エピローグ『大英雄のメイド様』
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後悔してない? って言われたら、きっと『うん』って頷くと思う。小さな部屋の中で、灰色に染められた世界を見つめ続ける日々は心底うんざりだった。あの鬱屈とした気分は、生涯忘れないだろう。
私の命は、父親に握られていた。でも忌々しいとさえ思わなかった。抵抗したところで無意味だし、私の味方なんて伯爵邸には誰もいなかったから。……あの扉が、薄っぺらなわりには頑丈に作られた、あの扉が蹴破られるまでは。
「どうしたんですかあ、お嬢様。何か考え事ですう?」
「うん、ちょっと、君と出会った頃を思い出してた」
オフェリアは献身的なメイドだ。決して驕らず、誰にでも優しい……わけじゃないけど、いっしょにいて、本当に良い人だと思う。今でも、私の手を握って安心させてくれる。初めての船旅に緊張しているのが伝わったのかな。
「何か中で食べます? せっかくの客船ですし楽しまないとですよお」
「十分楽しんでるとも。この景色だって、今しか見られないだろう?」
「ぬふふ、それはその通りですねえ」
海というものを知ったのは、一年も前の話じゃない。ヴェロニカ・エッケザックスという英雄の暮らす島へ行くときに、初めて船にも乗った。でも、そのときはもっと小さかったし、正直言って客船とか大きなものに乗るとは思ってなかったから──せいぜい貨物船だと思ってた──最近出来たばかりの豪華客船に乗せてもらえるなんて信じられなくて、心臓が止まるんじゃないか、あるいはここで私の人生は終わるのかもしれないとすら思った。私のために、オフェリアが手配してくれていたなんて。
少し良さげな船のチケットを取ったとは聞いていたけど……。
「あ、そういえばスキラトはどこに?」
「スイーツに溺れてましたよ。甘いものが好きなんですねえ、あの子」
「ふふっ。私も甘いものは好きだ。いっしょに行こうか」
「はい、もちろんですう。さあさ、こちらですよお」
オフェリアの手は、少しだけ大きい。私はどちらかいえば小さいから包まれるみたいで、伝わってくる温かさがなんだかちょっと恥ずかしい。
「船の中は人がいっぱいですねえ。はぐれないように手は離さないでくださいね、流石に今の私だと探すのに骨が折れそうですう……」
「あはは、そうだね。今なら私のほうから探すと思うよ」
大英雄、セレスタン・テルミドール。アリンジューム家よりも優れた、世界にたった一人となった魔導師だった彼から、私は魔力を引き継がされた。おかげで色々と大変な事もあったけど、その分得たものも大きかった。少し貧弱だった私の身体は健康的になったし、疲れを癒す魔法だって使える。今は多分、世界で誰よりも健康な自負がある。多分だけど。もしかしたらオフェリアのほうが今でも頑丈かもしれない。
「ぬふふ~、昔とは立場逆転ですかねえ」
「まさか。今でも君に頼る事の方が多いよ」
「役に立ててるなら光栄ですう~。あ、こっちですよ」
最初は変な奴が来たなと思った。どうせすぐやめるんだって、今まで私の世話係になったメイドは全員がそうだった。でも彼女は違った。今もまだ、私の隣に立ってくれる。私の手を引いてくれる。ずっと約束を守ってくれている。……彼女にとっては些末な事なのかもしれない。自分と同じ苦しみに喘いでいたから手を差し伸べた、気まぐれだったのではないか。そう思うときが、未だにある。
そうじゃないんだろうとも信じてる。何度も私のために命懸けで戦ってくれた。スキラトが私を殺そうとした時も、身を挺して庇ってくれた。風邪を引いたらずっと看病してくれて、怪我をしたら自分の事のように苦しそうな顔を。
初めて彼女の事がもう少し知りたいと感じたのは、別館で割れた花瓶を片付けている時だった。偶然見かけた、あの散った花を見る哀しそうな表情。ただ飄々としているだけじゃない姿が、何故だか惹かれたのを覚えている。
「ぬしら、どこにおったんじゃ。探したぞ」
「あれえ……? スキラトこそ、そのケーキは?」
「ぬしの懐にあった銀貨で買った」
「うえっ!? うそ、いつの間に盗ったんですか!?」
「なんじゃ、よそ見ばかりして浮ついておるからよ。フッフ!」
「くぉんの……! はあ、もういいです。今回だけですからね」
楽しそうに笑う姿が愛おしい。何も知らなかったオフェリアの事、今はたくさん知ってる。少しずつだったけど、彼女との心の距離が近づいていて、私はやっと、隣に立てるだけの資格を得たような気がした。ほんの一歩ずつでも真実の姿を知って、もう何も縛るものはない。自由に生きられる道が、目の前にはずっと続いて────。
「お嬢様~っ。ぼーっとしてないで行きますよお」
「あっ。待ってよ、二人共。私を置いて行かないでくれ」
慌てて追いかけた。けど、オフェリアに「飲み物買ってきますねえ」と迷子にならないように待機させられて、ちょっと寂しい。仕方なく椅子に座って待ちながら、隣に座るスキラトの綺麗な顔を眺めて時間を潰してみる。
「……なんじゃ、儂の顔になんかついとるんか」
「いや。可愛い顔だなって思って」
「ふん、変な奴じゃ。儂になぞ興味ないくせにのう」
ケーキ、かなり大きかったよね。もう残ってるの手に付いたクリームだけだし、それも丁寧に舐めとってるのを見ると、胃袋の無尽蔵さに驚かされる。どうなっているんだろう、彼女の身体は。もしかしていくら食べても関係ないのかな。
「聞いておるのか」
「えっ。ごめん、なんだって?」
スキラトが馬鹿にするような目で私を見た。
「言わねば伝わらぬぞ。ぬしの考えている事は」
「……そうだね。でもいいんだ、今のままで」
伝えたら壊れてしまうような関係じゃないのは分かってる。でも困らせたくなかった。今は、一緒にいられれば、それでいい。
「愛にはいろんな形があるんだよ、スキラト。私は彼女が私のメイドであってくれる今の関係が幸せなんだ。大英雄のメイド様と、その雇い主。私は満足してるよ。────たとえいつか終わる物語だったとしても、この想いは未来永劫変わらないさ」




