第35話「勝利の女神」
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────魔獣の皇都襲撃事件から、一週間が過ぎようとしていた。
「……まことに、申し訳ございませんでした」
オフェリアの土下座から始まる朝は、清々しいものではない。なにしろジョエルは魔獣が討伐されてすぐあとに気を失い、今の今まで目を覚まさなかったのだから。
体調の管理は医師としてやってきたセレスタンの魔法によって滞りなく健康な日々を送り、やっと目を覚ました最初の視界に入ってきたのが、大事な自分のメイドの土下座姿とあって、なんとも言えない静かな空気に言葉が出てこない。
「本当に私のせいで怪我までさせてしまって」
「あ……い、いや、私は平気だ。君のおかげでこの通り」
「だって一週間も目え覚まさなかったんですよ!?」
飛び上がってジョエルの肩をがっちり掴み、がくがく揺らす。
「お嬢様があのあと気を失って、どれだけみんな心配したか……! 奥様までショックで気絶されて、もう大変だったんです! 私がもっと早く駆けつけていればこんな事にならなかったのに、もう、本当にすみませんでした!」
ハッ、と慌ててオフェリアは離れて身だしなみを整える。
「私としたことが……。奥様を呼んできますね、少しお待ちを!」
急ぎ知らせを受けたロイナが、部屋に慌てて駆けてきたときの表情たるや、この世にこれ以上の幸福などあるものかと言わんばかりの泣きようだった。もう二度とこんな真似はしないでほしいと懇願されるほどに。
ジョエルが眠っていた一週間はひどいものだった。ロイナは毎日のように祈りを捧げ、眠った我が子の世話を続けた。オフェリアは自分のせいだと責め続け、もし目覚めなかったら自分の首さえ刎ねるつもりでいた。
従者たちの仕事は変わらなかったが、伯爵邸に漂う重く息苦しい雰囲気といえば、土砂降りの中にでも突っ立っているような暗さで、どこを見てもため息が聞こえてきた。誰もが伯爵令嬢の目覚めを願った。いつものように優しい笑顔をして、邸内の散歩でもしてくれれば気が晴れるのに、と嘆く声が広がっていった。
やっとの目覚めには、今日こそが祝日だと言わんばかりの喜びが伯爵邸には満ちた。ジョエルは気恥ずかしさに顔を赤くしながら「ちょっと大げさじゃない?」とオフェリアに耳打ちしたが、彼女は首を横に振る。
「一週間って、待つ側にとってはとても長いんですよ。……本当にお目覚めになられて良かったですう。これで私も、元気にお仕事ができますねえ」
「ふふっ、それは良かった。ところで私が眠っている間に、何か変わった事とかはなかった? 皇都の今の状況が知りたいな。皆は無事だったのか?」
オフェリアは少しの寂しさを感じさせるような笑顔を向けた。
「たくさんの犠牲が出ました。でも、日常は戻りつつあります。私たちもそうですが、一生懸命、この哀しみを乗り越えようとしているんです。今は、前を向いて進むとき……なのかもしれません。これからも強くあるために」
憲兵隊はほぼ壊滅状態。カミヤ率いる憲兵隊以外にも、皇都を守る憲兵隊は魔獣から人々を守ろうと自ら矛となり盾となり、その命を散らしていった。皇都が誇る騎士団までもが、百人以上いて、その半数を失う。空から降ってきた魔獣たちは天災の如く皇都を蹂躙し、人々の心を圧し折るには十分すぎる痛みを残したのだ。
それでも人々が立ち上がり、前に進もうと決意できたのは──。
「おや、この新聞は今日のものかい?」
テーブルに乗っていた新聞をオフェリアが差し出す。
「数日前のものですよお。でも、お嬢様には見せておいたほうがよろしいかと思って、大事に取っておいたんですう。さあさあ、ご覧になって」
「どれどれ。……あ、はは。そういう事か」
新聞の大きな見出しに、苦笑いを浮かべるしかなかった。
『勝利の女神か!? 魔獣を引き連れ噴水広場にて大英雄を導いた天才少女、伯爵家の崇高なる令嬢の名はジョエル・ミリガン』
誰が喋ったかなど想像に容易い。ベルモアか、あるいはカミヤか。それとも救われた人間の誰かである事は確かだ。驚くべき事に、彼女のうわさはあっという間に広まった。世間に衝撃を走らせたガレト・ミリガンの軟禁事件で、娘であったジョエルの事は皇都でも認識されつつあり、外見的特徴からあっさり大勢に知られるところとなった。なんと眠っている間に、彼女もまた大英雄だと言う声が広まるに至っている。
「なんでまた、私が勝利の女神だなんて……」
「いやあ、実はですねえ……。これが、そのせいみたいで」
ちらっと見せられた身分証の硬貨に思い出す。オフェリアたちが放り投げたものを、それぞれが回収するのを忘れてしまったことが原因だった。駆けつけた騎士たちが、再び大英雄が皇都を救ってくださったのだと声高に叫ぶと同時に、硬貨の全てがジョエルの傍に転がっていたため──魔獣を誘導した事実も含めて──彼女が大英雄たちを皇都に呼んだのだと言い始めてしまい、すやすや眠っている間に記事になった。
「それでですね、とても言いにくいんですけどお」
「ん。どうしたんだ、何か他にまずい事が?」
これ以上の事があるのかと動揺している彼女に、オフェリアはとても困ったと頭を掻いてから、そっと耳打ちした。
「皇帝陛下から直接お話があるそうですう……」




