほとんど、高血圧や高コレステロール血症や糖尿病の薬の名前を知らない。正直、それらは、病気の中にはいらない、という感じだったもの。

 実際、入院して手術となると、高血圧や糖尿病の飲み薬はすべてやめていたからね。必要なときは、短期で注射薬を用いる。

 なので、開業後は、まず、のみ薬の名前を、一から覚えることから、スタートした。

 そして、外来での患者応対のスキルについても少し勉強した。『コーチング』『アンガーマネージメント』についての本は、多少なりとも役にたった。

 患者が『ずっと、調子が悪いんです』というとき、この『ずっと』は、1日のときもあれば、1週間のときもあれば、1カ月、1年のときもある。でも『正確に言ってくれないと困ります』というかわりに、正確に聞きださなければならない。

 『体がえらいんです』といわれて、『元気をだす薬は世の中にはありません』と怒らず、『あの白い薬がほしいんです』と言われて『薬の色はほとんど白です』と言い返さないようにするには、素手の心では荷が重いからね。

 ちなみに、漢方薬は『元気をだす薬はありません』と言わずに、『効果は全員にはありませんが、こんな薬が効くかもしれません』と、提示するのに、役に立つ。

 これらは、ぼくにとって、確かに新しいことだったかもしれない。

 そして、内科開業医の主な仕事が、予防接種をすることと、冬季のインフルエンザの診療の二つであることがわかるのに、3年ほどかかった。一方、実際に開業医が診療に使う知識や技術は、医師になって3年ほどの期間で、だれもが習得しているレベルで十分対応できるものだった。

これらは、もちろん、無意識に開業前からわかっていたことだった。それが、しっかりと意識できるようになっただけのことなのだが。

 ちなみに、少し調べれば、(高血圧と違い)高コレステロールが健康を損なうという証拠は、まだないことがすぐにわかる。つまり、今の社会においては、官民が共謀して『高コレステロールは健康に悪い』というウソを、真実としている。この、ウソとわからなくなってしまったウソは、国のお墨付の『健康診断』や、メディアでの広告で、疑いなく正しいことされていることでわかるだろう。

細かい話だが、『外科』と『整形外科』はまた違う。整形外科では、脳梗塞後や骨折後のリハビリを提供する。

 それは、それとして、女性ホルモンがなくなることで、いわゆる『更年期』からはじまる骨粗鬆症という病気をなおすといわれている薬。それが、今ある薬では、検査所見は改善するが、骨折を予防しないというデータが確定していることを、声高にいっても、虚しいだけだ。

 とはいえ、これらのウソは、『日本は戦争をしないといけない』というウソに比べれば、生活に実害がないウソだから、ムキになって否定することは滑稽だとも思う。でも、そういうウソの広がり方は、不気味で、一歩間違えば、という気持ちにもなる」

 ダイゴは、こんなことも、言った。

「昔と違って、クリニックはそんなにもうからないんだ。

 ぼくの小さい頃は、新聞に長者番付(たぶん、市民税の納付上位者)が、なぜかのり、そこには、必ず何人か、開業医が入っていたことを覚えているよ。今も、そのイメージが残っていて、クリニックがもうかる、と思っている人が多いようだけど、現状は違うんだ。

とはいえ、ラーメン屋が、仕込みをしたり、店内の掃除をしたり、そして一杯1000円で、ラーメンをつくり提供し食べさせ、後で皿を洗う(一連の行為で、一人20分くらい?)のにくらべ、クリニックは、極端な例では、定期薬を処方するだけなら、3分間で4000円の売り上げだ。4000円のフランス料理のコースをつくる手間、材料費、食べるのにそこに客が滞在する時間と比べても、断然効率は破格に良いといえる。

 しかし、1日50人の患者を1ヵ月20日間みたとしても、一月に400万円のうりあげ。もし、土地代や建築代や医療機器の初期費用の返済があれば、他の業種より楽とは言え、長者番付には程遠いのが実際なんだよ。

 では、昔、開業医に金持ちが多かったのはなぜか?

 昔は老人医療費が無料で、沢山の老人が診察にきたから?『診療報酬』が高かったから?

