第1話「覚悟の先」
────五年前、俺は貴族である事を捨てた。ずっと胸に抱いていたのは、野心などではなく解放だった。とにかく自由の身でいたかった。アリンジューム家という大きな家門があれば、わざわざ魔法を人々のために使う必要もない。生まれ持った特別なものは、自分のために使えばいい。
たくさんの人間が、俺の前に立った。鬱陶しかった。素晴らしい才能だとか、テルミドール家は繁栄していくだとか、そんなものに興味はなかった。父親も母親も、耳にタコができるくらい同じ話をしてくる。俺が家門を継げば、アリンジューム家よりもずっと大きな家門になる、と。実に馬鹿馬鹿しい話だ、聞くに堪えない。
俺は、とにかく自由が欲しかった。だが、魔獣だなんだと下らない奴らが現れなければ、きっとその機会を得る事もないまま、仕方なく家門を継いでいたと思う。誰かの役に立ちたいと思った事はなかったが、俺の魔法と与えられた神の紋章があれば、何かが変わると思ったから。実際、変えられたわけだ。
人々は俺に救われたと言うが、俺は自分のために戦った。そうして得た自由は素晴らしいものだった。こんなにも図々しく生きられるなんて、夢にも思わなかった。数少ない友人となった者から借り受けた土地をひっそり守りながら、家庭菜園をして、自分だけの魔法の研究を細々と続ける日々。これがずっと続けばいいのに、と思った。
あの戦いで、俺は誰かを守るという姿に心を打たれたことがある。ヴェロニカが守った、たった一人の命がどれだけ大勢に響くか。そう考えたときに考えを改めた。俺以上に荒んだ人生を送った小娘の命ひとつで、その守られた小娘の命ひとつで、どれだけの人間が救えるのだろうか。答えは明白、数えきれないほどだ。俺がそれを理解したのは、自分が愚か者であったと突きつけられたからだった。
『お前が捨てる命で何人が救われるというんだ』
無謀な戦いの中に、それでも身を投じる小娘の命を、俺も救おうとした。だが、きっとその投げかけた言葉は、自分自身への戒めもあったのだと思う。俺はもし自由になれなければ、この場で死んでもいいとさえ思っていたから。
今? 今は当然、過去とは決別して生きている。どんなときでも諦めず、己の小さな命ひとつでも簡単に捨てたりはしない。出来る事は決してあきらめず、最後まで戦い抜いて、それでも勝てないなら────まあ、そのときはそのときだ。
「低俗な癖に、しぶとい男だったわねえ」
そんな言葉が耳を掠めて、心底屈辱だった。俺はまだ戦えるはずだ。……いや、分かっている。もう、立っているだけでやっとだ。肩で息をして、下らない昔の事を思い出して、片腕はなく、片目も潰れた。頭は割れそうに痛いし、足は震えている──そうか、これが、俺が死ぬ前に見る最後の光景なのか。
「せっかくだから、ザミエル。あなたがトドメを刺せば?」
山羊の女が、くすくす笑ってセレスタンを冷たく見つめた。名を呼ばれた鉄仮面の怪物が、口の中から何本もの槍をずるりと吐き出しては、手に握りしめ、その一本を弓に番え、セレスタンの頭にしっかり狙いを付ける。
「何か言う事はあるかしら、大賢者。最後の言葉くらい聞いてあげる」
敵はまったくの無傷。セレスタンはなんとか生き延びようと戦ったが、紋章の力があったとしても、杖を握れないのでは魔導師としての真価は発揮できなかった。滝のように流した血。彼の意識が残っている事すら奇跡だ。
「……お前の名を聞いてない」
「あら、アタシぃ? いいわ、名乗ってあげても」
大槍を突きつけ、その喉元に優しく触れた。
「レシ。あなたを地獄に突き落とす者の名よ」
「そうか、レシ。では名を教えてくれた礼をしなくてはな」
膝をついたように見えた。だが、違う。残った腕を頼りに、地面を手のひらで叩く。己が血に塗れているがゆえに起動可能な魔法陣があった。
「天より奇跡を授けし運命の女神よ、今、我が命を以て願う!──貴様らの目的がなんであれ、俺は俺の役割を果たさせてもらおう!」
巨大な魔法陣は森全体へ及ぶ。五年かけて彼が創り上げた、世界でただひとつしかない高等魔法。決して誰かを殺めるためのものではなく、いつか己を殺すだけの強さを持った何者かが現れたときのために用意した奥の手。
(驕った話だが、どうせ狙われるなら俺だと思っていた。他の奴らと違って体を動かすのは不得意だ。──だから、これは俺なりに、絶対の勝算があっての最後の手段。きっと向こうで父上には色々言われるんだろうな。この大馬鹿者、と)
セレスタンの残った腕が矢によって吹き飛ばされ、胸を槍で貫かれる。
「無駄な事はやめなさい、あなたに勝ち目なんてねえのよ」
「勝つための魔法じゃない……。これは、時間稼ぎだ」
魔獣の中でも異質な者たち。おそらくまともに攻撃魔法を全身全霊で放っても、倒しきれず回復を待たれるのは明白だ。治癒能力の高い魔獣たちでは深手を負わせても、たかが知れている。だったら別方向からの視点を以て彼らを制するほかない。
セレスタンが選んだのは、彼らの弱体化。一時的に彼らが持つ能力を封印する魔法陣。どれほど強くとも戦えなくては隠れる他ないだろう。その効力がセレスタンにしか分からない以上、下手な行動はとれなくなる。
「さらばだ、俺の……──友たちよ」
なにより、魔法陣が巨大であるのは、その効力を高めるためだけではない。セレスタンを中心に、光の柱が魔法陣の全体へ広がっていく。
「くっ、何よ、これは……! おい、スキラト!」
「わかっておる。しばらくは身を隠す以外あるまい」
ローブに身を包んだ、背の低い何かが子供のような手をかざした先に、黒い渦が生まれる。レシたちは闇の中へ消えていったが、セレスタンに近すぎたのもあって魔法の影響は受けていた。
去り際、スキラトと呼ばれた黒いローブの何者かが振り返って──。
「……人間か。実に興味深い生き様だったぞ、大賢者」




