揺れる月
時川礼子は新年から慌ただしい。
埋め立て地の向こうの海に月が揺れていた。
藍色の水面に琥珀の円が形を変えている。
弁当工場の勤務時間が迫ってくるまで夜風に身を任せて、それを眺めながら水筒に入れたインスタントのホットコーヒーを飲んでいた。
あの月のように自分の心も右往左往している。
今の生活を手放すのかそれともこのまま8畳1間の古アパートで住み続けるか。
何故今人生の選択を考えているかというと、原因は職場の若い男性調理師、和島聖のおかげだった。
先日のこと、1月1日に居酒屋で熱烈に迫られて負けてしまったのだ。
その次の出勤で感じたのだが、職場も和島と礼子の間になにかあるという雰囲気に変わっていた。
特殊な仕事場なので職場恋愛は珍しくもなく、同じ事業所に居た者が結婚したら夫妻のどちらかは異動させられるので気まずい等の事は気にしていなかったが。
言い寄られて、悪い気をしてない自分がみっともなくて情けない。
そう思いながらも嬉しい気持ちが隠せそうにない自分にあきれ果てる。
あなたね、今年34歳でしょ?相手はまだ21歳よ。去年学校を卒業したばかりの。どーするの。そんな子に言い寄られて良い気になって、相手が1人前になるのに何年必要だと思ってるの?貴女が調理師として1人前になるのにだっていくら……。
ともう一人の自分がお説教をしてくる。
はい。そうです。その通りです。
と畏まって聞き入れもするが、若い心を踏みにじりたくない、彼は真剣だった。
中年の心を弄んでた訳では無いのは確かだった。
あの後もしも「冗談でした」などど他の職場の面子や彼の友人たちが意気揚々と現れようた様なものなら、礼子は店を破壊する勢いで怒っていただろう。
現に、あの夜の次の出勤の際には和島に調子に乗ってしまったと気の毒なほど謝られたのだから。
気にしないでよこっちが恥ずかしいと宥めて、また飲みに行こうとこちらから約束を持ちかけた。
こんな事を話せる親しい友達も身近には居ないと、弁当工場に歩き出す。地面が冷たく、ムートンブーツを履いてくれば良かったと黒のスニーカーに包まれた足を見て思う。
今日は和島も出勤する。
飲みに行く約束の日までは間があるが、買い物にでも付き合わせるか。やめとくか。
いつも独りだった礼子に和島という刺激剤が投入されている。
更衣室に入り、ユニフォームに着替えた。朝4時まで慌ただしく1つの弁当をベルトコンベアの傍に立ち作り上げていく。
今日はご飯に梅干しを乗せる。
その作業が終われば終わったら昼に作り上げる弁当の調理だ。
朝6時、休憩時間となった。
水筒のコーヒーを飲んでベンチに座り溜息を着いた。
和島が生活の一部になったところで礼子の物欲女王である事に変わりは無さそうだった。
この時間もアパレルサイトの商品ページを眺めている。
礼子は基本、興味の無いことには一切関わらない性分だった。
テレビも持っていなければネットニュースさえも見ない。大好きな買い物に充てる時間と漫画や小説を読む時間だけあればそれで良かった。
労働はそのための対価を支払うために嫌々していたものだった。というのは言い過ぎで、役職に着きたいという夢も持っていた。
最もそうすれば手当が沢山手に入り、貯金も増えれば買い物も小銭を数えて頭を悩ましながらしなくて済むというら考えから来るものであったが。
独身の女性調理師は段々煙たがられるのを何度が目の当たりにして来たので、やはりここらで所帯を持った方が良いのかとプロポーズもされていないのにそこまで考えてしまっていた。
しかし、もし家庭を持ってしまうと今のような深夜勤務は無理になってくるのではと不安も感じた。
スマホの時計を見ると休憩時間が終わろうとしていた。
この仕事はやっぱり好きなのかもしれないと水筒の蓋を閉めて立ち上がった。
「礼子ちゃん機嫌良いね」
終業時間になり、トイレに向かう途中で50代の女性のパート調理員に話しかけられる。
「そうですかあ?宝くじでも買おうかな?」
