第3話「今も昔も」
たった数日あればいい。ジョエルに必要なのは、伯爵家という彼女をどこまでも追い詰めて縛りあげる鎖をばらばらに砕いてやることだ。ただ逃げ出すだけならば簡単ではあるが、それは真の意味での解放ではない。何かあるたびにフラッシュバックして胸が詰まるような思いをさせないためには伯爵家を徹底的に崩す必要がある。
そのために、オフェリアはわざと他のメイドたちの嫌がらせを甘んじて受けた。行動をエスカレートさせるために、まったく気にしていない素振りを見せ、そのうえで自分の弱い部分を晒す。彼女らがそこを突いてくれると信じた。
事故に見せかけて水を浴びせられたり、食事の中に虫が混ざっていたり、そもそも痛んでいて食べられない状態のことがあった。ジョエルがされてきたのと大差はないのだろう、今にも早くやめろと呪詛が聞こえてきそうなひそひそ声が耳にまとわりつく。それが嬉しくてたまらなかった。──ああ、単純な生き物だ、と。
仕事は別館だけではなくなった。他のメイドが忙しいからという理由で、家政婦長から厨房の手伝いなども任されるようになっていた。本来なら業務外だが、決められたことに逆らえば明日にはクビになって伯爵邸を追い出されてしまうだろう、拒否はジョエルを裏切るのと同じ意味になる。と彼女は断らなかった。
一方、願っていたことでもあった。雑務の多くを押し付けられて忙しくはあったが、そのぶん食材の在庫チェックで足りない分を注文しにいくなど外出の機会が僅かに得られたからだ。オフェリアにとって最良の好機だった。
「帰りは少し遅れちゃいますねえ……。ま、先のことを考えてお嬢様には少しだけ我慢して頂くことにいたしましょう~! 少なくとも鞭で叩かれはしないはず!」
嬉々として彼女が向かったのは酒場だ。ただ飲んで食べてをするだけでなく、早朝にはサンドイッチを並べていて、朝の巡回業務に勤しまなければならない憲兵たちがこよなく愛する、よく親しまれた場所だった。
酒場からサンドイッチとコーヒーを手に出てきた老齢の男に「ご苦労様ですう」と声を掛ける。憲兵隊の制服を着用し、部下二人を傍に連れている男は、オフェリアに気付いて優しく微笑んだ。
「これはこれは。お久しぶりですなあ、リンデロート殿」
「カミヤお爺さん、こんにちは。実は話したいことがあってえ」
「……ふむ。少しお待ちください」
先に部下を巡回に向かわせて人払いをしたら、こほんっと咳払いをしてから「お話というのは?」とコーヒーをひと口飲んだ。
「えへへ、ありがとうございますう。今、侯爵邸でメイドとして働いてるんですけど、ちょっと困った事になってましてねえ」
「リンデロート殿ほどの方が何を悩まされておるのです」
カミヤは喧騒の中に吸い込まれるような涼やかな声を聞く。
「ちょっと憲兵隊から使えそうな娘を一人、寄越して頂けますか」
意外な頼みに、サンドイッチが喉に詰まりそうになった。
「別に難しいことではないですが。いつも何かあると、ご自分で解決されてきたのに、リンドロート殿にも手に負えないほどの問題が?」
「まあ、簡単な話ではなくなってきましたねえ」
青々とした空を雲が流れていく風景が、なんとなく遠く感じた。
「とにかく一人。憲兵であることを隠してもらえると嬉しいんですけど」
「ええ、それでしたらベルモアを遣わせましょう。都合がよろしいかと」
「あの新人ちゃんですか、たしかに悪くないかもですねえ」
憲兵隊の新人、ベルモアは子爵家の令嬢でもある。花嫁修業の一環として働く者も多い。潜入させるにはちょうどいい人材で、カミヤの提案に乗っかった。厄介なメイドを合法的に排除する、良い方法として。
「では今日の午後には来るよう伝えておいてくださいねえ」
「ほっほ、承知しましたとも。……それにしても、あれですなあ」
コーヒーを飲み、横目にオフェリアを見た。
「リンデロート殿も丸くなったものですな」
「うん? そうですかあ、優しく見えますかね、私?」
彼は、五年前までに比べれば、と笑って言った。
「なにしろ、あの頃までの貴女は見ていて怖くなるほど荒っぽい性格でしたからなあ。当時の貴女であれば、今頃は力ずくで何かを解決しようとしたはずです。それが憲兵を寄越してくれなどと……実に面白い話だ」
オフェリアは珍しく頬を膨らませてムスッとした態度を見せる。
「失礼じゃありませんか、そこまで荒っぽくないですよう」
「わっはっは! またまたご謙遜を仰る。それが良いのですが」
「ふーん。そんなこと言って、いつか痛い目に遭いますよ~?」
「ご勘弁願いたいものですな。しかし丸くなったというのは本気です」
しみじみと思う。カミヤの知るオフェリア・リンデロートは、雲のような自由さとは真逆の、雷雨の如き荒々しさを以て突き進むような人物であったから。
「ま、五年も経てば人間も変わりますよう~。でもひとつだけ言っておきますと……そうですねえ、別に私は優しくもなっていなければ丸くもなってない。ただ、自分がしたいように生きようと思っただけですから」
そういって、少しだけ歪な雰囲気を纏う彼女の言葉が静かに揺蕩う。
「迷惑さえ掛けなきゃ何してもいいと思ってますよお。今も昔も変わらずね。ほんのちょっぴり慎重になっただけです、どうか勘違いなさいませんように」
いたずらっぽく口もとに指を当てて、彼女は微笑む。本心かどうかは分からない。それでもカミヤは、やはり丸くなったという感想を抱いた。