第2話「嫌がらせ」
翌日から、オフェリアの情報収集は始まった。メイドとして雇われてから、分かっているのはジョエルが父親である伯爵に冷たくされ、家政婦長を含めた伯爵家のメイド全員が、彼女に何をしても構わない相手だと思っていることだ。
だから平気でカビの生えたパンや冷めて油の固まったシチューを出したり、別館の掃除さえまともにしたことがない。出来損ないの食事でさえ運ぶのを面倒だと言っているのだから、ひどい有様だった。
しかも目に余るのは、ジョエル・ミリガンがこれまで一度も別館から出してもらえていない状況。逃げ出そうものなら「また鞭を打たれるところが見てみたいわ」と話しているのを聞いて、珍しくオフェリアも不愉快になった。
「あんたも災難ねえ。お金がないからって働きに来たんでしょうけど、あんな小汚い別館でお嬢様のお世話をずっとするなんて」
夕食時に、対面に座ったメイドが声を掛けてくる。毎回席を外しているのも目立つので、大人しく食事のふりだけでもするつもりだったが、話掛けられるとジョエルのところにすぐ向かえない、と内心で迷惑だと罵った。
「……別に、嫌な仕事だと思っていませんよお。お嬢様との関係も良好なので、毎日楽しく過ごさせていただいていますから」
「あら、そ。でも、すぐに辞めたくなるわよ。きっとね」
最初は、その言葉の意味が理解できなかった。だが、その日の情報収集を終えて別館へ行ってみると、それはもうひどい嫌がらせを受けていた。洗濯物は泥だらけになって玄関に散乱しており、家の中は花瓶が倒れて割れ、床を濡らしている。昨日にジョエルが喜ぶだろうと思って持ってきた花は、首を折られて花びらを散らしていた。
「可哀想に。こんな姿にされて、さぞ悔しかったでしょうね」
花びらを拾い集め、茎と一緒にそっと壁の傍に寄せて、花瓶の破片を拾う。あまりにも陰湿で、冷たい手段。心の中が曇っていくのが分かる。だが、階段が軋む音がすると彼女はそんな表情を握り潰して笑みを浮かべた。
「どうされたんですか、お嬢様。花瓶が割れてるので素足で来られると危ないですよ。あとでお部屋に伺いますから、お戻りになって──」
「すまない。私のせいで、こんなことに」
ジョエルの悔しさと申し訳なさの入り混じった表情を見て、笑顔が固まった。こんなにもか弱い人間が、追い詰められ続けてきた人間が謝罪の言葉を口にできるのに、なぜ満たされている彼らは真逆なのか。
「謝らないでくださいよお。どうせ彼女たちがやってきて、ここを荒らしていったんでしょう? 誰が悪いかなんて明白ですから」
下を向いて、顔を見せずに片付けを再開する。今、きっと自分は笑っているのだろう、と思った。可笑しくてではない。あまりにも下らな過ぎて、今のままではジョエルに勘違いをされてしまうかもしれないからだ。
「さ、はやくお戻りになってください」
「……あ、ああ。うん、待っているよ」
足音が遠ざかるとホッと胸をなでおろす。
「本当にいけませんねえ、これは。ただの嫌がらせにしては度が過ぎていますしい……ちょっと灸を据える必要がありますねえ」
花瓶の片づけを済ませ、濡れた床は綺麗に拭いた。泥だらけになった衣類やシーツは、洗い直すために大きな桶の中に突っ込んで洗濯場へ持っていき、準備だけをして、明日の朝にまわす。
残った仕事はひとつ、ジョエルの部屋を訪れることだけ。
「こんこんこ~ん。入りますよお、まだ起きてらっしゃいますう?」
「ああ、起きているよ。君が来ると言っていたからね」
弱々しい笑みを見せたジョエルに愛想を振りまく。
「ぬふふ~。仰る通りです、失礼しましたあ。……それで、何があったのです。お嬢様がいても、あの子たちは平気であんなことを?」
「うーん……。今まで、こうもひどいのはなかったが」
これまでも後ろ指をさして笑ったり、聞こえるように悪口をいったりはあれども、部屋を逆に汚すといった妨害にも近い行為をしてきたことはなかった。オフェリアはなんとなく、その理由が分かっている。
「すぐやめたくなるって言葉の意味が分かりますねえ」
「つまり、それはどういうこと?」
「簡単な話ですよお。私をやめさせたいんです」
ニコニコしながら、オフェリアは解説を始めた。
「私がお嬢様に肩入れしているのが面白くないのは分かり切っています。彼らは波風を立てず、伯爵様のもとで高給取りを続けていたいのでしょう。他と比べても、実際破格な額をしてましたからねえ」
面白そうだとやってきたオフェリアとは違い、多くは高額な報酬が目的だ。たった少しの間で余計な関わりも持たず、ただ求められた仕事だけをしていれば、どれだけ貧しくても二ヶ月は生活に余裕が出る。わざわざ伯爵家に取り入ったり、あるいは強硬な手段で報酬の増額を望む者はひとりもいない。少なくとも、これまでは。
「多くの方はきっと、お嬢様がどれだけ冷遇されていても気にも留めなかったはずです。今日だけ、明日だけ、そんな考えで、噂を広めようとする人間ではなく給金目当ての人間を積極的に採用していたことでしょう。そうでなかったとしても、次第に孤独になっていったのではありませんか? たとえば、話しかけても逃げられるとか」
思い当たる節があったジョエルは、口もとを手で覆って俯く。
「確かに、私の味方だと言ってくれた子が、数日も経てば仕事を辞めてしまったことが何度かあった。じゃあ、それはつまり私の知らないところで、辞めてしまいたくなるほど傷つけられていたと……」
うんうん頷いて、オフェリアはさらに疑問をひとつ挙げた。
「ですが辞めたあと、やろうと思えば告発も十分に可能だったはずですよねえ。その後、辞めてしまったメイドがどう過ごしているかはご存知ありませんか?」
返答は首を横に振ることで返って来た。当然、知っているはずもない。ジョエルはずっと閉じ込められたままだし、それこそ彼女が世間的に亡くなっているような扱いを受けているのを、来る前に耳にしていながら尋ねていた。
もし誰かが本当は生きていると騒ごうものなら、告発者自身か、あるいはジョエルが始末されかねない。誰も彼女のことを軽率に言葉には出来ないまま、時間は緩やかに、重く過ぎていったのだ。
「ま、少なくともこれまでの誰とも違って、私は辞めたりしません。むしろ辞めさせてやりますので──ちょっと数日、お時間もらいますね、お嬢様」