第31話「これまでも、これからも」
もうすっかり年月は経ち、顔ぶれも入れ替わっていることだろう。陰湿な場所ではあったが、オフェリアを除けば子供たちが自立していくのを最後まで支援しているのも事実だ。今は自分を知る人間もほとんどいないかもしれない。だから彼女は確かめたかった。自分と同じような事が起きている子供がいないかを。
察したジョエルは執事を呼び、馬車を用意させた。フェロニア孤児院は皇都の片隅にあって、やや遠い。支度を済ませたら焼いたチョコレートクッキーの余りを紙に包み、時間までを穏やかに過ごす。がたごと揺れる馬車の中で食べるクッキーのくずがぼろぼろ落ちるのが、少し悪いことをしている感じてジョエルは楽しそうな顔をした。
「あらあら。あとで掃除しないといけませんよ、お嬢様」
「分かってるさ。これくらい自分で出来るよ」
「ぬふふ、さすがです。……あ、ちょっと馬車を停めて下さい」
御者に馬車を停めさせた場所は、小さな釣り具店だ。店の扉を開けると経営者である女が嬉しそうな顔をして小さく手を挙げた。
「よう、お二人さん。挨拶に来てくれたのか?」
経営者はヴェロニカだ。かつては刺激を求めて海を選んだが、一生かかってもスキラトとの戦いを超えて満たしてくれる出会いはないだろうと島を現地の友人に譲り渡し、皇都の生活に戻って釣り人向けの小さな商店を営んでいる。
「ええ、開店は先週だったのに、ご挨拶に伺えなくてすみませえん……。本当はもっと早く来たかったんですけど、色々と立て込んでて」
「ハハ、構いやしねえさ。二人共元気そうで何よりだ」
指の間をくるくると硬化を行き来させて遊びながら──。
「それで用件は? 何もなく訪ねて来るほど暇にも見えねえが」
「あはは。ヴェロニカには隠し事はできませんねえ」
察しが良過ぎるだろう、と指で頬を掻く。
「実はフェロニア孤児院に行くんです」
「あぁ、あの。何しに行くんだよ、いまさら」
「色々と確かめたくて。今後のためにも」
まっすぐ見つめられると、ヴェロニカもそれ以上を止めたりしなかった。辛い思いをしてきたのは知っている。片足まで失って彼女を守ったあとに聞かされて、言い過ぎた事もあったかもしれないと謝りさえした。
だから、必要以上に彼女が傷つくのは嫌だった。それでも行くと言われれば止める理由はない。それに、どうしてかは分かっていた。
「てめえと同じガキがいたら、アタシの所にでも連れてきてやんな」
「ハハ、そんな子がいたらですけどねえ」
「伊達や酔狂の話じゃねえぞ。ガキひとり養うだけの蓄えはあんのさ」
「……分かってますよう。それじゃあ、行ってきます」
ヴェロニカはカウンターに置いてあった新聞を開き、あとは好きなようにしろとでもばかりにひらひらと手を振って「気を付けてな」と、見送りはしなかった。挨拶が済んだら二人は改めて孤児院を目指して出発した。
「色々あったね。一年も経っていないのに」
「そうですねえ~。自分でもびっくりしてますよお」
魔獣戦争が終わって以来、ずっと平和が続いてくれるものだと思っていた。だが、五年の月日が流れ、当時よりもさらに苛烈な戦いの中に身を投じる事になるとは。大英雄などという称号に縛られず、ただのメイドでいられれば良かったのに、とクッキーを齧りながら遠くを見つめて苦笑いを浮かべた。
「お嬢様は嫌じゃないですか?」
「うん? 何が?」
「私がメイドで困らないのかなって」
食べ終えて包み紙を丸めながら。
「今やどこを歩いても目立つような大英雄扱いですよう。これまでは身分のひとつも明かしてこなかったから良かったですけど……ご迷惑を掛けてしまってるんじゃないかって、ときどき思うんですよう。ずっとそう言われて育ってきましたから」
お前はなんの役にも立たない。誰かといるだけですぐ迷惑を掛ける。使い物にならないろくでなし。だから親にも捨てられた。そんな言葉の矢がいくつも体に突き刺さって、彼女の心は深い部分で傷だらけだ。表面的なものよりずっと痛みが疼く。何年も、何年も、呪いとして。
戦いが終わってから、彼女たちの紋章は途端に消え失せた。特別な力も失い、今は培った経験以外では普通の人間──魔獣と混ざったヴェロニカを除いてだが──でしかない。それは当人たちだけの秘密であったが、これまでのようにジョエルの傍にいて大英雄と呼ばれ続けても、良い事など何もないのではないかと不安だった。
「私は迷惑じゃないし、ずっといてほしいと思っているよ。私だって、君が最初は大英雄だったなんて知らなかったし、そのときから助けてもらっているのに、いまさらじゃないか。あの狭い部屋から私を救ってくれたのは、紛れもない君なんだから」
ずっと支えてくれた相手を邪魔だと思うはずがない。ジョエルはむしろ、そう思われていた事に残念がってぷうっと頬を膨らませた。
「これまでもこれからも、私のメイドでいてくれるって約束したんだから、そんな後ろめたい雰囲気で言わないでほしいな」
「アハハ、ごめんなさ~い。私が悪かったですう」
この人に仕えて良かった。天職だ。そう、心から思えた。