いずれも違う。今は、老人のかわりに子供の医療費は無料だし、『初診料や再診料』がさがった分、いろいろな『加算』がそれを補えるしくみになっている。

 実は、昔の開業医は薬の売上代でもうけていたんだよ。

 今は、院外薬局。たとえ、院内薬局のあるところも、昔のように、安く薬を仕入れ、高く売る、というようなことは、もうできなくなっている。薬のダンピングは、今の時代、もう存在しない。薬の売上の利益の90%以上は製薬会社が手に入れる。残りわずかが、薬品卸会社へ。薬局、クリニックは、直接的な薬の売上からの利益を得ない。薬局は調剤料、クリニックは処方箋料、という、薬の代金と無関係な利益を得るだけだ。

 昔のように、安く薬を仕入れ、高く売る、というやり方がのこっているのは、美容医療の世界のみだ。この『自費診療』の世界では、購入薬の5倍、10倍の値段で薬が売られることはめずらしくない。しかも、保険診療によって国からの補助がないので、顧客側の負担は膨大となる。結果、美容医療は、一部の富裕層のみが、対象となり、その薬の種類も限られている。だから、結局は、昔のようには、いかない。

『自費診療』で、もっとも、安定しているのは『健康診断』であるが、安定している分、利益率は高くない。

 いずれにせよ、開業医がひとりの患者をみて得る診療報酬は、勤務医が入院患者をひとりみる診療報酬の100分の1だ。理屈では、開業医は、勤務医の100倍の患者人数を見なければ、同じだけ稼ぐことはできない。ただ、勤務医は、10倍以上のスタッフと医療機器をそなえているから、比較は簡単でないがね。

 ただ、どうしても付け加えなければならないのは、このクリニックでの売上単価4000円のうちの7割は、国の税金が投入されるということなんだ。そういう意味で、医療を行う限り、社会的責任からのがれることはできない、ということなんだよ。たとえ、クリニックの売上単価が総合病院のそれの100分の1だとしてもね。

 でも、『返戻』と言って、実際は必要な診療だったのに『理屈上は不要だ』と厚労省管轄の役所が、その7割の補助金を交付しない、交付するなら、なぜそれが必要だったか、説明文を書け、という書類のやりとりが、毎月あるのだが。

 一件の『返戻』金額が、100万円くらいだった勤務医を経験すると、1件1000円の『返戻』は、どうにでもしてくれ、という気にはなる」

ダイゴの話の、細かいところまでは、私はわからなかった。

ただ、興信所の世界で何かしの秘密があるように、開業医の世界にもなにかしろの「からくり」があるということは察しがついた。

 私の反応が鈍いことを察したのか、ダイゴは話しの最後にこう付け加えたのだった。

「とにかく、探偵と医者の仕事の間には少なからぬ共通点があるんだ。それは、説明すると理屈っぽくなって伝わりにくいが。

 例えば、見えないものをわずかに見えるものから想像すること。

 あるいは、正しい選択というのが、単に論理としてや科学的に正しいというだけでは正しくなく、人間の感情が、筋のとおった治療の正しい選択に加味されること。かな?」


    3


 ダイゴのクリニックは首都圏の郊外で、電車で30分ほどはなれた地方都市のやや中心からはずれたところにあった。

 私の探偵事務所は首都圏のビルの中だが、住むところは、ダイゴのクリニックのある地方都市の駅近くのアパートを借りていた。

 家賃が安く、田舎で空気もよく、かといって職場に通うにも便利だったからだ。といっても、職場に泊り込んで家に帰れないということはしばしばあったが。

 でもそれは常ではない。

 なんといっても、仕事がはいれば徹夜続きのこともあるが、仕事が多すぎて、まわしていくのに困るというほど、流行っている探偵事務所ではないし、それほど働くつもりもなかったからだ。

 クリニックのまわりは田んぼが多かった。たまたま偶然に農地転用が可能なところになった土地に、ぽつりと建てられたものらしい。

 建物の概観は白い壁を基調としてWの字になっていて、むかって右側は1階建て、左側は2階建てで2階には院長室やスタッフ室があった。広いガラス窓のある待合室と、受付とその後ろにあるやはり広いガラス窓をとおしてみえる中庭の木が印象的な建物だった。