と、とぼけて返した。
何か聞きたいのかもしれませんが、まだそこまで発展してませんよおと、礼子は心の中で舌を出した。
ご機嫌なのは確かかもね、と口に手をやる。
更衣室に寄り、着替え終わった和島を誘ってあてもなくドライブをすることにした。
彼は上機嫌だった。
『マジすか、超嬉しいっす』
新年早々からこの笑顔が眩しいと目を瞑る。
昼の12時からマリンピアに行ったりイオンモールに行き、他愛もない話をした。そんな事をしたかと思えば、万代埠頭の倉庫街を見たりとまるでデートだった。ガラス張りのカフェがお洒落だと礼子は見蕩れていた。
次第に日は暮れてきていた。
ふとシフト表を確認すると、明日は2人とも休みだった。
「じゃあもっと礼子さんと居られる」
と無邪気に笑う男。
その顔をもっと見たいのに、見ると自分の何かが崩れそうだと見るのを躊躇う。
大方見て回った後、礼子の車に乗り直す。
大柄な和島が、高さのない軽自動車の中に座る姿は窮屈そうだった。原付で通勤している彼は金を貯めて、この体だから普通車を買いたいと言っていた。
「美味かったすねあのハンバーグ」
「うん」
チェーン店の巨大ハンバーグが売りの店に二人で行き、県庁近くのパーキングに車を止めて川沿いを歩く。
『話がある』
とデザートを頼む時に神妙な顔をして切り出したのは礼子だった。
彼の本心を確かめる。余計な事に時間をさきたくなかった。
川にはヨットや所有者不明であろう漁船などが所狭しと浮かんでいた。所々イルミネーションをしてそれが水面に映り幻想的だった。
川の向かいにあるのはリゾート風の結婚式場だった。披露宴をしているのか華やかな光が灯っている。
歩きながら和島が話しかけてくる。
「で、話しってなんすか?」
何も身構えずに気さくに聞いてくる。
有名ブランドの大きなスニーカーに包まれた足取りは軽い。私が若い頃はこのメーカーの靴なんて高くて履けなかったなあと、礼子はどうでも良い事を考える。
俯きながら重たい口を開いた。
「33歳の女を口説くってそういうことだから、そこのところ分かってるのかなって思ってるの」
和島が足を止め答える。
「そういうことってなんすか」
少しの間を置き、言うしかないのかと口を噛む。
「結婚とかだよ」
投げやりに礼子は言う。
もしもここで「結婚とか意味あるんすかね」等と言われたら全て台無しだったとこだろう。
彼からの言葉は酷く真剣なものだった。
「礼子さん、あと2年待っててもらえますか。石の上にも3年て言うでしょ。そこを過ぎないと俺、礼子さんのご両親に顔向け出来ないです」
自分の方が幾年も先を生きてきたのに、この青年のなんと芯のあること。
礼子は自分の情けない体たらくに哀しくなってきた。
夜風が冷たいせいか目がうるみ出してきた。
それに気がついた和島が頭に手を置いてきた。その手が左右に揺れる。
その動きに頬が緩む。
「ちょっと」
自分が中学1年生の時に赤ん坊だった男性に頭を撫でられて顔を綻ばせてるなんて、絶対に見られたくないと礼子は下を向いた。
和島は流行りの黒のダウンコートに包まれた身体で礼子を包み込む。
「年齢とか良いじゃないすか、それに俺、頑張りますよ。役職着きますから絶対。あの会社がそこだけは競走社会なの知ってますから」
顔を隠すために腕を頭に上げる礼子とそれでもと頭を撫で続ける和島。
「また負けちゃった」
涙が零れた。そこまで自分を思ってくれる男性に出会ったのは初めてのように感じた。
昔の事を思い出す。
『礼子は調理師しだし、ご飯作れるから主婦向きじゃん、家に居てよ』
婚約目前まで付き合った昔の男を思い出す。
大した稼ぎもないのに礼子に専業主婦になって欲しいと願った男だ。礼子は自分勝手だと感じた。
それが原因で別れてしまった。
和島は礼子が調理師として働いている姿を見た上で話しかけてくれている。
「礼子さん泣いてます?参ったな、好きな人泣かせちゃうなんて」
余裕そうに和島が顔を覗き込んでくる。
