序幕─籠の中で─
寂しいとは思ったことがない。アルメリア伯爵家の娘であるジョエル・ミリガンは、産まれたときから孤独だった。母親は彼女を産んですぐに亡くなり、父親からは愛されなかった。その代わり、何かを求められることもなかった。
籠の中の鳥だという自覚はあった。かびの生えたパン。冷たいシチュー。腐りかけた生焼けの肉。提供される食べ物には、ほとんど口を付けず、部屋は誰も掃除をしないので常に埃っぽい。着替えはなく、いつも使いまわして、まるでぼろ布だ。囚人のような生活が続き、外の世界をほとんど知らないまま、ジョエルは十七歳を迎えた。
骨と皮で出来たようなやせぎすの身体。美しかったであろう金髪は、無理に短く切ってあって、すこしざんばらだった。葡萄色をした瞳だけが光を失っておらず、別館から見える屋敷の整った前庭を退屈そうに眺めている。
「ノックしま~す。こんこん、いらっしゃいますかあ~?」
人を舐め切ったような言葉遣い。ぺたっと張り付くのんびりした声が扉越しに聞こえて、視線は庭から扉に移った。ジョエルが返事もせずに、また窓の外を見ようと姿勢を僅かに動かした瞬間、問答無用で扉が蹴破られる。
「あれまあ、埃っぽい。廊下だけじゃないんですねえ」
ジョエルは言葉を失って、口をぱくぱくとさせながら驚くしかできない。目の前に現れたのはメイドだった。黒い髪に見惚れるような蜂蜜色の瞳。鋭い目つきなのに、どこか穏やかさを感じさせる雰囲気は、ずっとニコニコしているからだ。
「なに、君は? なんのつもりで部屋の扉を……」
「これは失礼~。メイド業務って初めてなものでして」
「だからって扉を蹴破るなんて非常識でしょう?」
語気を強めて放った言葉にもメイドは飄々とした態度を崩さない。
「まあまあ、そう怒らずに。せっかくお掃除に来たんですから、まずは窓を全開にしますねえ。ほら、いい天気と風じゃないですか~!」
振り返ったメイドの笑顔は、今まで誰の表情にも感じたことのない清々しさがあった。ジョエルはきょとんとして、それから呆れて窓の傍から離れ、ぼろぼろのベッドに腰掛けて軋ませた。
「掃除でもなんでもしてくれて構わないけど、私には関わってくれなくていいから。君にとっても、その方が都合がいいでしょう」
どうせ臨時で雇われた世話役だ、とジョエルは突っぱねた態度を取った。彼女を慕うメイドなど一人もいないし、別館の廃墟のような荒れようは、誰も『世話役』という肩書きだけで仕事をしないからだ。
とはいえ世間体もあるので、一時的な清掃業務などを担当する、その日だけの仕事を請け負うメイドを雇うことが度々あった。だから、きっとこのメイドも他の者と同じで、今日限りの関係に過ぎないと思った。
「あらまあ、つれないことを。せっかくだから自己紹介くらいさせてくださいよお、ちょっと楽しみだったんです、こうするの」
メイドの女性はスカートの裾をつまみあげて、お辞儀をする。
「それではでは、改めまして自己紹介をば。──今日よりジョエルお嬢様の世話役を仰せつかりました、オフェリア・リンデロートと申します」
不思議なメイドだった。仕える相手への敬意など微塵も感じられないし、不遜だと言えばそれだけで彼女は職を失うだろう。しかし、オフェリアは堂々としたものだ。ジョエルが感じ取ったのは彼女のメイドという仕事への好奇心だけだった。
「……家政婦長がいたでしょう。何か言ってなかった?」
「別に何も? ああ、でも確か……」
細長くきれいな線をした指が、柔らかく顎をなぞった。
「毎回、一時的に雇っていると聞いたのでえ。私でよければしばらく働かせて下さいって言ったら『どうせすぐやめたくなるわ』って言われちゃいましたよ。他の方々もそうでしたけど、なんだか皆さん冷たいですねえ」
意外そうに言われたが、ジョエルにとっては当然だろうと返したくもなる話だ。なにしろアルメリア伯爵家において彼女の存在は忌み嫌われている。どちらの親にもない葡萄色の瞳という特徴が、彼女を悪魔のように思わせたからだ。
しかし、それでも別館で十七歳を迎えられたのも、運が良かった。アルメリア伯は再婚したものの、子供にいまだ恵まれていない。正統な血を引くジョエルは、万が一の場合に備えて世継ぎを産ませればいいと考えられていた。
「皆が私を嫌う。君も、じきにそうなる」
「そうなんですか? じゃあ楽しみにしてますねえ」
まったく気にする素振りもなく、オフェリアはやはりニコニコしていて、まったく感情が読めない。それ以上、何かを言うのも野暮だと思い、ジョエルはため息をひとつ吐いて「好きにして」と諦めた。どう言葉を紡いだところで、まとも取り合ってくれる相手には見えなかったから。
「じゃあ、お言葉に甘えまして」
スッと目の前に差し出された手を見て、眉間にしわを寄せた。
「なんのつもり? 関わらなくていいって言ったはずだけど」
「ぬふふ~。ご無体なことをおっしゃいますねえ」
嫌がるのも遠慮なくパッと手を取って、優しく握りしめる。
「これから運命共同体じゃあないですか。何があっても決してやめたりしませんのでえ……。よろしくお願いしますねえ、お嬢様?」
────それが、ジョエルとオフェリアの出会いだった。