 最近のクリニックの傾向どおり、ダイゴは、この土地を借りて、建物だけは新築し、自宅からこのクリニックに通って仕事をしていた。

 診療時間は朝9時から12時。昼休みをはさんで午後3時半から6時半。基本的に、朝、診療開始前に、1日1件、経鼻内視鏡で胃の検査をおこなっていた。内科、消化器科、外科、皮膚科の看板がかかっていたが、ようするに、風邪や切り傷、いぼから予防接種まで、軽いものはなんでもみて、数少ないがほおっておけない重症者を市内の大病院に紹介するというのが地方のクリニックの平均的仕事だ。

 ダイゴは午後6時に受付がおわり、午後6時半ごろ、クリニックのスタッフが帰宅したあと、毎日15分、クリニックでソプラノサックスの練習をしてから帰宅するというのが日課だった。

 練習場所は、クリニック内のレントゲン室。

 放射線を遮断するために鉛が壁にはいっているので、完全ではないがある程度の防音効果があった。アンプを使った電子楽器でない、サックスの音にとっては充分だった。

 ダイゴがサックスを始めたのは、この開業と同時だった。つまり、まだ2年くらいのキャリアしかない。

 もともとピアノやドラムの演奏を少ししていたというが、いずれもまったく素人の域をでない腕前だった。だが、音楽が好きなことは好きなようだ。

クリニック開院のときは、待合室を使ってサックスコンサート(出演はダイゴでなく、ダイゴのサックスの先生とその仲間)を開き、1周年には、東京の町田で少し名の知れたストリートミュージシャンを招待して、ピアノのひきかたりの出前コンサートをおこなった。

「次は、ダイゴ先生のソロコンサートかい?」

と、私がからかうと、「よせやい、無理、無理」とさかんに照れる姿がかわいかった。

 だが、ダイゴ流の言い回しだと、こんな感じに言葉が返ってくる。

「音楽家はいいな。彼らは人々に幸福を届ける。彼らの演奏は人を幸せな気持ちにする。

一方、医者はどうだろう。医者はいつも人々に不幸を届ける。病気になったとか、なおらないとかいう悪いニュースを届けるのが仕事だからだ。どうやっても、人を不幸な気持ちにさせてしまうのだ。どう工夫して伝えようが多かれ少なかれ『心無い』と思われてしまうのだ」


    4


 私立探偵事務所をやっていく上で大事な素質はなんだろう?

 ある人の人となりが、その人の職業を選ばせるときもあれば、職業がその人の性格を変えていくこともある。

 しかし、私のいる、世間で「興信所」とよばれる職場は、かなり幅広い素質の人をうけいれることができるのではないかと思っている。

 しかし現実は、高収入と社会的名誉を重んじる人は決して私のいるような世界に入ってこないものだ。

 私は、自分でいうのもなんだが、なんでも即座に実行するタイプだ。

 お金は現金払い、事があればすぐ喧嘩するし、歯医者の予約時間に遅れたためしはない。

 当然、ひかれた女性に対しても、直球勝負。

 たとえ、はじめて会った相手でも、好みとみればすぐくどく。好みであれば、の話だが。

 だから、ひとりの女性と長くつきあうというタイプではないのだが、このアイちゃんという女性だけは特別な関係だった。

 一緒に歩いていても、すぐにすれ違った女性を振り返ってしまう私を見捨てることなく、私につきあってくれる。

 彼女は、結婚していて立派なだんなさんもいるのだが、私からの食事の誘いに3回に2回はつきあってくれる。かといって、私に夢中という風ではなく、その証拠に、彼女のほうから私を誘うことはない。

 夜遅くなっても、いっこうに平気な彼女に、私の方が遠慮して、

「だんなに、遅くなるって連絡しないでいいのか?」

というと、決まって

「大丈夫。夕ごはんはつくってきたし、遅くなるっていう手紙も書置きしておいたから」

と、あっけらかんだ。

 夫婦の間に子供のいないのも大きいのかもしれない。

 そして、彼女はひそかに、「小説家」になることを計画しているという。

「クニイチの話、ネタになりそうなものが多いから、いつも楽しみにしているの」

「そうかな?」

「わたしは、よくできた主婦と思われているでしょう?だから、あなたの話してくれるようなどきどきした経験、できるわけないし。でも、自分で経験しなくちゃお話を書けないなんてことはないわよね。そうだったら推理小説作家は、一生に一冊しか本を書けないことになるわ。だって、一度、人を殺したら、一生牢屋の外に出られないもの」