「やめてよ、こんな顔見んといて」
硬い肩を押すがびくともしない。
「礼子さん向こう見てくださいよ。あの結婚式場の厨房も忙しいんでしょうね」
後ろから覆い被さるように身体を包まれ揺らされる。
なんと中年女の扱いになれてる事だ。
「和島くんさあ、手馴れてるね年増の扱いに」
「年増の?礼子さん、俺言っときますけど今まで付き合ったの同級生か年下だけっすからね」
式場を見ながら男は続ける。
「年上でこんなに惹かれたのは礼子さんだけです」
真剣に呟かれる。
「年上だけど気さくだし、どんなに大変な時も笑って皆を励ましてくれるし、辛い時は辛いって言って良いって礼子さんが俺に言ってくれたじゃないすか」
何度も調理師の仕事を辞めたいと思ってきた。
パワハラやセクハラなども酷いし生活は不規則。給料は安い。
でもそんな中で頑張ってきた自分を見てくれてた人が居たんだと、また礼子は目を熱くした。
「でも礼子さんも色々背負ってる気がして」
正面に向かされとても年下とは思えない顔付きで投げかけられる言葉。
「そりゃ君より10何年先は生きてるしねえ」
鼻をすすり横を向いて誤魔化した。
「俺にも背負わせてくださいよ」
「この荷物は相当重いぞお」
笑ってふざけて彼の背に荷物を置くふりをする。
「重くても軽くても、共有出来たなら嬉しいっす」
なんの迷いもなく断られるかもという恐怖もなく、礼子を包み込んでくれていた。
自分が未だ且つてだれかをこんなに愛した事はあっただろうか。
「和島くん職場の私しか知らないのにそんなに好きになって後悔しても知らないよ?私部屋はぐっちゃぐちゃだし、買い物好きだから金遣いも荒いし家でもそんなに料理しないし」
はぐらかすように早口で喋りかける。
「そんなのみんな同じっすよ、職場では気が張るでしょ?」
それはそうだけどと礼子は溜息を着く。
「俺が礼子さんの部屋に行くのはまだ駄目ですか?」
手を繋がれ左右に振られながら頭に言葉を置かれる。
身体が強ばり、それだけは阻止したいとまた早口で返した。
「部屋はちょっと……それ以上入ってこられると私の世界が崩れそうで」
世界ってなんだと思いながら、長年独りで作り上げてきた領域について慌てふためいて説明をする。
「入られたくない領域があるなら無理には入りませんよ。入らなくても礼子さんと居られるならそれで良いんです」
冷静に見下ろしてくる和島は本当に年下だろうかと思うほど大人びていた。
「前にも言ったすよ、礼子さんの助手席は俺のものだって。礼子さんが入って欲しくない域があるなら俺は足を入れません。でも二人で分け合える事があるなら俺も共有したいっす」
「君はさあ、私より先に生きてるようだよ。偉いよ、もう私泣いてしまう。単純に部屋が汚いから見られたくないだけなんだけど」
今日は誤魔化してばかりだな。でも凄く嬉しい。礼子の顔が百面相のように変わる。
人生における、頼れる人を作ることも誰かに頼る事も生きていく強さのひとつだと礼子は知った。
誰かに頼る生き方はしたくないとずっと思ってた。
でも依存と頼るは違う。
「俺は礼子さんを失いたくないです」
なんでそこまでハッキリと言えるのだと礼子は鼻をすする。
「私も、和島くんがいる世界で生きていられるのが嬉しいって思えるから同じ気持ちだよ」
涙声で言い切った。
ふっと笑いが漏れる。
男の人の前で泣いたことなんて無かった。
「礼子さん強がりなんですね」
腕で身体全体を包まれて締め付けられる。
「当たり前だよ、あんな会社でさあ、やってくなら仕方ないじゃん」
次は鼻声でそっぽを向くように返した。
「礼子さん好きです」
「急に言わないでよお」
「ほんとっすよ実は入社して1ヶ月くらいから……」
「もう話はまたゆっくり聞くから今日はこの位で勘弁してえ」
礼子は、昨年の夏に切ったトマトより自分は赤くなってるだろうと思っていた。
向かいの結婚式場の披露宴会場も華やかに盛り上がっていた。
次は時川礼子のお部屋改造物語をアップしたいです。