第24話「折れない心」
瞬間、スキラトが視界から消える。背後に回ったのを、シャーリンは細かな動作ひとつで見抜き、間一髪で躱す。だが、触れてもいないのに顔が裂かれ、元あった傷をなぞるように、再び大怪我を負う。
「触れてもないのに斬ったっていうのか?」
「風さえ刃、それだけの事よ。次は首を刎ねる」
はったりではない。次は確実に当てられる。積み重ねてきた経験で分かる。スキラトは剣を振り慣れており、その軌道修正も鮮やかなものになるだろう。ごくりと息を呑んで、シャーリンは軽く身震いした。
「フッ。五年前を思い出すよ、ヴェロニカ」
傍で倒れているヴェロニカを、シャーリンは素早く抱きかかえてスキラトに背を向ける。わき目も振らず、ジョエルの待つ結界へ急いだ。
「あのときはセレスタンに頼んだっけなあ!」
最初から、どこか諦観はあった。勝てない。勝てるはずがない。怯えもした。けれども、歩みは止めなかった。肩を並べる仲間がいるのなら、自分も最大限の努力はしようと覚悟を決めた。愚かだ、降伏すれば命くらいは助かっただろうに。シャーリンはそうしなかった事を鼻で笑った。きっと、余計に後悔しただろうな、と。
自分の命ひとつを救ったところで、心は救われない。魂は傷がつき、二度と修復されるものではない。だったら自分が進むべき道は、決まりきっている。
「逃がさぬぞ、騎士よ。儂に速さで勝てると思うてか」
まったくもって酷い現実だ。スキラトはあっという間にシャーリンへ追いつき、並走した。剣を振るうのではなく、鋭い蹴りが彼女の脇腹を衝く。
破裂するような音が響き、ヴェロニカを手放してシャーリンは何度も転がった。砂に叩きつけられ、高く跳ね、滑って止まった。
「っ……ぐう……こ、ここまでか……!」
息が詰まる。呼吸が苦しい。全身から力を奪うほどの強烈な痛み。耐えても耐えても、凌げない。裂けた顔から血をぼたぼたと垂らし、口の中に溜まった唾液を吐きだす。こんな痛みは久しぶりだと涙と共に笑いが零れた。
「まったくぬしらはよく耐えおる。ここまでして、まだ立とうという気概がある。圧倒的な生物としての格差を見せつけられてなお、なぜ心が折れぬのだ?」
「やわな……そんな柔な生き方、してないからさ」
なんとかふらふらと立ち上がるも、両足はひどく震えて言うことを聞かない。生まれたばかりの子鹿よりも頼りない状態で、気丈な振る舞いを見せる。
「父さんはいつも言ってたんだ。人助けは必ず、いつか遠い未来の誰かを助けてくれる。それは循環するように、ボク自身を助けてくれると。物理的な意味じゃない。精神的に、やってよかったと思えたら自分も幸せだという意味でね」
腰に据えた革製のベルトに固定しておいたナイフを取り出して構える。グリップを握る手にあまり力が入らない。だが、必死に構えの体勢を取った。
「ボ、ボクは……ごほっ……誰かのために死ねるのなら、それでいい……。ヴェロニカや、オフェリアが……ジョエルが、みんなが、あとでちょっとくらい泣いてくれれば、幸せだと思えるくらい、覚悟が決まってるのさ!」
跳んだ。一歩が重く感じた。ナイフを振る手が弱々しく力を込めた。
「そうか。やはり儂には理解できぬのう」
皮膚の表面すら傷つかない。ナイフはスキラトの身体に当たって、パキンと高い音を響かせて簡単に折れてしまった。ヴェロニカのような膂力も持たず、オフェリアのような頑丈さの欠片もないシャーリンのナイフでは、かすり傷もつけられなかった。
「無駄な事はやめておくんじゃな。命を縮めるだけであるぞ」
「だとして、戦わない選択肢なんか……ないッ……!」
折れたナイフを突き立てるスキラトは素手で掴んで、首を横に振った。
「諦めよ。ぬしらに未来などない。全員、ここで死ぬに過ぎんというのに、必死に失った牙でかみつくなど愚かで見るに堪えん。儂とて多少の情はある。僅かな命が消えゆくまで、大人しく過ごして逝くが良い」
ナイフを掴んだまま、ずるずるとシャーリンは崩れ落ちる。呼吸が弱く、生きているのがやっとの状態。息絶えるのも、そう遠くない。
もう彼女に戦う余力は残っていないとスキラトは背を向けた。
「……レシを討ち取った、ぬしの刃。実に見事であった」
立ち去ろうとしたとき、何か違和感を覚えて再度振り返る。シャーリンは動かない。完全に沈黙し、意識を失っていた。
「むう。何か変じゃのう……。何かが……」
引っ掛かりが取れず、足を止めたまま。じっと見つめて、ようやくスキラトはその違和感に辿り着く。シャーリンから、まったく力を感じなかった。さきほどまでは気を失っていても明らかだった〝普通の人間ではない〟という気配。それが、彼女から消え失せている。──いや、彼女だけではなかった。
「気配が減っておる。どちらもまだ死んではおらぬが……」
息絶えたから力が失われたというのなら、まだ分かる。だが、ヴェロニカもシャーリンも、まだ息をしている。ほぼ致命傷とはいえ、その回復力を考えれば立ち上がる可能性もゼロではない。一瞬でヴェロニカのもとへ戻り、倒れる彼女を見下ろしてハッとした。
「紋章が消えて……? ついに神にも見放されたか?」
戦えないと見做されれば、紋章など無用の長物。命が失われるのであれば消えようが消えまいが同じ事だろうとしても、意味を成さない者に意味を成すためのものを与えても仕方がない。そんなふうに受け取って、笑いが堪え切れない。人間なぞ、やはり餌に過ぎん弱き生物だ、と。
瞬間、彼女は影となって弾け、ひと呼吸もしないうちにジョエルの張った結界の前に立つ。剣を片手に、内側で必死に結界を張りながらぶるぶると震えて涙を流す少女の姿を見て、ため息をもらす。
「ぬしは情けないのう。涙を流す暇なぞあるものかよ」
剣を軽く振るい、結界をばらばらに砕く。立てられた杖から光は消え失せ、ころんと倒れた。ジョエルはそれでも、倒れたままのオフェリアの治療を続ける。涙で顔をくしゃくしゃにしながら、これが私のやるべき事だと言い続けて。
「……ふう。もはや精神が壊れておるのか。致し方あるまい、あれほど信頼していた仲間を二人も失い、今もまだ眠り続ける者もいる。戦えぬ付け焼刃の魔法で支援するしか能のないぬしでは、どうしようもできまいて」
高く剣を持ち上げる。狙いをまっすぐ首に据えて。
「温情じゃ、安らかに死なせてやろう。痛みも感じぬようにな」