「ぼくは、人を殺したことはないよ」

「わかっている。そんな、幼稚な話は聞きたくないわ」

「幼稚?」

「人を殺して嫌な相手を世の中から消してしまえばいいって、一番芸のない、小学生でも思いつくような解決方法でしょう?何にも考えてない。考えずとも思いつく」

「でも、そうする前には、複雑な思いが」

「わたしは、単純に思い、複雑に行動するほうが性にあっているの」

(やれやれ。このアイちゃんには、口では、けっしてかないそうもないや)

 かなわないのは、口だけではない。ぼくが、年間30本くらい30年間食べても1回も当たったことはない、ガリガリ君アイスの「当たり」を彼女は、初めて食べた時にあててしまったのだ。

 私は、目の前のワインを飲みながら、今日もまた、ある事件について彼女に「報告」をはじめるのだった。

 それが、私とアイちゃんのデートの時間の定番だった。

 でも、それが、私の「愛している」という思いの伝え方だった。

 アイちゃんは、私のことを愛してくれているのだろうか?

 でも、そんなことは、私には関係なかった。

 話すことが、わたしの気持ちを伝えることで、その内容とか、アイちゃんが私のことをどうおもっているか?とかは、二の次だと私は感じながら、その時間を楽しんでいた。


    5


 私が、いつものように、ダイゴ医師のクリニックが終わったころ、そこへ遊びに顔を出すと、ちょうど彼の携帯がなった。

 ダイゴと電話の主は少し押し問答になったようだった。

 ダイゴは携帯をきると、私に向かっていった。

「いつものような、仕事のあとのゆったりした時間は、今日はおあずけだ。ぼくの患者自身から、調子が悪いので診にきてほしいという往診依頼だ」

「急患なら、いつも『救急車を呼んで大きな病院の救急外来に言ってください』と答えるダイゴ先生にしてはめずらしいな」

「今回もそう答えたさ。そしたら、電話の向こうで『なんで救急車を呼ばないといけないんだ』とすごい悪態だ。確かに自分で往診依頼の電話をかけてくる患者が急患なわけはないだろう?救急車を使え、とはいえないよ。

この患者は、自分の家で死にたいといっている、がん患者なんだ。今までも、痛みが強くなると不安になって電話をかけてきたときがあるんだ」

「おれもついていっていいかい?どうせ、一人でやることないし」

 ダイゴは、自宅からクリニックに、天気がいい日は自転車で通っているのを私は知っていた。

私の車はちょうど足がわりに都合がいいだろうとも思ったのだ。


 われわれは、月明かりに照らされた田んぼを横に見ながら車を走らせた。

 ひとつひとつの樹は、千本の腕と百万の指をもっているようにみえ、その上にまたたく星は、砕け散った氷の破片のようだった。

 ここは、都心まで1時間といっても、田舎の風景が広がっている。

 目的の家について、呼び鈴をならしたが、なかなか人はあらわれなかった。

数分たって、ようやくパジャマを着た中年の男が家のドアをあけた。

「先生、お待ちしてました。先生のところに電話をしたあと、しばらくして、おやじが急に動かなくなって・・・たぶんもう死んでいるのではないかと思うのですが」

 私とダイゴは、顔を見合わせた。

30分前に電話をかけてきた本人が急に亡くなった?

