第11話「気配」
指切りは大事な約束を、大事な人と交わす慣わしがある。もうオフェリアにとってジョエルは今最も大切な主人であり友人だ。代わりなど存在しない。
それはジョエルにとっても同じだ。ずっと曇っていた景色に光を差し込ませ、澄んだ青空へ変えてくれたのだから、差し出された小指を握り返さないわけがなかった。むしろ、それを嬉しくさえ思っていた。
傍からみれば主従だが、二人の関係は短いながら既に通り越え、掛け替えのない親友として共に歩めるだけの絆が芽生え始めていた。
「……ありがとう、オフェリア。君がいてくれたおかげで、最近は夜もぐっすり眠れるんだ。怖いと思っていたものから解放されたからかな」
「ええ、きっとそうだと思いますよお。私も嬉しいですう」
我慢できずにマカロンをひとつ、ぱくりとつまみ食いしながら。
「この際ですし、どこか旅行に行くのもありですねえ。ここで食べる高価なデザートもいいんですけど、たまには素朴なケーキも食べたくなります」
「飽きてしまったかい? 何か取り寄せてみる?」
ジョエルの提案に、首を横に振って断った。
「素朴な、というのは売り物の話じゃないんですよう。それはたとえば、おばあちゃんが作る、昔ながらの焼き立てのマフィンのような。食べたことないんですけど」
紅茶で喉を潤したジョエルが、くすっと笑う。
「食べたことないのに、食べたくなるんだな」
「ぬふふ~。そういうものです。なにしろ、私って孤児だったんで、食べてみたいものはたくさんあったし、行きたいところもいっぱいありましたからねえ」
ふと窓の外を眺めて、遠く見える太陽の柔らかな輝きに目を細める。路地裏暮らしをしていた幼少期に比べ、好きな仕事をして、好きなものを食べて。見違えるほどの贅沢をしているな、と改めて思った。
「孤児……。すまない、辛いことを聞いてしまって」
「別に辛いと思ったことはありませんよ。ただちょっと悪ガキには育ちましたけど、それもひとつの必要な良い経験だったと思ってます」
たくさんの人に傷つけられ、たくさんの人を傷つけてきた。自分なりに足掻いて生きて、失ったものは数えきれないほどあるが、同時に得たものも多かった。
「そういえば、旦那様の件で、今日は王宮に行かなくちゃいけないんでした。しばらくまた他のメイドに任せてしまいますが、大丈夫ですか?」
「今日中には帰ってくるんだろう、待てるよ」
以前のように彼女に嫌がらせをするメイドはいない。家政婦長に至っては、ガレト・ミリガンの軟禁事件において、不可抗力の中、幾分かの加担を認めた。そのためメイドたちを統括する立場としての責任は重かったが、ロイナ伯爵夫人とジョエル自身の口添えもあって罪に問われることはなく、以前よりずっと真面目に働いていた。
「王宮からの迎えが来てるわよ、オフェリア!」
「あ、家政婦長。もうそんな時間ですか?」
「まったく……。遅れたら怒られるんでしょう」
「ええ、そうなんですよお。ありがとうございますう」
部屋を出ていく前に、ジョエルの手を握って「すぐ戻りますね」と優しく微笑みかけ、迎えを待たせてはいけないと急ぐ。
伯爵邸の門前に停まっていた立派な馬車の前で、一人の騎士が立っている。オフェリアを見つけた途端、彼は胸に拳を当てて深くお辞儀をする。
「ご無沙汰しております、リンデロート様」
「その挨拶はやめてください、ロベルト。話は中でしましょう」
「は……、承知しました。ではこちらへ」
「エスコートも要らないんで。自分で乗りますから」
つんとした態度は当たり前なのか、ロベルトは言葉を返さず頷く。
一緒に乗り込んで対面に座り、馬車が走りだすと彼は姿勢を正して──。
「こんな場所でメイドをされているとは思いませんでした。魔獣討伐の最前線を担ったお方が、伯爵邸で働くなど……」
「余計な前振りする必要あります?」
明らかに不機嫌で、組んだ足をぷらぷらさせている。ロベルトは気まずそうに咳払いをしてから「いくつか話がございまして」と、仕方なく本題を切り出した。
「まずはアルメリア伯爵についてですが、十七年における実子の軟禁以外にも、多数の詐欺まがいの取引や辞めていったメイドの口封じも行っていたようです。金銭の授受や脅迫、それから──数名が殺害されています」
おおよその見当はついていたオフェリアは、虚しさが表情に浮かんだ。
「そうですか。どうせ強請りでもしようとして失敗したのでしょう。暗殺者を立てる貴族なんて探せばいくらでもいますから。……最低な気分です」
ジョエルにはとても聞かせられないな、とため息が出た。
「それでえ? 他の話っていうのは何ですか?」
「ええ、実は、念のため伯爵の件でも話はあるんですが……」
話をするロベルト自身、にわかには信じられない様子で言った。
「今回の主な目的はオフェリア・リンデロート様。あなたに頼みたいことがある、と〝議会〟の方々がお呼びになられています」
オフェリアの眉間にしわが寄った。
「あの狸じじい共が私になんの用なんですか。忙しいんですけど」
皇帝を中心に、大貴族と幾人かの格式高い称号を持った騎士が集まる、小さな会合。世間には出ないような極秘裏に行われるものだ。過去にオフェリアは一度だけ参加したことがある、とても気に入らない会だ。
「緊急の報告があるそうです。私も具体的には聞かされていませんが──八年前のような魔獣出現の兆候が皇都の近くで見られた、と」




