第31話「恐れていた事態」
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翌日の朝にはすぐに島を出て、三人は休む暇なく──途中、馬を休ませるのに馬車を停めたくらいで──皇都への帰路を急いだ。その甲斐もあって夜には皇都へ到着し、ひとまずは帰りを知らせるために伯爵邸へ戻った。
「あ、奥様……お戻りになられましたか」
家政婦長が落ち着かない様子で握った手を擦っている。
「どうしたの、ファリー? 何かいない間にあった?」
「ええ、それが、お客様がいらしていて……」
家政婦長のファリーに連れていかれた応接室では、悠々とコーヒーを飲んで彼女らを待っていた白い魔導師のローブを着た男。感情を表に出すのが苦手なのか、無表情で「ああ、おかえり。遅かったな」と言った。
彼の視線は、ロイナやジョエルではなく、オフェリアに向かう。
「議会の招集に応じてやったが、いささか事情が変わってね。ヴェロニカとシャーリンの世話を頼みたい。まったく、あの二人はリンデロートでなければ嫌だと小娘のように駄々をこねている状況だ。少し借り受けたい、構わないだろうか」
セレスタンの表情に大きな変化はない。だがオフェリアだけは、その異変を即座に察知する。あまり良い話ではないのだろう、とひとまず判断をジョエルに仰ぐ。所有権は彼女にあるのだ。行かなくても良いと言われれば、彼女の傍にいるつもりだった。
「行ってあげなよ、オフェリア。友人は大切にしないと」
「……ま、そうおっしゃると思ってましたけどお」
「さっきの馬車は待たせたままだ。乗って行くといい」
「ありがたく。ではさっそく行くとしましょうか」
なぜか、少し後ろ髪を引かれた。このまま行ってしまってもいいのだろうか。ふとそんな事を考えたが、セレスタンに「急いでくれないか」と言われて、仕方なく振り払って彼の後を追いかけた。
馬車に乗り込んだら、真っ先にセレスタンが口を開く。
「俺が皇都へ戻ってくる途中、三体の魔獣を始末した」
「……はい? 三体も、どこにいたんですか?」
「草原のど真ん中。皇都からほとんど離れていない」
偶然、誰の目にも見つかることなく、セレスタンが急いで駆除を行った。三体の魔獣は狼を巨大化したような外見で、最初に森で現れた魔獣の外見の特徴と一致する。それらは熊の死骸に食らいつき、奪い合って引き千切り、餌にしていたと言う。
「だが、俺が聞きたいのは連中がなぜ湧いたかじゃない。お前は、これについて話を聞いているはずだな、リンデロート? 見覚えがないとは言うまい」
「黒曜石、ですね。魔力を帯びているんでしょう」
彼はこくりと静かに頷き、何個かの黒曜石をぎゅっと握り締める。
「俺も議会に顔を出したときにアリンジュームの小僧から話を聞いているが、これは魔獣が吐き出したんだ。現れた場所ではなく、奴らが腹の中に隠していた。奴はこれが自然的に魔力を含んだと考えているようだが、俺の見立ては違う」
握り締めた黒曜石が淡く輝き、そして灰になって崩れ、さらさらとセレスタンの手の中から零れていった。珍しく、彼は怒りの籠った眼差しで──。
「これは人工的に魔力が込められたものだ。俺たちが討ち損ねた魔獣がいたんじゃない。誰かが魔獣を呼び寄せているか、あるいは──五年前に片付けたはずの魔獣共の死骸を使って、黒曜石で蘇生実験を行っている可能性がある」
オフェリアがぷっ、と小さく噴きだす。小さく手をひらひら振りながら、「またまたあ、そんな大それたことできるはずないですよお」と与太話でも聞かされた気分だと呆れた。死んだ者は生き返らないのだから、と。
「冗談ではないんだよ、オフェリア。ヴェロニカとシャーリンも、こちらへ来る途中に魔獣を始末している。それも飛竜型だ。突然、空に黒い魔法陣が浮かび上がって、そこから現れたらしい。そのうえ、倒したそいつには、彼女たちが付けたものとは別の傷があったそうだ。どこかの誰かが思いきりぶん殴ったような跡がな」
ぴくっ、と反応する。もし魔獣を殴って痛めつける事が出来るとしたら、それは世界にただ一人しかいない。
「……私が殺した魔獣だって言いたいんですか?」
「その通りだ。そして、奴らは何かの意志を持っている」
まとめた話が、魔獣はセレスタンを見つけて異常なまでの敵愾心を向けたし、飛竜型の魔獣も、他の何にも目をくれることなく、ヴェロニカたちに襲い掛かった。狙いがあるのは明白だ。その共通点が、必ず彼らの体内から黒曜石が吐き出された事だった。
「死者を蘇生する魔法は確かにある。しかしそれは死霊術に類する、人間の倫理に反した手段だ。俺が最も毛嫌いする、命への侮辱に他ならない。だが今はそれを胸にしまおう。問題なのは、魔獣がいつどこに現れるかが……」
誰かの悲鳴が聞こえ、馬車が大きく揺れて二人の会話は中断される。
「大事な話をしているときに何事だ?」
セレスタンが御者台のほうを振り返り、ぞっとした。
「……おい、リンデロ―ト。馬車を降りろ」
「なんですか、もう。事故でもありましたあ?」
身を乗り出して、セレスタンが覗く窓から外を見て──。
「は? なんですか、これ」
飛び込んできた光景に、彼女はそれしか言葉が出てこなかった。馬は目の前で巨大なトカゲの姿をした怪物に丸のみされ、御者の男が腰を抜かして台から降りられない。怪物のぎらりと光る黄色い目。縦長の黒い瞳孔が、馬車の中にいる二人を捉えた。
「降りろ、リンデロート。あれはこっちに狙いをつけた」
「わかってますよう、それくらい。じゃあちょっと息止めて下さいね」
「うん? いや、お前はいったいなんの話を────」
襟を掴まれ、ぐいっと引っ張られる。オフェリアはセレスタンが正面から受け止める気なのを「頭が悪いですねえ」と呟いて鼻で笑い、扉を体当たりで破って勢いよく外へ出た。怪物は馬を完全に呑み込んで、二人に飛び掛かっていく。
「外にでなきゃ御者が巻き込まれちゃうでしょう?」
「……ごほっ。ああ、それもそうだな。俺が間違っていたよ」
長らく平和だったので、考えが及んでいなかったと襟を正す。飛び掛かってきた魔獣の頭上から巨大な氷の塊が落下して、ぐしゃりと頭部を叩き潰す。
「さて、一匹は始末したが、どうやら状況は最悪のようだぞ」
彼が空を指差す。見上げた先には、皇都の半分は覆うであろう巨大な黒い魔法陣が浮かんで輝き、無数の影が飛びだして来るのが映った。五年前を彷彿とさせる、あるいはそれ以上に厄介な状況。魔獣たちが再び、破滅を連れてやってきた。