「死人は平気かい?」

 と、ダイゴは私に聞いた。

「死人は先生ほどじゃあないが、けっこう見ているから平気さ」

「それも、病人でなかった死人を、だろう?」

 人が一生の間に出会う死人の数は、今の平和な時代、多くて数人だろう。

 われわれのような特別な職業だけが現実の死をみる。

 TVや小説や映画やゲームでは、数限りなく人が死んでいるのに皮肉なことだ。

「がんの進行した状態だから、いつ急に亡くなってもおかしくはないんだが」

われわれは、家の中の1階の奥のほうに案内された。

 その男は死んだ患者の息子なのだろうか、少し動転した様子で、廊下の電気のスイッチを押すのにも手が震えて時間がかかり、先に歩いていく足取りもおぼつかない様子だった。

 患者は、6畳の畳の部屋におかれた介護ベッドの上に横たわっていた。

 ダイゴは、手首の脈をとり、ポケットからペンライトを取り出して瞳孔を観察した。

 患者の浴衣を少しはだけて、腹部にさわり、そして胸部を中心に全身をしばらくじっと観察した。

「亡くなっておられます。死亡時刻は不明ですが、そう時間はたってない。本人から電話があってわれわれが到着するまでの間ですな。

死亡診断書には今の時間、8時36分に死亡を確認したと書いておきます。確かに、確認したのは今ですから」

 その男は呆然と、亡くなった患者のベッドのわきに立ち尽くしていた。

「少し、書類を書くために机を借りたいのですが、どこか場所はないですか?」

「台所のテーブルででも」

「どちらになりますか」

「すみません。気が動転して・・・。大きな家でないので、適当に探してください。私はしばらく、おやじのそばにいたい」

 私とダイゴは、その男をひとり残してその部屋をでた。

 台所はすぐにわかった。

 畳の居間と板敷きの台所が続いているけっこう大きな部屋だった。

 台所のテーブルの椅子に座ると、ダイゴはすぐに携帯で電話をした。

「どこへ?葬儀屋かい?」

「葬儀屋をよぶのは家族の仕事だ。・・・警察を呼んでいるんだ」

「だって、がんの末期で、いつ死んでもおかしくなかったんだろう?警察を呼ばないといけないのかい?」

「ああ。それと、クニイチ君はまた部屋にもどって、あの男が部屋から外にでないように見張っていてくれるかい?」

 私が、部屋にもどる途中、玄関にいる男に気がついた。

「どこへいくんだい?」

「いえ、頭を少し冷やすのに外の空気を吸おうと思って」

 その声を聞いたのか、台所のほうからダイゴの声がした。

「息子さんがショックで何をするか心配だから、クニイチ君は息子さんにずっとついていてくれ」


    6


「それから、どうなったの?」

とアイちゃんは、おいしそうに、目の前のグラスに残っていた赤ワインを飲み干した。

 彼女は、飲むほどに、目がうるんできらきら光ってくる。厳格な雰囲気が和らいで、おっとりした魅力的な女性に変わっていくのだ。

「息子さんは、ついてこないでいい、とずいぶん言ったが、ぼくはダイゴのいうとおり彼とずっと一緒にいた。やがて、警察が到着し、ダイゴが驚くべきことを言ったんだ」


「彼を調べてください。被害者への殺人容疑があります」

「被害者?」

と尋ねた私にダイゴは言った。

「クニイチ君は気がつかなかったかい?ぼくが書いていたのは、死亡診断書ではなくて、死体検案書のほうだよ」

 警察は、死体とその息子がついている部屋へと急いでむかった。

 警察が目の前からいなくなると、私はダイゴに尋ねた。

「電話をかけてきた患者の息子が、われわれがまもなく来ることを承知で、30分の間に自分の病弱な父親を殺したのかい?」

「あの男が、被害者の息子だって、誰がいったんだい」

「だって、本人がそう名乗ったじゃあないか」

「クニイチ君は、彼が、パジャマを着ているのですっかりだまされたんだよ。おそらく、予想よりわれわれの到着が早かったので、あわててそこの家にあったパジャマを着ることを思いついたんだろう。われわれが呼び鈴を鳴らしても、なかなか彼は出てこなかったろう?」

「じゃあ、あの男は?」

「被害者とどういう関係かはわからない、どこかに住む強盗だろう。

家に忍び込んだら、ちょうど被害者がわれわれに往診依頼の電話をしていた。被害者が、『なんで救急車を呼ばないといけないんだ』とわれわれに悪態をついて怒鳴っていたのを聞いていて、われわれがやってこないとふんだんだろう。そこであの電話のあと、被害者を殺して、家からものを盗み外へ逃げようとした。

ところが、予想に反してわれわれがやってきた。そこで、あわてて被害者の息子になりすますという芝居を思いついたんだろう。たぶん、あの部屋の隅にあるバッグとかに」

 私が、居間の隅におかれていたバッグのチャックをあけると、そこにはくしゃくしゃの衣服がはいっていた。

「これは・・・」

「たぶん彼の脱いだ服だろう。服の下には、彼がここから盗もうとしたお金や通帳があるかもしれない」

「どうして、ダイゴはこのバッグを」

「居間に大きな旅行用のバッグがおいてあるなんてそれだけで少し不自然だろう?そしたら、そのバッグはこの家の住人のものではないと考えたっていいじゃあないか」

「ダイゴ先生は最初から、彼が、被害者の息子ではないと気づいていたの?」

「いや、最初からではない。実は、ぼくは、彼の息子の顔を知らないんだ。

でも、この家に入ってから少し気になることがあった。例えば、廊下のあかりのスイッチの場所がよくわからないとか。息子だったら、自分の父親ががんでいつ死んでもおかしくないということを知っているはずなのに、必要以上に落ち込んでいるとか。死んだあと、葬儀屋の相談とか、そこまで知恵がまわらなくても、『私はこれから何をしたらいいんでしょう?』とか普通聞いてくると思うのに黙っているとか」

