第1話「本当にしたいこと」
────オフェリアが伯爵家に雇われてから、一週間が過ぎた。足しげく別館に通い、毎日楽しそうに鼻歌を歌いながら掃除に洗濯をこなしている。ジョエルは彼女が来るのを気に留めることなく、毎日のように窓の外を眺めた。
「……もう夜だよ。君はなんでいるの?」
他のメイドは夕食の時間だ。本館の食堂でゆっくり過ごしているはずなのに、オフェリアはなぜかプレートに載った山盛りの食事をジョエルの前に置いて、自分はいっさい手を付けようともせずニコニコと椅子に座っている。
「いやあ、たくさん食べようと欲張ったら食べきれなかったので、せっかくなのでお嬢様にも分けてさしあげようかと。美味しいですよ~、毒も入ってません。まだ温かいですから、はやく召し上がってください。それとも口に捻じ込みましょうか」
さらっと無茶なことを言われて、仕方なくスプーンを手に取った。
「わかったよ、食べればいいんでしょう」
「偉いですねえ~。でもちょっとずつ食べてくださいね」
「……? なんで少しずつ?」
「今のお嬢様はあまりに細過ぎますから」
指でつまむような仕草をする。ジョエルは枝のように細い体つきで、それが栄養不足によるものなのは、誰でもひと目でわかった。
「いきなりたくさん食べようとしても胃には入っていきませんし、無理してかきこんだりすれば、間違いなく喉に詰まったり、嘔吐をしてしまうでしょう。なので、ちょっとずつ。食べれなくなったらごちそうさまでいいですよお」
それならば、なぜ大量に持ってきたのだろうと思いながら数口を食べる。久しぶりにまともな食事を摂ったせいか、なんとなく心地が良くなった。
しかし、やはりオフェリアの言った通りに食事はほとんど喉を通らなかった。すぐに空腹感は満たされ、いくらほとんど食事を摂ってこなかったとはいえ、ここまで入って行かないものなのかとジョエルは意外さと悔しさに顔を顰めた。
「まあまあ。そう落ち込まないで下さいよお。残った分は私が食べますのでご心配なく。もうそろそろお腹いっぱい食べられそうなので」
「君は人が食べ残したものを食べるのか?」
「別にお嬢様のでしたら気になんてなりませんよ。むしろご褒美ですう」
そっと置かれたスプーンを手にシチューを飲み、パンをかじり、大皿いっぱいのサラダをぺろりと平らげていく。ジョエルから見れば、自分とそう変わらない細身の女がばくばくと無尽蔵に体の中へ放り込む姿が異常に見えた。
「その体のどこにそんなに入るんだ……」
「ぬふふ~、万年育ち盛りみたいなものなのでえ」
空になった食器。満足そうにけふっ、と息を吐く。
「お嬢様も、少しずつ私みたいになれますよお」
「なりたくないよ。私が食べる意味なんてないから」
逃げられない檻の中。いずれは優しさの欠片もない父親が決めた相手と婚姻を交わすことになり、家名の存続のために使われる道具として使い捨てられるときが待っている。何を希望にも思えない毎日で、どうして何かに一生懸命になる必要があるのか。
新しくやってきたメイドの吹かせる風は涼やかで、気分の悪いものではなかった。誰のことも信じられないジョエルも、不思議と彼女は少なくとも辞めるまで自分のことを無下には扱わないだろうと思った。
もうそれだけで十分なひと時を過ごせた。
「本当にいいんですか? 食べたほうがいいと思いますけどねえ……。いつまでも土の中にいたんじゃ勿体ないですよお、世界は広いんですから」
「君に何が分かると言うんだ。逃げ出そうなんていくらでもしたさ」
やせ細った手が、恨めしそうに拳を握った。
「だけど無理だ。お父様の目はなくても、メイドや庭師が見張ってる。力で勝てる相手じゃないし、私が外を出歩けば目立ってしまう。家の中から問題を解決しないかぎり、私に逃げ場はないんだよ。どうしようもないんだ!」
苛立ちに任せてテーブルに乗った皿をプレートごと思いきり払いのけて床に叩きつけた。感情的になりすぎてしまった、とハッとしたが、オフェリアは決してそれに驚いたり、反抗的な目を向けたりはしない。
「す、すまない。こんなことをするつもりは……」
「髪は伸ばしたほうが似合うと思いますよ」
なんの脈絡もなく、ぽつりと言った。一瞬、理解が出来ず固まったジョエルに、オフェリアはいつもと違う穏やかな微笑みを向けて──。
「綺麗に洗って、伸ばして、それから夏にはお出かけしましょう。可愛いつば広の帽子を被って、夏らしいワンピースを着て、美味しいものをたくさん食べるんです。ね、そのために、今から食べられる量を増やさないと~」
ジョエルは、必要最低限の生き方しかしてこなかったせいで、かなり小柄だ。背の高いオフェリアが優しく頭を撫でて、抱きしめたとき、その細さに改めて『あまりにもか弱すぎる』と思わされた。
「お嬢様の生き方を決めていいのは、お嬢様自身だけなんですよう。誰の邪魔があっていいはずもない。──本当は、どんなことがしたいんですか?」
そう尋ねられて、抱きしめられたまま静かに目を瞑った。
「……自由になりたい。もっとおしゃれをして、美味しいものを食べて、いろんなものをみたい。……もっと外の世界が知りたい」
優しく頭を撫でながら、ひとつの目的を抱いたオフェリアの蜂蜜色の瞳がきらりと光を宿す。
「じゃあ、ひとつずつ解決していきましょう。夏には外へ出られるように」