「確かに、遺体のそばにずっといたいといっていたのに、すぐにひとりになりたいから外へ出たいといいだしたのは、どういうことかと思ったけどね。なんか、ぼくが一緒にいてもそわそわしていたし。

でも、気が動転しているんだと思った」

「いや、一人になってすぐ逃げるつもりが、クニイチ君に見張られるはめになって、ずいぶん彼は気が動転していたと思うよ」

「言われて見ればなるほどと思うけど、実際ぼくは気がつかなかったな」

「変装とか一人二役とか、推理小説ではトリックとしてよく使われるけど。例えばぼくはその人が本当の医者かどうか5分も話していればわかるよ。たとえ、その変装した人が、映画やテレビですごくうまく医者の役をこなせる役者だとしてもね。

それは、例えば、はじめてある外科医と一緒に手術にはいるとき、手術前の控え室で1時間話しているとき、どんな知識が豊富で口が上手な相手でも、実際に手術をはじめると5分もしないうちにその人の本当の経験や力量がわかってしまうこととも似ている。

専門職っていうのはそういうものだよ。そして、親子関係というのも、かなり専門的な関係であるんだ」

「ぼくはダイゴ先生が死体の死亡確認をしているとき、死後硬直とか死斑をみて死亡推定時刻とかをわりだしているのかなあ、とか思っていたんだけど」

「ぼくの受けもちの患者の声だ。電話で話したとき生きていたのは間違いない。死亡時刻は、われわれが到着するまでの30分の間にきまっている。それに、実は死後硬直の時間や死斑というのは、みなが思っているほど、正確には死亡推定時刻を予測しない。相当幅があり、その幅は常識的にその情報以外からわかる程度と同程度なんだ。

 例えば、激しい運動後の死後硬直は早く始まるし、死因が窒息か出血かで死斑の出方も少し異なってくる。

 そうだな。かっこいいことを言えば、そういう『科学的』な知識は、ともすると、今回のような『本当は子供ではないんじゃあないか』という『匂い』を消してしまうきらいがある。科学的な知識が本当の知識を抑圧することがある、ということだ」

「そうか、特別な知識ではなく、単純な知識をよく使うことのほうが大切なんだ」

「そうそう。フランスで誰か言わなかったかい?フランス革命が偉大なのは、新しい複雑なことを考えたことではなく、単純なことを実際に実行にうつしたことなんだ、と」


「それで、そのバッグの中身の服は、実は子供でなく強盗だった人のものだったの?」

と、アイちゃんは私にいたずらっぽい目で尋ねた。

「ああ。ぼくが、警察官の目の前で彼にその服をつきつけると、彼はみな白状したよ。警察官はぼくの話しを感心して聞いていたよ」

「いつも酔っぱらって寝てしまったクニイチを私が起こすと『俺は夢の中で事件を解決するタイプなんだ。起こされたおかげで、もう少しで解決できたのが、不意になっちゃったじゃあないか』と怒る名探偵さん。

実は、いつも謎を解くのは、本当はそのダイゴ先生なんだけど、その手柄はクニイチのものになっていたりして」

 私は少し自分の顔が赤くなっているのを感じながら言った。

「まあ・・・そういうときもあるさ」

 アイちゃんは、私のこの返事を聞いて楽しそうに笑った。

「まあ・・・でも、私、そういうクニイチの正直に告白するところが好きよ」

 私は、恥ずかしさでしばらく返事ができなかったが、やがてにこにこしている彼女は、けっして自分を軽蔑しているわけではないことがわかったので、かろうじてこう付け加えた。

「そういえば、ダイゴが言っていたことがもう1つあるんだ。相手が本当の子供なのか?とか医者なのか?とか、そういう『匂い』をかぎわける能力。

 その能力は、人は『恋におちる』とき無意識のうちに誰もが使っているんだってさ」



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